ゲゲゲの謎と、天気の子の比較について
先日呟いた内容がなんか、まとめられたんですが、自分の発言を見ていたら、うーん、ここは違う表現の方が良かったかも……とか、一貫性として変だな。ってところが出てきたので、ちょいと補足を書かせてください。
以下、ゲゲゲの謎と、天気の子のネタバレが出てきます。
因習村の正確な定義がないよねという話
はじめにですが、ゲゲゲの謎を見てた時に、これ天気の子じゃん!って思ったので書いたのがそもそもの始まり……なのでぶっちゃけた話、正確に用語を使おうと思っていたわけではなく、大分混乱を招いてしまったと思います。
この件については「そもそも用語が不適切なのでは?」「私が考える因習村とは異なる」という意見を沢山いただき、また、特に美少女ゲーム界隈からは「美少女ゲームでも因習村物があるのだけれど、それはまた別の文脈がある」との指摘をいただきました。
言われてみると、私は漠然と、横溝正史的な田舎の村の怖さと、昔話の人柱とかを指してこの言葉を使っていましたが、そもそも正確な定義は無いよね。ということで、「天気の子と、ゲゲゲの謎は同じ因習村物」という主張は正確ではなかったと思います。以下の文中で私が使う「因習村」は横溝正史のような、昔からの伝統が根強い場所。と考えていただければ幸いです。(天気の子に関しては、後述する理由でまた言及させてください)
ということで、「天気の子と、ゲゲゲの謎は、物語の構造としてかなり似通っているのでは?」という主張に変えさせてください。
因習村としての東京
天気の子って舞台が東京なだけで、やっているストーリーは、外からやってきた主人公がその土地の住民と親しくなり、その土地で行われている生贄の儀式を知ってそれをやめさせる。というストーリーなんですよね。
で、これってゲゲゲの謎でも同じなんですよ。んで、両者ともやめさせた時の影響も結構甚大で、東京が一部水没したり、村がまるごと滅んだりするわけですが。
この過程で描かれるのは、「大多数の幸福のために少数を犠牲にして良いのか?」という話であり、どちらの主人公もそれを良しとしない。自らの意思で断ち切るんですね。
ただ、指摘してくれた人がいるんですが、両者には大きな違いがありまして、天気の子における東京都民は、そんな生贄システムがあることなんて知らないんですよね。
だから、「東京のために、お前は犠牲になれ~!」みたいなセリフを発するキャラは全く出てこないんです。須賀さんが「人柱1人で狂った天気がもとに戻るなら、おれは歓迎だけどね。……てかみんなそうだろ」って言うぐらい。
一方ゲゲゲの方は、バリバリそういうセリフが出てきます「大義のため」「お国のため」「日本のため」みたいなのをガンガン出してきます。それは戦争に行かされた水木にとって許せない言葉であり、だからこそ水木は斧を振り上げるわけですが。
ここが大きな違いだと思うんです。天気の子における東京は、必ずしも良いところだとは描かれていません。深海監督が「東京オリンピックのために綺麗になる前の東京を描きたかった」と発言していましたが、実際町並みは汚いし、スカウトマン木村とか、搾取してくるやつも描かれている。でも……徹底的に悪の街として描かれているか?と言われると絶対に違うと思うんです。
主人公たちを追い詰める「大人」も、自分の務めを果たしている訳ですし、大人の立場からすれば、主人公たちは、保護が必要な年齢なので見過ごす訳にはいかない。大人の責任をちゃんと果たしている。
だから、東京は因習村か?と言われるとちょっと感触は違うかもしれません。だってそこは悪い場所では無いし、主人公もまたそこに戻ってくるわけですから。
ただ、公開当初から思うことなんですが、作品の中では、東京は因習村と言い切れない描写になっているのにも関わらず、なんと、作品の外からまるで因習村の住民のような声がわらわらと出てきてしまったんですね。
「東京のためにこいつが犠牲になればいいだろ」
って。いくつか紹介したんですけど。ゲゲゲを見た人なら、ああこういう感じなのか。と分かってもらえるはず。
いわば観客の反応が因習村を完成させてしまった。と私は考えています。
ということで、訂正させてください。「天気の子は因習村モノである」というのは正確ではないと考えを改めました。「天気の子には因習村の要素が含まれているけれども、東京を因習村にするかどうかは、観客の手に委ねられている」という方が正確ですね。あくまでも私達次第なんです。
ゲゲ郎の存在
天気の子とゲゲゲの違い、他に大きいのは、やはりゲゲ郎の存在だと思うんですよね。何しろゲゲ郎が犠牲になったおかげで日本は滅びずに済んだわけですから。(もっともここの「日本が滅びるぞ!」は具体的にどうなるかが分からないわけですが……あの幽霊みたいなのがわらわら出てきて、国民を呪い殺すのかしら?)
正直言って、ちょっと我々に都合が良すぎる展開でもあります。ゲゲ郎は本来人間の命や日本という国には関係ないし、「じゃ、それで」で退散しても良かったはず。水木も「日本なんて知ったことか。お前が犠牲になることはない」みたいなことを言ってますしね。でも、ゲゲ郎は自分が犠牲になることを選んだ。
「お前とそれから生まれてくる子供のために」と言っているので、別に人間が好きになったわけでもなく(とにかくゲゲ郎に対する人間の仕打ちは最悪すぎるので)、友人としての水木と、それから鬼太郎のため……なんでしょうが、やっぱりちょっとご都合主義的な感じもします。
やっぱり「日本が滅ぶぞ!」ではなく「村が滅ぶぞ!」ぐらいにしておいて、さらに、呪われた水木を助けるため……とかの方がスッキリ行ったんじゃないかな。なんて思うんですが。
まあ、それはともかく、村はしっかり壊滅していますので、舞台になる場所が被害を受けるという意味では、天気の子とはさほど変わりません。
悪役の主張について
悪役の主張についてツイッターに書いたんですけれど、かなり分かりにくくなっていたので、補足させてください。
ゲゲゲの謎には、めちゃくちゃ悪そうな悪役が出てきて、こいつがとにかくすべてのヘイトを受け止めて退場していくわけですが、そいつ関連のセリフで、こんなセリフがあったら、印象が違ったのではないかという件についてです。
「お国のため」「大義のため」「日本のため」というセリフは確かでてきたんですが、「ワシを殺せば、日本の復興はなくなるぞ!」みたいなセリフは直接は言っていなかったはずです。(ただ、「日本が滅ぶぞ!」は言っていたはず)
天気の子ですと、水に浸かった東京のイメージで、大きな被害を受けたんだなということが分かるんですが、ゲゲゲの方だと、セリフのせいで「こいつを殺したらなんか影響でるんかな」という所がちょっとわかりにくい事になっているんじゃないかなと思うんですよ。実際影響は出るとは思うんですが、ただ、我々は知っての通り、戦後復興を成し遂げています。ですから、この老人が「ワシが導かねば」というのは、「こいつなんていなくても普通に復興できたし……」ということで、観客の立場から見ると、正直な所「(ま、多少資金面で速度は落ちるかもしれないけど)そんなことなかったじゃん」程度の話でしか無い。
もっとも、(これは私も言及ミスっているんですが)天気の子でも東京は壊滅しているわけではありません。変わってしまった世界で、それでも人間は強く生きている。言ってみればこれも、「東京が水に使ったら日本は終わり!と思ったけど、そんなすぐには終わらないよな……」という状態であります。
注意して欲しいのが、爺が生きていてMが存在した世界の日本がどうなっているのか、我々は知ることができないということですね。もしかしたら、爺が導いた世界では、Mの独占によって日本はアメリカを超える経済大国になっていたのかもしれず、バブルも崩壊せずイケイケドンドンだったのかもしれません。
だけど、それでも、やっぱり水木は斧を振り下ろしたと思うんですよ。人間の尊厳を取り戻すために。
まあ、ぶっちゃけた話、爺にまかせておけば全てうまくいくかというと、かなり疑問だと思います。というのも、すでにMの原料は枯渇しているので、完全に詰んでいるんですね。ペラペラ喋って悪役ムーブしている場合じゃないだろ!
何が言いたいかというと、どんな結末が待っていても、帆高は陽菜を助けに行っただろうし、水木は斧を振り下ろしただろうということで、結果として起こった被害の大きさを比較するのは、結果論でしか無いと思います。
悪役を出すかどうか
これは2つの作品で大きく違うところです。私としてはこれはどちらの選択肢も一つの考えであり、どちらが優れているかなどの話ではないと思っています。制作サイドの考えで決めてもらって構わない。
悪役を出したゲゲゲの方ですが、とにかくこいつにヘイトが集中するので、お話としてはわかりやすくなっていると思います。ただ、悪役が全部を引き受けてしまったので、「村の外も同じ」というメッセージは薄れてしまったのかもなと思うんですよね。
対して天気の子では悪役が不在なので、巨大なシステムの恩恵の享受者である都民が割りを食う展開になり不満が溜まるわけですが、その分だけ「東京も誰かの犠牲の上に成り立っているのでは?」というメッセージが強くなっていると思うんですよね。
重ねて言いますが、どちらが優れているという話ではなく、どこに集中してほしいかということなのだと思います。
因習村というのが、かなり差別的なのでは?
ツイッターにも書いたんですけど、因習村モノって、社会に適応してとても幸せな人間から見れば、未開の地域を自分の常識で正す気持ちのいい話になりますし、社会に馴染めない人間にとって因習村はこの社会そのものだから、そこが壊れることに嬉しさを覚えるものだと思うんですよね。
全く違う両者が同じ作品を見て、全く別の方向性から満足する。そんな面があるんじゃないかと勝手に思っています。
んで、その上で考えると、差別的という考えは実際正しいと思います。でも、差別的だからこそ、「お前らは因習村を指さして笑っているけれどよぉ!お前らのいるところだって、同じだろうが!!」という展開が輝くと思うんですよね。
自分とは関係ない世界の話だと思ってたのか? 違う!ここだって、どこだって、多かれ少なけれ因習村の問題を抱えているんだ!って。私はこういう展開に非常に弱い。それは結局私が社会に馴染めない人間だからかもしれませんが。
ただ、同じく因習村をニコニコ笑って楽しめる人もここに来ると違いが出てきます。因習村なんてどこか遠くの世界で、それを自分の価値観で正すんだ!と思っている人は、「お前の所も因習村じゃん」と言われると、怒り出す傾向があるように思います。
でも……いや、だからこそ私は、「自分もいつのまにか因習村の住民になっていないだろうか?」というのを考えて欲しいと思います。いつのまにか、ゲゲゲの爺みたいに「大義のために犠牲になれ!」と他人に言っていないか。もし、自分が因習村に生まれていたら……システムに疑問を持つことはできるのか。私が見た感じ、ゲゲゲの悪役みたいなことを言うアカウント、結構な数いるようですから(すごい沢山リプライが来る)
最後になりますが、繰り返して書かせてください。「天気の子」の東京は、作中では決して「因習村」と呼べるような存在にはなりきっていないと思います。それを因習村にするかどうかは、観客である私達次第だと思うんです。
私達は因習村を捨て去ることはできるのでしょうか。それともいざその立場になると、「村のために犠牲になれ!」と言い始めるのでしょうか。
ここまでの話はあくまでもフィクションを扱ったものです。幸いなことに現実の東京は天気の巫女を人柱にしなくても成り立っていますし、Mなんて薬品はこの世に存在しません。楽しんだものがちで、それをグチグチ考えるのは、意味のないことだ。そういう考えもあるかもしれません。
フィクションが行動に影響するのかどうか。私は意思決定をするのはあくまでも各個人ですから、その個人の判断は尊重されるべきだ。それが人間の尊厳なんだ。という立場ですから、「フィクションの影響で~」という言説には否定的です。
ただ、人間は他人の経験を聞いたり読んだりすることで、自分の経験にできるという特性を持っていると思っていまして、頭の中で切る行動の手札の枚数が増える効果はあると思うんですよ。
現実に戻った時、日常生活で、会社で、学校で、なにかの決断を迫られる時、ふと「もしかして、俺、因習村の住民になっているかもな」と思って少し考えるチャンスが生まれるなら、頭の中で切れる手札のバリエーションが増えるなら、私はそれは意味のあることだと思うんですよね。
時々で良いので、因習村のことを思い出して、自分の行動を考えてみると、なにか次に繋がっていくんじゃないか。私はそう思うんです。
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