ヤングケアラー、でした。

中学生の17人に1人程度が該当する「ヤングケアラー」。親や兄弟の世話をしなくちゃいけない、それが当たり前だと思って生活する子がいます。
私もそんな1人でした。
気がつけば、両親共に精神疾患を患っており障害年金を受給。家事ができる時とできない時の差があり、できない時にやっていたのは私でした。
また私とは4コ、11コ歳が離れた弟の世話もあります。4コ違いを弟くん、11コ違いを末っ子くんと言わせてください。弟くんは発達障害、小学校に入学してからは良く問題ばかり起こして、担任の先生からの電話が週に1回、必ずありました。末っ子くんはADHDで保育園の頃から目を離せば怪我をしそうな場面になってしまうために、片時も目が離せない。
これが我が家の日常です。

この生活になるまでには、両親の離婚、母子家庭、母の再婚、と親の都合に振り回されてきました。
血の繋がった父は、借金、浮気をしており、金融機関からの電話がずっとなっていたのを覚えています。その電話の音が嫌になって、電話線を抜き泣いた母も、数十年も前の話ですが未だに鮮明に残っているのです。
この頃、母はキッチンになっては泣いていたように、子どもの私には見えていました。5歳の私が、1歳の弟くんに離乳食をあげています。子どもながらに「これがお姉ちゃんの役目なの?」と思っていました。

私が小学校1年生の時、両親は離婚しました。
離婚するまでに様々なことがあったと思います。弟くんから聞いた話では「お姉ちゃん(私)に、本当の父のことやその生活の話はしないであげてね」と、母が言っていたそうです。
離婚の決定打になったのは、父から私への暴力だと思います。
楽しく家族4人で遊園地か買い物か、夜遅くに帰ってきた日、リビングは私と弟くんのおもちゃで足の踏み場なんてありません。それを見た父が「片付けろ」と怒鳴ったのです。
私は父の怒鳴り声を無視して、出かけ先から手に入れた風船で遊んでいました。手首に巻かれた糸の先に繋がる風船が、ふわりふわりと宙に浮かんでる。追いかけっこみたいに、狭いリビングを走り回ってました。
次の瞬間、景色は一転します。

お腹への痛みと母の大きな声、さっきまで居た場所から2、3メートル離れた窓際、吐き気、父の足の裏。
私が片付けもせずに、風船で遊んでいたことが父を怒らせたのです。まだ6歳だった私のお腹を蹴り飛ばして、暴力で分からせようとした、んだと思います。
これだけ当時のことは鮮明に覚えていても、ここから先のことは覚えてません。
次の記憶は、トラックに家具を運ぶ引越しの場面なのです。
小学校にはちゃんと通っていたと思います。父に蹴り飛ばされたのは、まだ入学して間もない頃だったからです。夏休みが始まってすぐに、当時の友達に別れを告げるまもなく、その土地から逃げるようにして離れました。
母も父から暴力を受けていた、と聞いたこともありますし、これまでのことが積もり積もって「離婚」と行った形で、父から逃げ出したんだと思ってます。
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