『あの娘にキスと白百合を』 上原愛について
この文章は、2019年5月刊行の『あの娘にキスと白百合を』完結記念合同誌「あの娘にキスと合同誌を」(発行:清蘭学園高等部保護者会)に「上原さんにも白百合を」として寄稿したものです。noteへの掲載にあたり一部表現を改めています。
台詞の引用元は(巻数・話数・掲載ページ数)の順で文末に示しています。
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はじめに
「青春群像物語」として数多の魅力的な少女たちの多様な関係を描く本作であるが、「主役」を挙げるとすればやはり“白黒”こと白峰あやかと黒沢ゆりねであることは論を俟たない。
あやかとゆりねの物語は、「相手の存在は自分にとって如何なるものか」「自分の存在は相手にとって如何なるものか」という悩みを軸に展開していく。
自分の希求するものを相手に求めて悩み、自分が相手に抱く気持ちの正体に悩み、自分の存在は相手にとって“特別”と言えるのか悩む。こうして相手と、そして自分と向き合うあやかとゆりねの姿がさながら“ターン制”のごとく視点を変えて描かれていく。この構造は恋愛(しばしば「相手を“特別”と思うこと」と表される)が主題の作品においては王道とも言えるものであるが、本作を歴史に残る傑作たらしめているのは、あやかとゆりねのストーリーラインを貫きながらも、二人を取り巻く少女たちの恋を、各々がひとつの作品として成立するレベルで、しかも作品内で孤立させることなく有機的に関与させて織り込んでいる作者の卓越した腕前であることは間違いない。
瀬尾瑞希が陸上選手としてのキャリアにピリオドを打って二階堂萌と向き合うきっかけはゆりねとの勝負であるし、雪村藍花が青井灰音と共に居続けることを肯定したのは西河いつきである。
“清蘭生徒の鑑”として学園内で多くの交流を持ち、人付き合いにまめなあやかが、自身の悩みと変化に対する手がかりを多くのキャラクターから引き出していくのに対し、他者との交流を拒絶してきたゆりねに影響を及ぼした人物は各々を強調して描かれている。園芸部の面々はもちろんだが、他にも例を挙げたい。
あやかのいとこ・陸上部の瑞希は、ゆりねの獲得を目論む萌によってゆりねと引き合わせられた。ゆりねは自分を“天才”として遠ざけようとする彼女を拒絶するが、
…私は あやかちゃんとは似てないし 勝てるとはやっぱり思えないけど… 黒沢さんを 目標にする!(①・3話・pp.112-113)
と今までの周囲とは異質な反応を見せる瑞希に対して若干ではあるが態度を軟化させる。
世の中にはね 思ってたより いろんな人がいるなって思ったの だから たまになら… 一緒に走るのも いいかもって思ったの(①・4話・p.131)
また、中学時代の同級生であり、ゆりねを誰よりも長く見てきた町田郁は、彼女の成長を肯定して背中を押す大役を担っている。
…町田さん 中学のころと比べてあたし変われてるかな?
うん! すごく変わったと思う!!(⑨・44話・p.123)
しかしながら、物語の最序盤から終幕まで、ゆりねを導き続けたのは、本作の“狂言回し”とでも言うべき役割を果たした上原愛さんであると筆者は確信している。
いささか前置きが長くなりすぎたが、本稿では、ゆりねの変化と成長のフェーズを追いながら、それを支えた上原愛という少女の振る舞いについて検討していく。なお、本稿はゆりねの成長それ自体に主眼を置くものではなく、それゆえにゆりねとあやか、郁、園芸部の面々との関係についての考察は割愛した。そして何より、上原愛というキャラクターの振る舞いを表層的に観察するに留まり、彼女の人間的魅力を十分に言語化するに至っていないのは、ひとえに筆者である私の力量不足である。平にご容赦願いたい。
殻を破る少女
愛の快進撃(?)はすべての始まりである第1話で既に見ることができる。他人との関わりを拒絶して机に突っ伏して寝ているゆりねに対して、愛はこう声を掛ける。
黒沢さーん 土曜のカラオケ よかったら一緒に行こ!(①・1話・p.15)
日下部千春の発言がよく示しているような、遠巻きに見ているクラスメイトの態度とは対照的である。
あれだけ何でもできると ちょっと近寄りがたいっていうか…(①・1話・p.15)
ゆりねは自分と遊びに行っても楽しくないと愛の呼びかけを無視するが、あやかの取りなしによって考えを改めた。最終的なきっかけを与えたのはあやかであるとはいえ、ゆりねが纏っていた“殻”をいとも簡単に破ってみせた愛。他人との距離を縮めることに関しては、万能の“天才”・黒沢ゆりねを凌駕する天賦の才の持ち主ではなかろうか。
なお、先ほどのようにゆりねを敬遠していた千春も、第44話では殻を抜け出て成長したゆりねを表して「変わった」と述べている。ゆりねの変化に対する“クラスメイト”としての感想を代表している貴重な台詞である。
…黒沢さんって 変わったよね
高等部に入ったころはとっつきづらかったけど本当はもう少し親しみやすい人だったのかもって…(⑨・44話・p.122)
愛を与える少女
かくして華麗なる勝利を収めた愛の活躍が次に見られるのは第5話。陸上部に顔を出した帰り、ゆりねは千春と愛に偶然出会う。
手持ち無沙汰な様子のゆりねを愛は半ば強引に誘う。その様子にゆりねは第1話の出来事を思い出し、一緒に行くことを決断した。もちろんゆりねの判断は記憶の中のあやかの姿に影響されたものではあるのだが、相手が愛でなければ躊躇ったのではないだろうかと筆者には思われる。
会話の流れから休みの日の過ごし方を問われたゆりねは、寝て食事をしての繰り返しだと答える。ポジティブな解釈のし難い回答だが、愛は間髪入れず明るくツッコミを入れたのち、天真爛漫に
じゃあ今日ってすっごいレアじゃない? ラッキー!!(①・5話・p.164)
と流石の反応を見せた。そんな愛の態度につられてなのか、柄にもなく
普段はやりたいことも 一緒に遊ぶ人もいないし
寝てるのが一番良い…(①・5話・p.164)
と打ち明けるゆりねに、愛は
じゃああたし 友達一号だ!!(①・5話・p.164)
と喜んでみせた。無粋な例えだが、もし人間関係にタイムアタックがあれば、世界記録が狙えるのではなかろうか?
第5話には、他にもゆりねの物語において見逃せないシーンがある。
目的の買い物を終えておやつタイムに入ったゆりねと愛。徐々に心を開き始めたゆりねに対し、愛は更にもう一歩踏み出してみせる。
ねえねえ おそろいでなんか買お ともだちといえばおそろいよ!(①・5話・p.164)
注意深い読者の方は、「ともだちといえばおそろい」というフレーズでピンとくるだろう。そう、第35話のあやかとゆりねのクリスマスデートに登場する
あたしとおそろい 友だちの証だよ(⑦・35話・p.147)
という台詞には、まさしくこの経験が活きているのである。隙のない演出にただただ感服するほかない。
第5話のラストでは、ゆりねが
ひとりがさみしいこと 思い出してしまったから(①・5話・p.176)
とあやかに語る。“天才”と扱われるゆえの孤独から抜けだそうとしているゆりねの痛みが伝わってくる、重みのある台詞だ。
寄り添う少女
少々時間を進めて、2年になったゆりねと愛の話に移ろう。
“天才”としてのゆりねを追って園芸部に入った中等部の後輩・灰音の何気ない発言に心乱されるゆりね。何でもできるゆえに「好きなもの」がないのではないか、自分は「からっぽのまま生きていくのかも」(⑦・32話・p.41)しれないという恐怖からひとり思い悩む彼女に、愛からピンチを知らせる電話が入る。
大変大変 たいへんなのー! 駅前にいるから早くきてー!!(⑦・32話・p.41)
愛のピンチとは、秋のバーゲンで買い物を堪能しすぎた結果、荷物を一人で持ちきれなくなったというなんとも愛らしいものだった。荷物持ちのお礼に「甘いもの」を奢ると愛がその場を離れたところに、郁が通りかかるが、彼女には連れがいた。ゆりねと郁の中学校での同級生、「■■ちゃん」である。
中学時代、体育のバレーボールの授業。ゆりねとクラスメイトの戦力差を理由に諍いが起きた。バレーボールに思い入れがなく、物怖じしないゆりねの態度に、バレー部だった彼女の怒りが爆発、修復不能な亀裂が生じていたのだった。
精神的な成長、そして「大切にしてきたもの」がないことへの負い目から当時のことを謝罪するゆりねに、「■■ちゃん」はこう言い放つ。
今更何をどうしたって みんな黒沢さんが嫌いだよ 自業自得じゃん(⑦・32話・p.51)
そんなとき、愛がゆりねの手を握って入り込んでくる。持ち前の明るさでその場を収めた愛は、ゆりねに荷物持ちのお礼として飲み物を渡すと、何も問わず歩き始めた。
もちろん偶然に偶然が重なったという考え方もできるが、愛が割り込んできたタイミング、そして明るく振る舞って会話を強制的に終わらせた様子は意図的なものであるように筆者には思われた。また、誰もが当然感じ取るであろう険悪な雰囲気を見ていながら、何が起きたのか問おうとせず、気にする素振りも見せない愛の姿には、ゆりねへの深い思いやりを感じる。
なお、「みんな黒沢さんが嫌いだよ」というあまりにも壮絶なフレーズ、これはもちろん清蘭におけるゆりねの人間関係、そして「みんな白峰さんが好きだよ」(⑤・23話・p.86)を踏まえたものであろう。
おわりに ――与えられた少女――
ここまで本稿で触れていないところにも、愛の天真爛漫で慈愛に溢れる振る舞いはしばしば垣間見られ、また愛に関するゆりねの行動や言及にも見逃せない場面が多数あるのだが、紙幅の都合上今回は泣く泣く割愛させていただく。機会があればどこかで語りたいと強く願っている。
ひとつだけ、最終話のデート中、あやかに対する何気ないゆりねの台詞を引用して締めたい。
上原さんおすすめの映画があるんだー(⑩・50話・p.161)
ここまでお読みいただいた読者の皆様が次回『あのキス』を周回する際に、何らかの新しい視点を提供できていれば幸いである。
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書いていたときは合同誌自体の編集で手一杯だったので無の境地でしたが、掲載のために読み返していたらよくもこんな駄文を書けたものだと反省しています。反省のためにnoteに置いておきますので、何卒お手柔らかにお願い申し上げます。
◆日頃は東京大学百合愛好会の会報を担当しています。よろしければ公式Twitterをご覧ください。→ https://twitter.com/UTokyo_yuri