BLと腐女子の謎を考える その1
腐女子にとって受と攻とは何なのか?
腐女子沼に落ちてからそろそろ4年、地味にずっと
「これはいったい何なんだろう」
と考え続けてあれこれ資料を漁ってみているのですが、このBLの好みの受と攻や物語のタイプ、好みじゃないものの違いが当人の何に由来しているのか未だに解明できない。
腐女子じゃない人、特にそのへんにゴロゴロいる自分の願望でしか女を計れないオッサンから見たら
「女が性欲を発散するためにBLを読んでいるのだろう」
という理解だろうし、
「受は自分、攻めは自分が恋愛したい男、その物語は自分がしたい恋愛を投影しているんだろう」
という所になると思う。
まあそういう傾向の人もいるだろうし、そうじゃない人もたまたまそういうride onな読み方を楽しめる作品に出合うこともあるかもしれない。
しかし私は未だかつて(見た感じ女性に近い)美少年受という属性に萌えたことがないし、受が女性風味であってくれればと思ったことはないので、絶対にそうじゃないと強く思う部分があるからこそ、
「コレ何なの?」
という謎のままなんです。
まだ子供時代に萌えてよく覚えているBLのエピソードは、青池保子先生の「イブの息子たち」の無名の秘書(地獄の王)とバージルの毒の飲み合いや、大島弓子先生の「バナナブレッドのプディング」のゲイの大学生とその相手のサドの老齢の大学教授がムチをふるうド修羅場で、今のBLものの好みもそれに通底するものがある。
ちなみに男女の恋愛物ではそういうものを見たいとか萌えるとかはないのです。(男女物で記憶に残る程のものは(あんまりないけど)映画「ラマン」の美少女とボンボン華僑青年とか、「天城越え」の女郎田中裕子と少年、まんが日本昔話の「火とぼし山」とか。恋愛によって肉体的精神的社会的に死んだり破滅する展開。これはこれで不穏路線だけど、男女で毒の飲み合いや嫉妬によるむち打ちを見たいとは思えず、BLの好みとちょっとズレている。)
しかし最近読んだこの中島梓(栗本薫)「美少年学入門」にあったJUNEに寄稿する漫画家達との対談を読んでいてヒントになるものがあったんです。
ここで語ってる竹宮恵子先生と中島梓(栗本薫)先生の「好きな男の子」は、彼女達の描くBL作品中のカップリングや受攻キャラの原形と言っていいと思う(ささや先生はBL作品は描かれてませんが、こんな風味のシーンが男女カップルで「たたらの辻に」なんかにあった)。
どちらもすでにそこにいる現実の生身の男の好みなのだから、そこに自分を投影してるのではなくて、やはり普通に「好みの男性」を語る範疇にあると思うんです。
自分不在の、好みの男たち同士の物語ですね。「好みの男性と自分の夢物語」ではないのです。
さらに、
対談の続きで中島梓(栗本薫)が語る好みの人物像は、男女問わず「正真正銘の天才、スター」。
BL処女作「真夜中の天使」から、没後10年以上たってkindleで最近完結した晩年の大傑作「矢代俊一シリーズ」(東京サーガシリーズ)まで、主人公の受は音楽や演劇のスター、かつ「上級生に囲まれている子(=有力者や皆から好かれる人物)」ということで一貫していたと思う。
特に矢代俊一シリーズは、話が進むにつれて主人公・俊一が色々な奇禍に巻き込まれ、それをきっかけに次の恋愛や波乱万丈の事件につながり、それらを肥やしに人間として奥行を増していき、音楽家としてもますます磨かれていくという永久機関のような展開になり、やがては互いの変化や色恋の生々流転を経て「色即是空、空即是色」という悟りの境地に至る傑作なので、柱になっているのは「音楽の天才・矢代俊一の人生」の物語ということになると思います。
なのでBLですが、BLの枠にとどまりません。全く凄い。
読んでいると何度も俊一がいかに天才か、いかに人々を魅了するか、あるいは天才ゆえに時に嫉妬されたり人と違うために孤独だったかが繰り返されるので、「栗本薫自身がそういう自分イメージを持ちたくて、自分を反映したくて書いたのか?」とちょっと勘ぐってしまう事もあるのですが、それにしては過酷な災難に会いすぎているし、時にはボロクソだし、元は沢田研二のドラマの中の役柄をイメージしてスタートした一連のBLワールドだし、他にも違う分野の天才が複数出てきてこれがまた百花繚乱でめちゃくちゃ面白い展開になり、いわば栗本先生の好む人物像の全部盛り、簡単な作者の自分夢物語とはやはり思えない。
膨大な作品数と、自分自身を語っているエッセイを残してくれていた栗本先生を一番の資料とするとそうなるので、まあ
「私はめちゃめちゃ自己投影してますよ」
という人もいるかもしれませんが、竹宮恵子、ささやななえ両先生も好みの男のタイプと創作作品の類似性があるし、やはり私は
「BLは自己投影やライドオンではない」
と思うのでした。
対談記事からして、受攻のタイプは両方とも作家の好みの男性像を反映しているとして、物語の展開が一体何に根差しているのかはいまだにわからないのですが。
ちなみに私は、男女モノは通常結婚して子供を産んでという展開がハッピーエンドの雛型ですが、恋愛物語として私はそれはあまり面白いとは思えないのですよね。
方向性として自己の人生のマテリアルな充足が下地にあるので、それは他者への愛としてどうも説得力が薄い気がしてしまう。理屈ではなく。
(現実には結婚し子供を産み育てることが時にはリスクが沢山あったとしても)
たとえ今の暮らしや自己が破滅するとしても突き進む、私はそんな物語の方が他者への愛情の強さや魅力を感じるのだなと、自分が面白いと思えるBLを探してみて初めて気が付いたので、BLってのは面白いものですね。
でも、自分がそういう恋愛をしたかった事はもちろん一度もないわけですよ。
現実では普通に真っ当な人と普通に結婚して子供が生まれればいいなと思っていたわけです、もちろん。
そういう意味でも「自己投影なわけない」と思います。
しかしこの感覚はいったいどこから来ているのか。うーむ。
生まれつきそういう愛の理想、イデア、神話をもっていたとしか言いようがないのですが。
何なんでしょうね、コレ。