キング・クリムゾンの能力と運命論について今更まとめてみる
ジョジョの奇妙な冒険 第5部、黄金の風のラスボス、ディアボロ。彼の使うスタンド能力、キング・クリムゾンですが、先日Twitterで能力考察が盛り上がっていたので、以前提唱した「キング・クリムゾンの能力って作品のテーマである運命論と結びついてんじゃないの?」について備忘録を書いておきます。
なお、断っておきますが、あくまでもイチファンによる「こういう風に解釈すると筋が通るんじゃね?」という説なので、別に公式設定とかじゃないです。You Tubeとかでしたり顔で解説しないように!恥かくぞ!
今回の検証ですが、電子版(モノクロ版)を底本にしました。これは、文庫版が元になっているので、ジャンプコミックス版とは巻数などの違いがあります。ご注意ください。
とにかく分かりにくい能力
キング・クリムゾン、とにかく能力が複雑で分かりにくい。謎な演出も入りますし、エピタフとかいうサブ能力まで付いている。
一応、ジョジョの奇妙な冒険文庫版のスタンド紹介には
と紹介されていまして、文字通り解釈すると、時間をスキップできる。ただし、その間の時間は自分だけが動ける。みたいな感じ。
ザ・ワールドみたいな時止めとは違うのは、スキップした時間の間も相手が動くこと。ただし、意識はないため、予め動こうと思っていた通りに動く。その状態で世界に干渉するもしないも、自分が選べる。
作中での動きを見る限り、この解釈で間違ってはいないような挙動をしています……が、初登場時にどうやってエレベータの中からトリッシュを連れ出したのか。とか
柱の後ろにいたのは、オレだった?ってのは一体どうなってるんだよ。とか言われるとマジで困る。多分これがキング・クリムゾンの能力を分からなくしている原因じゃないかと……というか、マジでなにこれ?
この未来の自分に触れる……みたいな演出はこれ以降出てこないのも混乱の元。G・エクスペリエンスの「殴られると知覚が暴走する」という設定みたいに、この演出はもういいや。って思ったから、やめただけかもしれませんけど……。
さて、ここからが本題。私が思うに、キング・クリムゾンの能力が分かりにくいのって、99%ぐらいは初登場時の演出にあると思うんですけど、まあそれはおいてですね。
この能力を作品のテーマである運命論とリンクした能力として捉えると筋が通るのでは?と思うので書かせて下さい。
「運命」から逃げる能力なのでは?
キング・クリムゾンの能力の本質とは、「『運命』から逃げる能力」なのではないのだろうか?
以上が、私が数年前から提唱している説になります。
根拠になるのが、エピローグ、「眠れる奴隷」の存在です。
このエピローグ、凄い特殊な構成でして、ボスであるディアボロを倒した後に、急に前日譚が挿入されるんすね。そう、いきなり時系列が戻るんです。なぜ荒木先生はこんな変則的な構成にしたのか?
おそらくですが、インタビューなどを見る限り、五部連載時の荒木先生は運命論に対してかなり思うことがあり、五部を総括するテーマとして、このエピソードを入れたんじゃないかなと思うんですよ。
この章に出てくる「ローリング・ストーンズ」という能力があります。「死ぬ運命にある者の前に現れて、その死の姿を彫刻の形で表す」能力。運命を受け入れれば安らかに死を迎えることが出来る。作中では、石を破壊して、運命を変えようとしても、それは変わらないことが示されています。
そう、つまり、五部の世界には「運命」が存在するんです。ブチャラティは死ぬ運命だったし、それを回避できない。死に至るまでの道筋を変えることはできても(安楽死にはできる)、死そのものは避けることが出来ない。ジョルノと出会う前からブチャラティは死ぬ宿命だったんですね。
ところが、ボスは唯一、この「運命」を出し抜くことが出来る。
キング・クリムゾンの初登場時、ボスはこんな発言をしています。
またドッピオに対しても
このように発言しています。「運命」は決まっている。一度出たビジョンは変えられない。しかし、ボスは、その場面を「消し飛ばす」事ができる。
ローリング・ストーンズがボスの前に現れたらどんな形を取るんでしょうか。おそらく何らかの形を取るんじゃないかと思うんですよ。でも、ボスはその瞬間をエピタフ(予知能力)で見ることができるし、それをなかったことにできる。
運命に支配された五部の世界で、唯一そこから自由になれる。それこそがキング・クリムゾンの能力の本質ではないかと思うんですね。
でも、それって結局運命から逃げているだけじゃん。って思われるかもしれませんが、それがディアボロの本質だと思うんですよ。ディアボロって基本的に小物じゃないですか。基本的にコソコソ隠れて、自分の過去からも逃げ回っている。
荒木先生は「弱い人間がその弱さを他人に向けたときが一番怖い」みたいな発言をしているので、そういう意味でもディアボロはラスボスにふさわしい器の小ささなんですね。
ここから先は、完全に想像なんですが、ボスの元々の能力は、エピタフの方だったんじゃないでしょうか。運命を見ることができるだけの能力だったけれども、追い詰められた吉良吉影が新しい能力に目覚めたように、その運命を無かったことにする能力が目覚めたと。
そして、元々の人格と能力は人面瘡のように邪悪な人格に取り込まれてしまった、そう考えるとしっくりきます。
しかし、運命から逃げ回っていたディアボロも、ジョルノによって引導を渡されます。皮肉なことに、死という運命から逃げたばかりに、ボスは「死という真実にすら到達しない」無限地獄へと囚われてしまうんですね。考えようによっては、運命側がジョルノという処刑マシーンを送り込んできたようなそんな風に見ることも出来ます。
ブチャラティの人生は「無駄」なのか?
運命論という考え方があります。この世の全ては予めすべて決まっている。だから、人間が何をしようと最終的に起こることは変えられない。みたいな考え方です。
運命論は宗教的な話とかなり密接で「最初から天国に行ける人が決まっているんだったら、善行を積んだり、信仰を保ったり、努力するのは全部無駄なんじゃないの?」みたいな議論が、西洋でも東洋でも活発に行われてきました。興味のある人は調べてほしいんですけれど、この運命論から見ると、ボスとジョルノたちは対極に位置している。
ボスは、「結果は全部決まっているんだから、どんなに頑張っても意味がない」みたいな結果重視の考え方を口にします。
「『結果』だけだ!この世には『結果』だけが残る!」
「『結果』だけが残る 途中は全て消し飛んだのだ」
ボスにとって、大事なのは結果なんですよね。DIOじゃないけど、過程や方法などどうでも良い。
でも、荒木先生はその価値観にNOを突きつけます。アバッキオの同僚の警官のセリフにあるように。
ローリング・ストーンズの能力から解るように、ブチャラティの死は物語が始まる前から決まっていました。そして、それは変えられない。でもその人生は「無駄」なんでしょうか?
いや、違う。「無駄」なんかじゃない。ってのが荒木先生の答えだと思うんですよね。
ブチャラティも、アバッキオも、ナランチャも命を落としました。しかし、彼らの行動や意思はジョルノたちに影響を与えたわけです。
いつか死ぬ。そりゃ分かっている。じゃあ、死ぬまでに何が出来るのかが大切なんじゃないの?そして、その意思や行動は、滅びはしない。誰か別の人に受け継がれていく。
それこそが、ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風のテーマなんじゃないかなって思うんですよ。
最後に荒木先生のあとがきと、「エピローグ 眠れる奴隷」の最後のセリフとともにお別れしましょう。
「我々は運命の奴隷だ」「だが彼らが『眠れる奴隷』であることを祈ろう」「目覚めることで……なにか意味のあることを切り開いて行く『眠れる奴隷』であることを……」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?