連載企画第一弾!!聖書に従うとどうなるのか実験してみますので。。。改め、人は救われたらどうなるのか?にタイトル変更しました。随時更新中




聖書男(バイブルマン): 現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記


この本ご存知ですか?

前々からかなり気になっていたんですが、、


ネットのレビューを見ると、

そこには信仰らしい信仰の姿はなく、信じたくないという気持ちを持ちながら、神もなくキリストもなく、生活の形を徹底的に聖書的にした男の姿だけがあるからである。
同じ労苦をするなら聖書の解説本を一冊読んだ方が良いような気がした。

日下俊のTheッ記から引用しました。)

ってことが書かれてあったので、、


読まなくてよかったです。つまんなさそう。。


聖書に従うとどうなるもんなんでしょうか??


まず、

その前に、聖書は結局、読む人の考え方によってどうにでも解釈出来てしまう本です。


その証拠に、、まず、、


聖書を経典として採用している宗教は、歴史が古い順に、、、


ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教です。


ユダヤ教は新約聖書は経典として認めていません。


そして、キリスト教もざっくり大きくわけて、

東方教会(ロシア正教、ギリシャ正教)

ローマ・カトリック

プロテスタント

の3つがありますし、、

特にプロテスタントには教派がゴマンと存在します。。


私の尊敬するキリスト教史専門の方は、


クリスチャンが100人いれば、神学は100通りある。


とおっしゃってました。。


これ、びっくりですよね。。


ここがキリスト教の魅力のひとつだと思うところです。。


一つの思想しか認めない。ひとつの考え方しか認めない。という国も世の中にはあるようですが、


キリスト教はめっちゃ寛容なんですよ。。


なんか、特に、日本の方は、


キリスト教はひとつの考えに凝り固まって排他的


とお考えの方もけっこうおられますが、


半分あたってて、半分間違ってますね。


イエス・キリスト以外によってしか救われないというところは確かに排他的かもしれません。

それでは一体キリスト教の寛容性って何なのでしょうか?


マルチン・ルターは聖書のことを、


イエス・キリストそのものである。


と解説しています。。ですから、


聖書を読むことは、キリストと出会い、キリストと語らうことなんです。


少し、小説を読むことと似ているかもしれません。


夏目漱石の坊ちゃんを読んで、


人によって好きだとか嫌いだとか、感想も千差万別ですよね。。


でも、そのどれが正しくて、間違っているとか、そういうのはおかしな発想じゃないですか。。小説は、頭で考えるより心で感じるもの。論理的に整合性を追求するようなものではありません。


キリスト教とは楽しむものなんです。まじめに正しいことを追求する世界ではありません。


だいぶ、前置きが長くなりましたが、、んっ!!少し、なんかこの「聖書に従う」というテーマ自体早くも的はずれのような気がしてきました。


だって、楽しむものなんでしょ!!


ですが、せっかく掲げたテーマですから、もう少しとりあえずこの線で話を進めていきたいと思います。


プロテスタントのクリスチャンの私にとって、聖書に従うとは、、イエス・キリストに従うことだと理解をさせていただきます。。


じゃあ、キリストに従う。。ってなんやねん。


新約聖書のガラテヤ 5:14に、

「律法の全体は、“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。” という一語をもって全うされるのです。」

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。


どうも、これがキリストに従うことらしい。。


まじかよ!!!!!!


せっかく従ってみたいと思ったのに、、早くも挫折ですやん。。


無理無理無理無理、、無理。


笑えて来ました。。なんのためにここまで書いてきてん!!?


もうおわりかい!!


はい。。でもイエスさまは、こんな私のことを、、よ~くご存じでおられまして、。


新約聖書のローマ人への手紙12章で

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。


とおっしゃてくださってます。。


この箇所だけ見ると、、ちょっとまた無理ちゃうって気がしますが、、


これ平たくいうと、、


あんた、無理なんやから、イエス様に任せなさい。。あなたの人生を。。


こういう意味です。


任せんねんな。。


聖書には、人生を神さまに任せたひとたちのこともたくさん出てきます。。


その中で、ダビデ王を参考にしたいと思います。。


ダビデによって書かれたと言われている旧約聖書の詩編1編に、

 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。


とあります。。

主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。


これ、ポルトガル語の聖書だと、主(神様のこと)の教えを昼も夜も思い巡らす人。。


になります。


これかな、、


いつもいつも主の教え、、、ようは、、聖書の言葉をいつも思い巡らしてみようと思います・・。


これだったら出来そう?かも・・。


それでは、また。。



2016年6月28日


さあ、前回記事アップから2週間余りが経過いたしました。


その後、聖書の御言葉を思いめぐらしながら生活していこうと決意はしてみました。が、


そうですね。。体感的に思いめぐらしている時間は1日で、1時間にも満たないぐらいでした。。



聖書に従うことは、エノクやノア、そしてダビデ王のようにいつも主の御言葉を思いめぐらしていくことだと思っていました。



でも、これもこんな感じです。とてもとても、いつも思い巡らしているレベルには達していませんね。



ふと思いがよぎったのですが、人間には行いによって神さまを喜ばすことは出来ない。。はずなんです。信じれば救われるのですから。違いますか?


だって、少しでも人間の努力や行いによって神様を喜ばせる可能性があるのであれば、あの大事な神のひとり子イエスさまは十字架で死ぬ必要はなかったはずだからです。。


聖書の中に、ヤコブの手紙という書簡があります。。


この書簡は「行い」の重要性を強調していることで有名なんですが、、


改めて確認したいと思います。。


罪から解放する神様のおきてを一心に見つめ離れない人は、すぐに忘れたりしないばかりか、その命令を実行します。1章25節。。


一心に見つめることによって行動的になれるといっています。もちろん悪いことが行動的になるのではなく、、良いことです。。


やっぱり行動をしないと神様を喜ばせられないとも、一見とれるかもしれませんが、、


行動には条件があるようです。。


一心に見つめる。。


一心に見つめることです。。



このフレーズから想像出来るシチュエーションと言えば、、


恋愛ですね。。


好きな人が出来たら、その人のことが頭から離れない。。


このシチュエーションではないですか??



何か肩に力を入れて、必死に頑張らなくても自然に見つめられますよね。。本当に恋してるんであれば。


イエス様に恋をすれば、自然と神様のこと、神さまのおきて、すなわちみ言葉を一心に見つめることが出来るんですね。。


でもかといって、いきなりイエス様に恋をしろと言われても無理ですよ。。


恋は自発的なものです。人のこころは、いかなる権力であろうと強制出来ません。。


こんどは、聖書の雅歌という書簡を見たいと思います。。


揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。2章7節

これはソロモン王が愛する女性に対する告白なんですが、神様の具体的な愛の形をソロモン王とある美しい女性の恋愛ストーリーを通して表現している書簡とされています。。


やはり、自発性を重んじてくださるんですよね。無理する必要はまったくありません。

イエス様もこちらが神さまに恋するときまで、待っていてくださるんです。


なんか、聖書に従うとどうなるのか実験するなんていう仰々しいタイトルは、やはり場違いな気がしてきました。。


キリストとの恋に落ちる。Fall in loveですよ。従うってちょっと違いますよね。。


素晴らしい!!!。から今日はここでおしまい。。


2016年6月30日


はや今年も、半分終わりました。


ことし新たに何か始めようと決意したことはありますか?


私の場合、ポルトガル語の勉強と日記です。


ポルトガル語は2014年の8月から週に6日はやり続けています。日記は


以前から書こう書こうと思っていつも挫折してきましたが、今年再再々チャレンジぐらいですかね。。。いやでも日記はどうしても毎日ってわけにはいかないんです。。この半年で8割方は書いてますかね。。でも毎日ではない。。

ところで、


前回、ヤコブの手紙1章25節を考えてみました。


罪から解放する神様のおきてを一心に見つめ離れない人は、すぐに忘れたりしないばかりか、その命令を実行します。1章25節。。


一心に見つめることが、行動につながる。


一心に見つめることは、恋愛感情に似ているのではないか??


と理解致しました。



今日もこのことを考えていたんですが、、


元メジャーリーガーで阪神、日ハムに所属した新庄剛志さんのエピソードを思い出しました。。


新庄さんの実家は、裕福な家庭ではありませんでした。そんな中、新庄さんのお父さんは、自分が仕事で使う軍手を買うのを我慢して、彼が野球で使う打撃用のグローブを、買ってあげたといいます。


それに感動した新庄さんは、両親に恩返しすべく、プロの道へ進むことを決意したという話です。


人間ってやはり、一人ではだめなんですね。


不思議ですが、自分のためにはあまり頑張れないんですよ。これは自分の経験からもわかります。


周りのひとから刺激を受けることが活力に繋がっていく、特に人から大事にされたり、愛されたりすることはとても大事なんだなあと思います。


ヤコブの1章25節はこういうことを言っていると思うんですね。


聖書が言っていることは決して無意味なことではありません。。


聖書は実生活に結構役立つんですよ。

頑張りたいけれどもがんばれない。


それは全然不思議なことではないんです。


そんなときは、そのまんまでいいと思います。


きっと心が疲れているんです。。。



愛という心のガソリンが無くなっているだけ。

怠け者だと思われる方。とても自分に素直だと思います。頑張る必要はありません。こころのガソリンが切れているだけです。大丈夫です。愛というガソリンが補充されるまで待てばいいんです。

揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。(雅歌2章7節)

何事にも時があります。(伝道者の書3章1節)


2016年7月28日


このコーナーはほぼ一か月ぶりの更新になりますね。


ところで、前回までの投稿を読み直してみて、わかりにくいなあと思うところを加筆修正致しました。お時間ございましたら、前回までの投稿(2016年7月28日という日付の前までの文章)もあらためてご覧頂ければと思うんです。


ところで、ところで、聖書の一番最初といえば、



創世記ですね。


創世記。クリスチャンでない方でもこの言葉はご存知の方がおられるでしょう。



創世記は聖書で一番最初に出てきますから、聖書でも最も読まれていると言われています。


創世記を読んで感じることは、



やはり、イエス・キリストははんぱなく、猛烈に救われた人を愛しておられる。


ということです。



アブラハムと言う人が出てきます。


アブラハムは神さまから、

「今から旅に出なさい。おまえを偉大な国民の父にしてやろう。おまえを祝福しよう」


と言われ、その通りに旅を始めました。


旅には危険がつきものです。


エジプトに来たとき、妻のサライが綺麗なので、妻を奪うためにアブラハム自身が襲われるのではないかと思い、サライにアブラハムの妹だと言わせました。兄という立場なら逆に良くしてもらえると考えたのです。


案の定、アブラハムは多くの羊、ロバなどの家畜、男女の奴隷などを王からもらいました。


アブラハムは恐れました。神様から祝福を約束されているのですから、恐れず神様を信頼していれば大丈夫だったのに、神を信じずに自分で策を講じました。


このあと、王にサライが妻であったことがバレて、アブラハム夫妻はエジプトから追放されました。しかし、獲得できた財産までは没収されませんでした。。


ここで、不思議に思うのは、自業自得ではないんです。神を信じずに行った行為ですから、神様から見れば反抗的な行いであったわけですから、アブラハムに対して何か懲罰的な結果がもたらされても不思議ではありません。


しかし、妻は王の手から戻され、そのうえ財産までも手に入れることが出来たのです。


アブラハムは放浪の旅を続けることになりました。アブラハムは非常に裕福になりましたが、一緒に旅を続けてきた甥のロトも裕福になったので、同じ場所では管理出来なくなり、ロトはソドムとゴモラという町に引っ越すことになりました。


そのころ、その地方で大きな戦争が起こり、甥のロトが捕虜にさせられてしまいました。


このロトを救出するために、アブラハムを一族総勢318人を引き連れ、戦争に勝ったほうの軍に対して、夜、奇襲をしかけました。それがまんまと成功してしまったのです。ロトだけではなく奪われた財産までも取り戻すことが出来たのです。


地域を治める王に率いられるような軍隊に、親戚連中で組織した素人集団が勝利したのです!!!!


ありえません。大体、このような軍隊に奇襲を仕掛けることすらありえないのですが、それが成功までするのは信じがたいことです。


アブラハムが奇襲を決起することが出来た背景には、先のエジプトでの経験もあったのではないかと思います。神様への信頼がより強くなったのだと思います。それがあの奇襲作戦につながり、勝利までしてしまいました。


神さまが約束してくださった通り祝福されたのです。


この祝福は、アブラハムの子孫の代になっても続きます。


アブラハムの孫にあたるヤコブは、ヤコブには双子の兄エサウがいましたが、神さまから「兄が弟に仕えるようになる」と約束されていました。


ヤコブの父イサクが晩年に長子であるエサウに祝福を与えようとしましたが、ヤコブは母と結託し、兄に変装し、父を騙して祝福を奪いとりました。


このことで、ヤコブは兄から遠ざかり、母の実家のあるカランの地に逃れることになりました。


ヤコブはそこで大変な思いをするものの、結果的に12人の息子と1人の娘を与えられました。



ヤコブも策を講じてしまいました。それでほぼ追放されるような形になってしまいしたが、多くの子供に恵まれることとなりました。ヤコブも約束されていたのですから、策を講じる必要はありませんでした。でもヤコブにはまだ神様への信頼がありませんでした。信じられなかったのです。


そして、そして、祝福物語は続きます。


ヤコブの息子たちの中でも、ヤコブが本当に愛した妻ラケルの子であったヨセフは腹違いの他の兄弟よりも父に愛されていました。


妬ましく思っていた兄弟たちは、ある日ヨセフを売り飛ばしてしまいました。兄弟は父ヤコブに対しては、野で野獣にかみ殺されたとうそをつきました。


売り飛ばされたヨセフはエジプトに行きました。そこでやることなすこと成功したヨセフは王に取り立てられ、王の次に偉い立場で行政を任されることになりました。


全世界的な飢饉に見舞われていたものの、エジプトだけは食糧を蓄えていたため、難を逃れていました。さらに諸外国からエジプトに食糧買い付けにくる人も大勢いました。そんな中に、このヨセフを売り飛ばした兄弟達も買い付けにエジプトに表れ、ヨセフと運命的な出会いを果たし、彼ら兄弟をはじめヤコブの一族はエジプトで不自由なく暮らしていけるようになったのです。


如何でしょうか。救われた人でも、時には信じられず、罪を犯してしまいます。しかし、それら一つ一つを通して、どういう訳か祝福というか、憐みを与えて下さるのです。神に従わなかったとしてもです。


聖書の神は、イエス・キリストは、決して因果応報や自業自得なんてちっぽけな神様ではありません。


何よりも救われた人と良き信頼関係を構築されたいとお考えの神様は、そのためにはすべてのことを用いて、たとえそれが間違いであったとしてもそれを活かして祝福し、神様への信頼関係を築いてくださるのです。


というわけで、やはりタイトルはおかしいですね。「聖書に従うとどうなるのか実験してみますので。。。」従うというのは、失礼。アブラハムやヤコブたちの歩みを見てもわかるように、従えないけれども、すべてを益に変えてくださる神がいました。そして神が必要をも満たしてくださいました。奇跡もありました。


だから、救われた人には神はどうされるのか??人は救われるとどうなるのか?にタイトルを変更致します。


人生楽しみですね。神は何をして下さるのか。奇跡だってありますよ!!

人生は自分で切り開くものといいます。日本人にとっては常識かもしれません。


しかし、

クリスチャンにとっては、神様が切り開いてくださる人生を楽しむ。ということになります。自殺なんかしている場合ではありません。


よく、クリスチャンは聖書で禁じられているから自殺しないなんて言われますが、違います。神様が切り開いてくださる人生を楽しいから自殺なんかしてる場合ではないということです。


何をやってもそれを有効活用してくださるんです。信じられますか?


救われた人ってどんだけ素晴らしいのでしょうか?


救われたとは、受け身の表現です。これは人間には出来ないということなんです。人間自身には自分自身を救うことが出来ないということです。


それは神様がお出来になることです。救われるためにはどうすればいいのでしょうか、


救われてイエス・キリストを信頼する。

でも人間には出来ないんでしょ??そうなんです。

だから神様に救ってもらうしかないんです。どうすれば救ってもらえるか?


少しでも救ってもらいたいと思えば救ってくださいます。


2016年8月5日


最近日本では、自由というものにこだわりが無くなってきたように感じます。

自由へのこだわりよりも安定した生活へのこだわりのほうが強いのではないのでしょうか?

自由と束縛は、相反するものです。自由であって束縛されているというのは二律背反というやつです。

ありえないはずです。

戦後の高度経済成長時代に、終身雇用の下でのサラリーマンライフは、安定していた半面、自由がありませんでした。

90年代以降、契約社員という新しい雇用形態が浸透しはじめました。今までの正社員よりも給与水準は劣るものの、会社からの束縛度合は軽減され、自由度は増しました。

しかし、この契約社員もしくは派遣社員という形態が普及しはじめると、今度は経済的安定のために正社員を求める人が増えました。

自由というのは恐ろしいものです。自由のあるところには責任が伴います。

そのすべての結果への責任は全て自分に降りかかってきます。

結果、怖くてなにも出来なくなる。自由であるにもかかわらず。。。

アメリカは自由の国と言われています。自由を愛する国と言われています。

こんな恐ろしい自由を愛するなんて、アメリカ人は余程強いということでしょうか?

決してアメリカ人が強いからではありません。日本人と同じ人間です。

これは、アメリカ人の多くが持つイエス・キリストへの信仰に原因があります。

イエス・キリストを信じるということはどういうことでしょうか?

イエス。キリストに自分のすべてを任せること。自分の人生を明け渡すことに他なりません。

謂わば、イエス・キリストに束縛されるということになります。キリストの奴隷だということです。

「奴隷」という言葉はあまり好感の持てる言葉ではないと思います。

奴隷ということばから連想できるものといえば、白人による黒人奴隷でしょう。

黒人は白人によって人間扱いされず、人権はありませんでした。

ここで少し考えたいのは、この原因はいったいなんだったのかということです。

奴隷という制度的な問題なのでしょうか?

私は、どちらかというと、制度ではなく、奴隷の主人の問題ではなかったのかと思います。

身勝手で自己中心的であったことで、奴隷たちはひどい仕打ちを受けたのではないかと思わされるわけです。

もし、奴隷の主人が物凄い人格者であったならば、今では想像も出来ないような「違った奴隷制度」があったかもしれません。

しかし、不完全な人間が構築した奴隷制度は惨憺たる結果に終わりました。

問題はその主人なのではないか。

それでは、イエス・キリストが奴隷オーナーだったらどうなのでしょうか?

イエス・キリストは、私は良い牧者です。と言っています。

牧者とは、良い羊飼いという意味です。

良い羊飼いは、羊をあらゆる危険から守り、必要な食糧などを適宜分け与えます。

キリストは良い羊飼いのように、救われた人たちをそれぞれの使命が全うされるまで、あらゆる危険から守り、そして養うと約束しておられるのです。

ここに安定があります。

そして、あらゆることを益としてくださる。とも約束しておられます。

日常生活の中では、自分の思う通りに行かないことは多々あります。

その原因がほかの人にある場合、その人を憎しみ始めるでしょう。

憎しみがもたらす実は、さまざまな闘争を引き起こし、最終的には殺人へと繋がっていきます。

しかし、すべてのことを益となると信じることが出来れば、憎しみは消え去ります。憎しみから自由になるのです

人間は実は、憎しみの奴隷になっているのです。それだけではありません。

お金、名誉欲、また恋人、大事な友人そして親への過度な依存も、ある種の奴隷です。

人間は実は、自由ではありません。必ず何かに頼っています。何かの奴隷になっているのです。

奴隷にならざる負えない存在なのではないでしょうか?

ですから、奴隷であること自体悪いことではなく当然のことなのではないでしょうか?

大事なのは何に依存するか?でしょう。

この依存する対象が多くのアメリカ人にとって、イエス・キリストであったということなのです。

アメリカ人にとっての自由とは、イエスキリストに束縛されることによって得られる「安定」によって、憎しみ、お金、国家、様々な人間関係のしがらみなどからの自由なのです。










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