ふつうさ(社会の冷たさと希望の芸術)
こんにちは。岡崎です。
このまえカフェに入って久しぶりに、文庫本を少し読みました。なんていうタイトルだったかな。いくつか読んだのですが、辻村美月さんの『鍵のない夢を見る』と、浅田次郎さんの『姫椿』の冒頭をパラパラとめくって、そのそれぞれがよく印象に残りました。
読み終えてはいないものの、どちらの作品も平凡な登場人物が出てくる本たちでした。
僕はときどき、なんともなしに人生において詩や本、芸術が果たす役割について考えることがあります。突飛ですが国会議員は任期中には文庫本を読んでいる余裕はないだろうな、などと考えます。社会人も同様だろうと思います。自分はまだ社会人ではないですが、会社に入ったらそういう心の余裕や興味すらもなくなってしまうだろうなと想像しています。
仕事の連絡を返して、必要な資料をつくったり調べ物をして、Youtubeを見て、お昼ご飯を食べて、洗濯をしたらもう夜で、週末は終わりで、仕事の準備をして床に就くという風なライフサイクルになることでしょう。おそらく、今の僕がそのまま入社したらそうなります。
小説や詩を読むのは、学者や、学生など暇のある普通の人の専門の事業なのでしょうか。競争の階梯を上るにつれて人は、文庫本を読むような「ふつうさ」から逸脱していくのでしょうか。
上記二作品の冒頭では、どちらも、平凡な性格造形が意図的に配置されています。『鏡のない・・・』の方が少し田舎の町を舞台にした話で『姫椿』の登場人物は都会に住んでいます。前者の女性は、アイドルを目指していたけれど地元の町でお伊勢さんに参拝する一日ツアーのバスガイドとして明るい人生を送っていて、後者の女性は、飼っていた猫をドライフードが含む金属の生態濃縮によって殺してしまったという悲劇のさなかにある会社員である、という対照的な描写でした。
どちらも、日本を探せばどこにでもあるお話。辻村さんも浅田さんも、どういう取材や構想を経てこういった人物を描き出したのかこそわかりませんが、「奇抜な人物設定」をつくりあげることによって読者を作品に引き込
むプランを持っていたという訳ではないことは確かです。
それとは対照的に、佐藤正午さんの『月の満ち欠け』では、特殊な状況設定が最初に挿入され、読者を引き込んでいきます。主人公の男は、なぜか自分の家族の、非常にパーソナルな過去の思い出を知っている少女と、初めて行った東京ステーションカフェで会話する場面からオムニバスが始まります。
この本については良く知りませんが、「佐藤」という姓に「正午」という奇抜なネーミングから佐藤正午さんについては少し知っていました。また、「岩波文庫的」という普通とは違う出版シリーズ名から、面白そうな感じを感じて手に取りました。
僕は、この作者が、『鳩の撃退法』という長編を書いていてそれが少し前にインターネットで宣伝されているのを見たという知識だけありました。それにしても岩波文庫的、とは。今考えると気になる。買えばよかったなあ。「的」とは。
また、ある学者の人は「窓際のトットちゃん」と「どくとるマンボウ」シリーズを読んだとインタビューで答えていましたが、どんな偉い人でも自分の人生観に貢献した物語や映画、本があるという事は変わらないと思います。色々な業績を数えたり仕事を進めて、周囲から良い評価を得ている人々にとっても、こういった本と自分とのつながりを持っておくことはとても大事なのだな、と思います。
この日僕が訪れたカフェは文庫本を多く取り揃えている本屋兼コーヒーショップだったのですが、結局買ったのは重松清『哀愁的東京』でした。
この本も冒頭がとても面白くて、カフェで2時間ほど時間を使ったのですが結局この本を残りを楽しみに購入しました。少しづつ読み進めます。
カフェの具体的な店名ですが、神戸の個人の方がやっているコーヒー屋「かささぎ」でした。東京には、こういう個人喫茶店の新装開店は少なくなってきていると思います。スタバ、タリーズ、ドトール、上島珈琲店、猿田彦珈琲、コメダコーヒー、等々が幅を利かせています。
そこにきてこのnoteのタイトル「ふつうさ」なのですが、僕は、これらの文庫本を読みながら、「コーヒーを飲みながら小説を読むというのは最高に『普通の体験』だな」と思ったのです。そして、同時に「小学生や中学生、高校生だったころは図書館や図書室が一番好きな場所だったなあ」とも思いました。
どんな人間にとっても個人の人生を語る上で思い出深い作品が大切だと思ったことを書きましたが、人生が進むと活字離れをする時期がやってきてしまって、どうしようと思っていた矢先に素敵な本屋カフェに行けたので、色々と考えてこのnoteを書いてみました。
人はみな大人になると、文庫本を読まなくなります。読む時間が取れなくなります。別に本が好きな人でなくても、高校や大学を卒業するまでに何冊かの小説は読んでいるはずですが、大人になると、いくら小説本を無理やり開いてもリラックスした気持ちになれなくなります。これは由々しい事態ではありませんか。
小学校を出て、中高を出て、大学を出て、企業に入って、中間管理職になり、さらに昇進したりして退職するまでに、自分の「成長キャリアストーリー」を信じ続けなければならず、その犠牲として読書体験が徐々に失われていくのかもしれません。忙しそうに、または社会人として賢明そうに見える方が有利だという理由で通勤電車の中では岩波文庫より日経電子版を見るのかもしれません。
文芸が価値のあるものだと知りながら、心はインターネットにガッと囚われ本を読んで一息入れようとはいかなくなってしまうのです。少なくとも、僕が文庫本のフィクションをしっかり読んだのは高校3年生の1月に最後に読んで以来4年ぶりの出来事でした。
スタバでYoutubeやNetflixより、家で麦茶でも飲みながら文庫本を読むほうが質がいいのに、なぜ人は安直に前者を取るのでしょうか。僕は行動経済学者ではないしよくわかりませんが、一つの個人的な仮説が生じています。
それは、競争する人々は芸術を「無駄」だと考えているのだろうということです。不便で理解しにくい芸術は、費用対効果が薄いように感じられがちですが、事実、きちんと休まないと、人間性がむしろ薄くなってしまいます。
話が飛びますが最初の二冊、『鍵のない・・・』と『姫椿』に戻ると、地方都市でお伊勢参りのバスガイドをやる女性も、愛猫を亡くした28のOLも、人間社会の網の目の中に生きています。
その中で、色々な感情を抱いたり、人びととの交流を経験したりして、読者はそれを読んでいろいろな心情風景を心の中に描きます。小説の登場人物にとっては紆余曲折があったとしても、そこには人間関係があり、人びとが生きている世界の中に登場人物も生きています。
しかし、です。社会の生き方は実力主義・メリトクラシー的論理が優先し、受験戦争時代から社員時代まで現代若者の悩みは小説のように解決されずドロップアウトして終了、という悲しい結末に終わることも少なくありません。自分の実力を伸ばして、仕事や学業をバリバリと進めていこうと考えている才能ある世界中の若者が年齢に関わらずこの孤独で冷たい悩みと付き合っていることでしょう。
そして、そういう競争の荒波を乗り越えていくには、「無駄」を排すことが最上の必要事項だとされます。無駄に遊ぶのは悪なわけです。しかし、文庫本を読むような生産的な時間は無駄な時間のなかにも散在しています。
成長のためには無駄な時間を減らさなければならないが、成長のためには無駄の中にある人生の豊かな側面をも吸収しなければいけないという矛盾・パラドックスが人間生活に突き付けられていて、人は、突き抜けるかあるいは競争を一抜けすることでしかこのパラドックスから逃れることはできません。大学受験の最中に一抜けしても就職して自己の成長と向き合う時期のこの矛盾に再び向き合う人も多いことでしょうね。
こういった社会の冷たさや機能性をテーマとして扱う小説、例えば村田紗耶香の『コンビニ人間』などもありますが、これはだいぶアクロバット的テーマを取る珍しい物語ですね。
かくして、我々現代人にとって、息をいれるというのは難しいことになったわけです。社会は本当に冷たい場所です。組織に入るのは意外と簡単です。学校や会社が指定する生き方をすれば、本当に組織で生きるのは困難なことではありません。
しかし、自分で何かをやりたいと考えると、例えば家族での時間を多くとったり、なにかの個人的な趣味を作ってそれに時間を割いたりといった活動は時に社会が望む人間の生き方から逸脱することになり、組織からは許されない孤独な挑戦をする、というような不利な形勢に置かれることになります。
そうした理由で、家族や組織からのサポートのない挑戦というのは大抵失敗に終わりますが、それを継続するには、その習慣を、競争的にではなく、「ふつうに」つづけるのが大事なのだろうと最近思います。
人生の「ふつうさ」はとても大事です。多くの人々が「ふつうさ」を見失うがゆえにドロップアウトしていきますが、良い年収や学歴を確保することよりも、「小学生の頃に感動した本を忘れないこと」や「学生の時に将来なりたかった自分の夢を忘れないこと」のような一見大人の眼から見れば陳腐で平凡な、「ふつう」の自分を一貫して生きるということがメンタルの危機を乗り越えるには重要です。
なにかを始めようという意思が燃えている間は良いものですが、習慣を継続していると、問題になってくるのがモチベーションを継続していくことと、うまく息をいれつつ習慣を続けることです。息をいれないと、心が疲れてしまいますが、息をいれること自体にもエネルギーを使うために、人は途中から諦めてしまいがちです。
成功するのは、何度でも戻ってきて自分の手法を改善して長い目で物事に取り組むようなタイプの人ではないでしょうか。そして、休息に役立つのが芸術です。
芸術は、社会の公共の場で政治や産業といった仕事に用いられることはできないけれども、国・社会の文化の土壌となる栄養分であり、個人的な人生のストーリーの手がかりとなり、共同体を支える礎となる必要な要素です。
芸術を失った人生、文庫本を読む余裕を失った生活というのはもっと悪いことが起こる前兆でありリスクです。そういった生活を長く続けていると、自分の人生が良い方向に変わっていっている気はしても、そのうち人生が数字にとらわれて空虚なものになりかねない状態です。
ストイックに学業に励んだり働いたりしている間は気にはならないかもしれませんが、芸術に向き合うというのは自分の人生を「ふつう」の領域にとどめておくために大切な努力です。なんでも、「ふつう」を逸脱すると、危うさをともない始めます。
『コンビニ人間』の主人公は、コンビニという冷たい有機体の中で冷たくプログラミングされた機械のように接客の作業を行いますが、人間にとって、作業化されたサービスよりも、ゆったりとした喫茶店の店員さんに「ふつう」に笑いかけてもらってコーヒーを入れてもらい、本でも読んで時間をつぶす、というようなどこにでもある「ふつう」の瞬間が命を救ってくれると思います。芸術とは、そういう「ふつうさ」のあるものですね。
人びとにとって、逆境の中にあっても力強い希望の意思を持ち続けるためには、そういった「ふつう」の体験の蓄積を忘れないことが不可欠かも知れません。