なんとなく、うまくいきそうなこと
この世には、なんとなく、うまくいきそうなことと、どうしてもうまくいきやしないことがある。そんな中で、絶対に達成したいことや、なりたかったけどなれなかった理想があって、真面目に話しあいたいテーマと趣味としてだらだら雑談したいテーマが混在している。
世の中の経済や政治について語っている人々だって、大体は「自分を立派に見せるため」だけのために話しているだけで、これっぽっちも興味がないでそれについて話していることが多々ある。僕だって、それに気づいたのは大学で政治や国際関係について勉強し始めて2年がたったころだった。それまでは、本当に自分が政治に興味があると思い込んでいたのだった。がしかし、本当のところは、うまく話せない自分が受け入れられないから、知識不足を補いたいだけだった。社会を混乱させようともくろむポピュリストや元N国党、ごぼうの党のような政治団体は愚かだと思っていたが、より愚かなのは僕だった。別に政治に興味なんてないなら、大学で勉強などしなくてもよかったのだ。自然科学を勉強していればどんなに良かっただろうか。
それでもなお、いくつか気付いたことがある。自分に立ちはだかる問題は、親や環境に恵まれすぎた結果、今まですべてが自分の思い通りになりすぎてきたということ。自分が興味を持つのは、人文学や社会科学の中でも思想史、国際法史の分野なのかもしれないということ。今後の自分は、人生の設計図を自分で書いて、自分で実行していかなければいけないということ。
自分の人生の設計図に従って自分で能力を伸ばしていくというのは、ひどく無理な理想論に思える。しかし、僕の本当の課題は、「自分の人生の設計図を描くこと」そのものなのだ。描かれた設計図に従って機能を実装していく作業に関しては僕はかなり高いレベルで実行していけることが分かった。しかし、「目標設定」は絶妙に自分の伸びしろを理解したうえで行っていかなければいけない。「目標を達成する実力がない」というよりは「欲張って高すぎる目標を掲げてしまう」「自分の実力を過小評価してレベルの低すぎる目標で満足してしまう」のどちらかが多かったのだ、よく振り返ってみると。
自分で投資したい対象を決めること。株式投資をする先、加入する生命保険サービス、入学する学校、就職する企業、買う車、住む家、恋愛する相手、結婚する配偶者。話したい事、聞きたい音楽、見たい絵、聞きたい漫才師。それらとの闘い。自分の力を決めるのは自分自身で、他人ではない。今までそういうことを決めるというイニシアティブから逃げてきた。
僕は今大学にいる。さわやかで知的な青春の遊びとして、もう少しだけ学問に向き合ってみようと思う。人文学を含む社会科学の一分野として、国際政治学や国際関係学、文化人類学、国際法学の交差点に位置する自分の問題意識にとことん向き合ってみようと思う。
ところで、趣味として取り組みたい程度の問題とは何だろうか。僕は趣味分野で興味がある程度の問題を大学での学科に選んでしまった感が否めない。なぜ、本当に気になる問題に今まで手が回らなかったのだろうか。友達と話すのが楽しかったからだろうか。自分でその問題にリソースを割く覚悟がなかったからだろうか。自分が愚かな人間だからだろうか。
切実に自分の人生にかかずらってくる問題と、閑話休題的に意見を交わしたい問題、そしてそういう問題にどういう態度で取り組んでいくかというのは人間の課題であり、そこの意識を変えていくことで人生は変わっていくのだろう。
これからは、立派で、純粋で、真摯な人間にならう。
自分の中にあるもので、社会やより大きな集団のおかしいと感じるところは、ある意味一番人間としての自分が反映されてくるところなのかも知れない。そういう意味で、僕やあなたがどういう人間なのかというのを知るのは非常に興味深い。本質的に人間を人間たら占める感情は、僕にとって、深い孤独であり、世の中の正義や公正への疑義である。
その正体を明らかにするための自己表現を行いながら勉強して、生きて、働いて、家族を養っていくのだろうと思うが、すべての学問や労働は僕の場合その疑問の解明に充てられるのだと思う。
何も恐れる必要などは無いはずだと思う。自分を信じてみればいいのだと思う。すべてが上手くいっていた時代も、すべてが上手くいかなかった時代も終わり、そのどちらでもない時期がやって来た。全能感も絶望感もこうなっては無用の長物で、やるべきことをやるべきなのだが、一応自分の気持ちをここらで一度整理しておいた方がいいと思った。
血のにじむような努力、ではないが、粘り強さに粘り強さを重ねるような学問や芸術表現の努力は、孤独に立ち向かっていくものなのだろう。そして僕には、前者に対しても後者に対しても適性がなかった。今まではそうだったからこそ、設計図を描く人の下について、馬車馬のようにひたすら指示された課題や演習をこなしていくという流れが多かった。しかし、これからはそうもいかないのだ。
これからはというか、今もうすでにそうはいっていないのだ。それはなぜかというと、イギリスと日本では学問の形式が異なるからで、日本の頃学生として必死に知識を詰め込んで勉強していたやり方がこっちでは通用しなくなっているからなのだ。
とある本に書いてあったアラブのことわざで、言葉は口に出すまでは自分が言葉の主人だが、口に出すと言葉が自分の主人になるというものが紹介されていて、言い得て妙だと思った。説明しないままで理解できること、というのがある。見た瞬間に、はっとして、自分の知っていたことかのように知識として定着する現象があって、説明しないと理解できないことは説明しても大して理解できていない。
日本とイギリスの学問のそれぞれの面白さは、漢字とアルファベットの違いにあらわされると思う。議論の流れと感じが持つ象形性の二つの特徴によって、この差ははっきりする。英語の文法は、口語でもって議論するのに非常に適した形をしている。
まず主語を述べる。IとかYouとかItとか言った後に、それがどうした、ということを言うのであるから、自分がこう思うとか、議論の主題となる現象はこういうものだとか、分かりやすい。それに比べて日本語は、まず、これはこうで、それはそうで、あれはああで、と、いちいち分かりにくいのだ。
それが、文章になるとその関係が逆転する。日本語の文献は非常にわかりやすいし読みやすい。国内秩序と国際秩序の共振論は、世界の秩序がどのように平衡を保っているかを理論として説明している。これは文面を見ればなんとなくわかりやすくて、国際政治というものは国内の事情と国際的な政治経済の事情がそれぞれ影響しあって、つまり共振して現状に至るのだな、とわかるが、英語の国際関係学にあるようなCopenhagen SchoolとEnglish SchoolとCritical Theory of Frankfurt Schoolの違いなぞアルファベットだけ見ても何もわからない。
でも本当は、こういう事柄、知識の一つ一つにだって、熱中したいのだ。分かりづら過ぎるこの世界を自分で航海していける実力が僕にはないが、本当はそうなりたかった。ビジネスの世界だってそうだった。中途半端な実力しかないけれど、立派なリーダーになって見たかったのだ。
ほかのどんなことだって、「くだらない」と思えるほどに熱中して、今まで自分にとって必要だった休憩時間をどんどん削って、仕事や勉強に精一杯になっていきたいのだ。戦いは嫌いだけど、戦える実力は否応なく身につけなければいけないみたいだ。そういう意味で、立派な人間になりたいと思う気持ちは、不純な動機だろうか?子供のころに立派な大人になりたいと思っていた気持ちが、今になって再び純粋な形でよみがえってきた。
大学生活あと一年、必死に戦ってみようとは思いますけれど。
自分が今まで立派な大人を目指してきて、「立派な大人を目指す」ということについて桎梏が生まれてしまっていたのは、どういうことなのだろうか。
きっと、僕にとっては、中学・高校の6年間の人間関係からの脱却がいまだに済んでおらず、そしてそれは、自分が他人に対して消極的に、受動的に過ごしてきたということが影響している。詳しく言うと、人間関係ややることなすことについてほかの人のやりたいこと・達成したいことを傾聴し、それをサポートしていくという立場を取ってきたということが大きいのだろうと思う。
過去の僕に対して、今まで何をしてきたんだ、というつもりは今はあまり無い。寧ろ、今の僕をいい意味で形作る人格形成の時期を担っていたのが、今までなのだろうと思う。ただ、昔は未熟だった、というだけの事だ。
もう少し、「目の前の自分の闘いを他人に押し付けて自分は目をそらす」という選択肢を選ばないようにできたらよかったのだが、そうもいかなかったのを責めるつもりもない。他人を責めるつもりなど毛頭ない。少し前までそうだったように他人を責めていた自分もいるが、それを反省する気もない。それは自分の正当性が今になって揺らいでいるという事ではなく、社会的な正しさを担保する手段が他にあるということが知れたというだけの事である。
自分が気のすむまで探求したいようなことというのは、ひとつは理論のことであり、もう一つは法のことである。理論にもいろいろな理論があり、理論の歴史もあれば、国境やアイデンティティ、人種や性別の先鋭的な理論もあれば、正しい戦争を論じる安全保障の理論もある。民主主義の正当化理論もあれば帝国の歴史を記述する理論も存在する。
法とひとまとめに言っても刑法、民法、憲法、国際法など様々で、それぞれにそれぞれの学問が存在する。今僕は、より詳しくこれらの理論について話をする力を持たない。
なので、続きはいつかの自分にまかせて、いまは勉強をすることにする。自分についてより詳しく分かったら、また続きを書こうと思う。ただ、今は自分の勉強不足で自分の興味のある分野の「それ」について語る言葉が無い。
それでは、次回の記事もごひいきに。