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留年をしたあなたへ② 私の大学生活

はじめに

 こんにちは。前回は留年生の就職活動についてまとめました。私が伝えたかったことは要約すると、「厳しいことを理解しながら、強気で臨もう」ということでした。偉そうにいろいろ書きましたが、そもそも「こいつなんで大学6年生やってるの?」と疑問に思う方もいることでしょう。そこで、私の人生最大の汚点である2度の留年について語りたいと思います。あまりにも恥ずかしい経歴なので、その実態については親友にもずっと秘密にしてきました。拙い文章だと思いますがご了承ください。

1度目の留年 大学2→3年進級次(2019〜20)

 私の大学では、多くの学部が3年に進級する際にキャンパスが変わります。郊外にある「THE大学」的なキャンパスから、都心の真ん中に位置する無機質でつまらないビルへと変わります。そして、同時に進級可否が決まります。この進級の失敗は通称「〇〇止まり」と呼ばれ、〇〇とは1、2年のキャンパスの所在地を指します。私は、この「〇〇止まり」を経験しました。その理由は必要な単位が不足していたからです。なぜそんな状況になったのか、理由は単純で、学校に行かず遊んでいたからです。これだけです。
 私は高校まで、サッカーと受験勉強に励む比較的真面目な学生でした。しかし、都内の私立大学に進学するとどうなったと思いますか?私もついに大学デビューを果たしてしまったのです。髪色は明るくなり、耳には大量の趣味の悪いピアスを垂らし、奇声を発しながら飲酒や喫煙を繰り返すようになりました。この変わりように、地元の友人の中には私を怪訝に思った人もいたと知るのはもっと後のことでした。

2度目の2年生 最大の失敗 (2021)

 留年が決まったとき、親からは当然の如くひどく叱責を受けました。高い学費を払っているのですから、当たり前です。ただ、父親も大学時代に留年を経験していたことや、コロナという特別な時代背景もあり、勘当とまではいきませんでした。私はまたもやありえない行動に出ます。学校に通わず、自らサークルを立ち上げるという道を選んだのです。一時は反省したつもりでいたものの、その気持ちもやがて薄れ、「もう1年伸びた!」という愚か極まりない考えのもと、新しく立ち上げたサークル活動に熱中していきました。気づけば、その年に取った単位数はわずか4単位。本当に救いようのないクソ野郎ですね。私の大学生活史上、最低の成績でした。
 一度目の留年で芯から自分の不甲斐なさを見つめ直し、行動していれば、現在の情けない24歳学生生活は避けられたはずです。本当に何でも良かったのです。長期インターンでも、資格勉強でも、GPAを上げるための勉強でも、何一つ行いませんでした。こうして、変わるチャンスを私は自らドブに捨ててしまったのです。

3年生 始まった新キャンパスライフ(2022)

 進級要件をギリギリ満たして始まった新キャンパスライフ。都心のキャンパスにはかつての同期たちが多くおり、安心感と喜びを覚えたことを今でも思い出します。私が3年生になる頃、彼らは就職活動に取り組み、次々と進路を決めていく最中でした。内定を獲得した同期たちの姿を見て、私は憧れを感じました。IT大手、鉄道大手、メガバンク、専門商社、コンサルティングファーム、メガ損保など、一流企業ばかりで、就職活動の「し」の字も頭にない私でもその名を知るほどの会社ばかりだったのです。そして彼らはガクチカ、シュウカツノジク、タマテバコ、グルディスと訳のわからない単語を会話中に並べ、盛り上がっていました。当然、私はその輪の中に入れませんでした。そこで初めて、「あれ、俺、置いていかれてる?」と、自分の置かれている状況の危うさに気づきました。そんなキラキラしている友人たちを見て、自分は留年していて、しかも単位がギリギリであるなんて言えるはずもありませんでした。ずっと余裕だと虚勢を張っていたのです。私が二度目の留年をしたと聞いた友人たちは、皆大変驚いていました。
 そして残りの単位状況ですが、卒業するためには2年間で92単位が必要でした。落としてよい授業は2年間で2科目まで。それ以上落とすと、再度の留年が確定します。今考えると、かなり厳しい状況でした。しかし当時の私は、「俺が本気を出したらフル単なんて簡単卍」という謎のプライドを持っていました。意味不明です。3年間で42単位しか取得していない奴が、なぜその倍以上の単位取得を容易に達成できると思ったのでしょうか。しかし意外や意外、実際に3年生では46単位を取得しました。1単位授業である語学の再履修を受講した関係で46がマックス単位だったので、実質フル単でした。

4年生前半 迎えた1度目の就活(2023春)

 さて、私にも1度目の就活の時期が訪れました。授業がパンパンに詰まっていて就活のことなんて考えていられなかったため、就活を始めた時期も4年生になる2月の半ばという比較的遅い時期でした。そして就活をはじめた私が思ったことはひとつ。
「就活思っていたより大変じゃね、、、?」
自己分析、企業分析、学生時代の経験、自己PR、ウェブテスト対策と、やるべきことが山積みで、何から手をつければよいのか分からなくなってしまいました。さらに、私は卒業見込み証明書を貰えないという壊滅的な状況に陥っていたのです。正確に言えば、単位を取得すれば卒業は可能であるものの、大学から正式な卒業見込み証明書を発行してもらうことはできないということです。「卒業できるなら問題ないじゃないか」と思われるかもしれませんが、日系企業の多くが卒業見込み証明書の提出を学生に求めています。私は学部に何度もお願いし、学部オリジナルの非公式な卒業見込み証明書を作成してもらい、それを持って就職活動に挑みました。
 その頃には、「なんとなく自分も有名企業に就職できるだろう」という甘い考えはすっかり消え失せ、ただただ自分の行動を後悔するばかりでした。

4年生後半 2度目の留年(2023夏〜24春)

 結果として、1度目の就職活動では中堅証券会社2社と地銀から内定をいただくことができました。分からないなりに進めた就活と、週5の対面講義への出席はやはり非常に大変でした。おそらく大学に入学してから、私が最も忙しく動いていた時期でした。もし単位を多く残して就活に臨む方がいるのなら、相当に気合を入れる必要があります。面接でも突っ込まれることが多く、スケジュールもタイトになりがちです。 
 私は7月下旬にはほぼ就職活動を終えていたと記憶しています。某独立系大手証券会社の選考フローの終盤まで進んだものの、残念ながら落ちてしまいました。しかし、春学期には24単位中22単位を取得し、秋学期にすべての単位を取得すれば晴れて卒業という状況になりました。

就職活動については悔しい気持ちもありましたが、並行して単位を取得したことで自分に自信がつきました。この時期はプライベートも充実しており、就職活動の精神的な辛さから解放され、残りの大学生活をフル単位で修了するという強いモチベーションが生まれていました。
しかし、現実はそんなに甘くはありませんでした。結果から申し上げますと、秋学期の最後の最後に2単位、つまり1授業分を落としてしまいました。それはテストの評価が100%の授業でした。大学のポータルサイトに「原級」と表示され、嗚咽と震えが止まりませんでした。授業にはフル出席し、この2年間で90単位を取得していました。そして、卒業後の進路も決まっていて、広島配属への準備も進めていました。今考えると、そんな状況を作り出してしまったのは自分自身であり、テストにももっと力を入れて、万全な対策を行うべきでした。すべて、本当にすべてが自分の責任なのです。改めて文章にすると本当に情けなく、男としてこんな恥ずかしいことがあるのかと思います。いまだに友人たちには恥ずかしくて顔向けできないと感じています。
 留年が発覚した2日後、地元の日本酒を土産として用意し、スーツを着て、長くメッシュカラーだった髪を黒く染め、短くカットし、担当教授に救済措置の直談判をしに行きました。正直、絶対に怒鳴られると思っていましたが、逆に諭されてしまい、「俺、本当に何をやっているんだろう」と地酒鳳凰美田の一升瓶を両手に御茶ノ水駅で大号泣したことは、つい昨日のことのように感じます。こうして、5年間で132単位しか取得できず、たった2単位のために孤独な6年目のキャンパスライフと2度目の新卒就活がスタートしました。

2度目の4年生(2024春〜現在)


二度目の就職活動の詳細については、前回のNoteに記しておりますので、そちらをご覧いただければ幸いです。簡単に触れますと、どうにか証券業界で内定をいただくことができました。現在は、金融系の資格取得を目指しつつ、学費返済のためのアルバイト、そしてフィットネス大会への準備に励んでいます。
 就職活動は一段落しましたが、家族との間には依然として深い溝が存在します。特に父親とは3月以降、一度も言葉を交わしておりません。どのように声を掛ければ良いのか、関係を修復する方法は何なのか、正直なところ全く分かりません。来春からの社会人としての自分の姿を見せることで、少しずつ認めてもらうしかないのではないかと考えています。親に返済する学費もまだ10万円ほどしか貯まっておらず、飲食店でのアルバイトやタイミーを利用して、ひそかに少しずつ貯金を続けています。

さいごに

  以上が都内によくいる私立文系大学生が調子に乗って地獄を見る5年半の概要でした。私の大学生活は清々しいほどに大失敗であったと言わざるを得ません。もし将来を見据えてインターンシップに参加していれば、進路はもっと素晴らしい可能性に満ち溢れていたかもしれません。留年せず大学の友人と一緒に進級できたら、共に過ごす時間を増やし、もっと深い友情を築けたかもしれません。本気で留学を目指していたら、語学を武器に新しい価値観に触れられたかもしれません。もちろん、過去を振り返っても仕方がないことは分かっています。しかし、私の失ったものの中にはおそらく残りの人生でも回収できないほど大きなものがあったはずです。
 ただ、留年したからこそ出会えた人々や、大切にしたいと思えるものに気づいたことも事実です。私はこの経験を完全に反省し、心を入れ替えたとは言い切れませんが、その過程で得た教訓や人間関係の価値を見出すことができました。そして反省とは、失敗を成功の糧にして初めて周囲から評価されるものだと痛感しました。それまで、何ができるのかを深く考え、日々の生活を送ります。それがいつの日か真の意味での反省につながるのだと思います。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

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