Black Country, New Road 歌詞解釈 "Basketball Shoes" 編
イントロダクション
"Ants From Up There"のTrack 10にして最終曲、"Basketball Shoes"について考えていきたいと思います。アルバムの他の曲に登場したモチーフへの再言及を多く含むので、他の曲の内容をある程度把握しておくことをお勧めします。長くなってしまいましたが、ご容赦ください。
歌詞
歌詞解釈
この曲は、アルバムの流れを踏襲しつつ、相手と別れてしまった「私」が気丈にふるまおうとする一方で、それでも未だに相手との幸せな時間を忘れることができない様子を描いていると考える。
この曲には同アルバムの他の曲で言及されてきたモチーフについての再言及が多く含まれており、とてもハイコンテクストなものとなっているといえる。このことについては、Isaac自身がこの曲について語った際の言葉からも裏付けが取れる。彼は、この曲が「アルバムの基盤であり青写真」だと語っていたようだ。
この曲は、冒頭から"And we never look at our phones anymore"までのパート①、"I can't think of anything better"から"And it tortures me"までのパート②、それ以降のパート③、の3つのパートに分けることができるだろう。以降ではこれらについて分割して解釈を述べていく。
パート①
最初のパートの前半は相手="You"と別れてしまった現在の「私」の様子が描かれていると考える。このアルバムにおいて相手との描写は(それが常に同一人物かについては疑問が残るが)Track 3から始まったと言え、手に届かない憧れの的であり上手くいかないことが分かっていながら想いを捨てきれないことを表すモチーフとして、度々"Concorde"に喩えられてきた。
"Concorde flys in my room, tear the house to shreds"
「コンコルドは私の部屋を飛び、家が破片になるまで切り裂く」
この曲は、その"Concorde"が「私」のプライベートな空間(=心)を粉々にするという描写から始まる。
「夜を我々ナナフシのための家だと定義する」と続く一文は、「私」のような人間を日中はほとんど動かず他の何かに擬態することで身を隠す夜行性の昆虫であるナナフシに喩えており、「私」の衰弱した様子を示しているように思う。これら描写は「私」は相手と別れてしまい、心に傷を負っていることを表していると捉えられる。
さらに続く一節でも「私たちが交差するどの町にも運の痕跡を残さない」と語られており、「運=運命・相手との縁」だと捉えれば、2人の関係が無かったかのように、少なくとも「私」は、感じていることの証拠だと言えるだろう。
そして("The Place Where He Inserted the Blade"で)相手から巻き付けられた「つる」の感覚忘れることができず、その「つる」に過去の私たちの思い出の元へと引き戻されては毎回死ぬような苦しさを味わっている、そんな風に捉えることができそうだ。
続く最初のパートの後半は、そんな思いを抱えながらもなんとか立ち直ろうとしている「私」の様子を描写していると考える。(もっとも、結局相手のことを思い出してしまっているが)
"I'm feeling kinda normal with a packed lunch"は、"The Place Where He Inserted the Blade"で「昼食を他の人に作ろうと思うたびに結局あなたを思い出してしまう」と言っていたのに対照的に「普通に思う=特に何も思わない」ようになったことを示していると捉えられるだろう。
さらに、"Concorde"で「あなたの古い写真」だけでも見ようと"a thousand mile long tube"に乗っていたのに対し、ここでは「電車に乗ることもこの頃それほどつらくない」と言っており、これも別れによる心の傷から立ち直りつつある「私」の様子を示していると言えるだろう。
「私たちは自身がすべきことに取り組んでいて、私たちがどれほど変わったかについて他の人達が気にしないことを願っている 」と続く一文も、この解釈と矛盾するものではないと言える。
しかし、そんな再スタートを切った様子で気丈にふるまっている「私」だが、「もしあなたがフレッシュなスタイルで変にみえる私をみたら、私はまだあまり気分がよくない」と、結局立ち直り切れてはいないことが伺える。
そして最初のパートの残りでは、相手を思い出し今でも自分の家の中で相手の思い出(≒残滓/幻覚)が見えてしまう際の感覚を描写していると考える。(ここの解釈は個人的に一番難しいと思っていて自信がないが…)
"And then it's in soft focus all around you"は、"it"が何を指しているのかがあまり釈然としないが、「私」が相手をぼんやりと思い出している、または相手のぼやけた幻影を見ていることを表しているのではないだろうか。
続く"You can't see the football game / On my dad's sofa we are still / And we never look at our phones anymore"はどれも相手が「動いていない」ことを示していると捉えた。この節で描写されている相手が「私」が見ている幻影なのだとしたら、この生気がない様子と辻褄が合うと考える。
「電話を見ない」という部分は二人が別れたために連絡を取り合ることがなくなってしまったことを表しているのかもしれない。
まとめると、パート①は「私」の、対外的には立ち直っていると気丈にふるまう一方で、心の傷は全く癒えておらず、相手の幻覚を未だに思い出してしまう様子を描いていると捉えた。
パート②
このパートは、「私」が思い出す相手との幸せな時間と、その夢想によって「私」が今も苦しめられている様子を描いていると考える。
「これ以上のことを思いつかない、(あなたが)セーターについた髪の毛を払って、私に溺れる」というパートは、明らかに「私」がどうしても思い出してしまう、相手と過ごした幸せな時間の詳細な描写だろう。
次の"I am the convo, you are the weather"は直訳すると「私が会話であなたが天気」となり、すこし解釈が難しい。しかし、天気が会話のトピックとして非常に多く用いられることを考慮すると、「私は口を開くたびにあなたのことを話題に出してしまう」のように意訳することができるだろう。
つまり、ここでも「私」がいかに相手のことを忘れることができず、思い出さずにはいられないかについて語っていると言えるだろう。
そして、"The clamp is a cracked smile cheek"と続く。「繋ぎ止めるのはひび割れた笑顔の頬」といったところだろうか。
パート③
パート①, ②では、相手と別れた「私」の、傷心しながらも気丈にふるまおうとするが、結局は相手のことを思い出してしまう様子が描かれてきたと捉えた。それに続くパート③にしてアルバムを締めくくるこの最終節では、痛いほど自覚していながらも相手のことが好きなあまりに今まで言えずに抱えてきていた「私」の相手への本当の想いが叫ばれている、と言えるだろう。歌詞は以下の通りである。
"In my bed sheets now wet of Charlie I pray to forget"
"All I've been forms the drone
"We sing the rest"
"Your generous loan to me, Your crippling interest"
「私のベッドシーツは忘れようと願ったチャーリーのせいで濡れている」
「これまでの私の全てがドローンを形作ってきた」
「そして私たちが残りを歌う」
「あなたの寛大なローン、あなたの不自由な利子についてを」
直訳すると以上のようになるが、分かりづらい部分が多いので一つずつ意味を考えてみようと思う。
まず「チャーリーのせいでシーツが濡れている」というのは「私」が「チャーリー」という名前の相手を思い出してベッドで泣いていること、そして相手との"Wet dreams"を今でも見てしまうことを示しているのだろう。
「チャーリー」が相手の名前だとするならば(それ以外考えにくいが)、アルバムを通して初めて名前が明らかにされたことになる。しかし、これには少し込み入った経緯があると言える。実は"Basketball Shoes"は"Ants From Up There"というアルバムができる前から存在している曲で、その内容は「私=Isaac」が「Charli XCX」という女性アーティストと交流する夢を見た、というものであった。これについては少し話が逸れるので詳細は後ろに回すが、このオリジナルバージョンを土台としているため、名前が残されたのだろう。ちなみにアルバムに収録されたバージョンでは"Charlie"と"e"が付け加えられ、特定の人物を指さない名前に変更されている。
続く「これまでの私の全てがドローンを形作ってきた」という部分は「ドローン」が何を指すのかについて理解する必要がある。ここで用いられている「ドローン」は音楽用語のそれと考えるのが自然だろう。音楽用語の「ドローン」は長く続く持続音のことを指し、簡略化して言えば「曲の土台となる音」と言い換えられるだろう。
そう捉えると「私たちが残りを歌う」と続く歌詞ともつながりが見出せる。ただ、ここでは「私たち」が誰を指すのかについて少し引っかかる。"Ants From Up There"でこれまで"We"が指していたのはほとんどが「私と相手」の二人であったが、ここでは(これから言及する)最終文が相手について語っているものなのだから、そうとは考えづらい。過去の「死んだ私」
を含む複数形と考えることもできるが、どうもこの"We"は、初めてにしてここだけだが、Isaacが「バンドメンバーを含めた私達」を代表して発したものであるような気がしてならない。実際にこのパートではバンドメンバーもコーラスを歌っているという理由もあるが、これまで内に秘めるばかりで相手または外に向けて言えなかったことも、メンバーと一緒になら、そしてメンバーの演奏にのせてなら言える、そんな満を持したともいえる様子を感じてしまう。(こちらがエモーショナルになりすぎているだけかもしれないが)
そして、そんな「私達」が歌うたった一行の歌詞は「あなたの寛大なローン、あなたの不自由な利子」である。これだけではかなり曖昧だが、ここに至るまでのアルバムの収録曲とこの曲のここまでの歌詞を踏まえると、以下のように捉えることができるだろう。
「あなたは巨額なローンを貸与するように、私に大きな価値を一時は寛大に与えてくれた。しかし、巨額なローンを組んだ人がその利子の複利効果に苦しむように、今ではあなたの存在が自分の中で膨れ上がり、人生をかけても忘れる(≒完済)することができない、私を縛り付ける重荷のような存在になってしまった」
「私」はここまで相手に関してネガティブな言葉はほとんど発して来なかったと言える。しかし、ここまでアルバムを聴いてきた我々は、「私」の相手を想う気持ちの強さを知っていながらも、その存在が「私」を十分に苦しめていることもまた理解しているはずだ。最後の最後に、認めたくはなかっただろうが、「私」はその本当の思いを放出できたのだ。
"Charlie"と"Charli XCX"
上でも述べたように、この曲の歌詞は何度か変更されており、アルバムに収録される前のオリジナルバージョンが存在していた。
このバージョンではCharlieはCharliと綴られ、同郷の女性ポップアーティストであるCharli XCXの名前を出して明示的に言及されている。
オリジナルバージョンは"Charli XCX"が「私」の作品・芸術を勉強して会いに来る、というなかなか尊大な内容となっており、アルバムバージョンの「私」の様子とかなり異なる描写がなされているのが面白い。
アルバムの内容を踏まえ、確かに歌詞の多くが変更されているし、一読した際に感じる「痛切さ」はかなり差があるように思うが、「チャーリー」という名前を残したのには理由があるのだろう。「私」にとって"Charli XCX"も「憧れの相手=Concorde」であり、その意味で「相手=Charlie」と重なる部分があったのかもしれない。
まとめ
まとめると、この曲はアルバムの流れを踏襲しつつ、相手と別れてしまった「私」が気丈にふるまおうとする一方で、それでも未だに相手との幸せな時間を忘れることができない様子を描いていると考えた。それに加え、「私」にとって相手の存在が十分に重荷になっていて苦しめていることを認め、その本当の思いを発する描写で終わっている言えるだろう。
相手が「私」にとってかけがえのない存在であることは理解しながらも、同時にその存在が「私」を苦しめてきたことを知っている我々にとって、このクライマックスの迎え方は、間違いなくカタルシスのあるものになっていると言えるはずだ。自分の思いを認めることが時に一番難しいことについては多くの人が共感できるだろう。
「私」の旅は相手を追いかけるようにして描かれてきたが、本当のところは本人の心の中から一歩も出ていなかったのかもしれない。あるいはコンコルドの模型やスノードームが配置された狭い部屋をかき乱した程度だったのかもしれない。それでも「私」自身の真意を認めるまでのこの極めてパーソナルな旅は、それが音楽アルバムのフォーマットをとることで、「私」のみならず多くの人々へ普遍的な感動と教訓とカタルシスを与えてくれたのだ。
私(≠「私」)の旅
そして、8つの記事にわたって考えてきた"Ants From Up There"の旅は、この駄文を書いている私(≠「私」)にとっても終着点を迎えた。
しかし、音楽というフォーマットのアートの特徴、そして個人的に好きな側面は、繰り返し体験することが前提にあることだと思っている。
もちろん、映画も繰り返して観ることはあるだろう。しかし、大半の映画は一度鑑賞したら「観た」ということが多いはずだ。
一方、音楽アルバムは一度通して聴いても「聴き終わった」感覚になることは滅多にない。これほど聴いて、考えてきた"Ants From Up There"というアルバムでさえ、「飽きる」ことはなかったし、まだまだ深める余地があるように思う("Basketball Shoes"というタイトルの意味は今でも全く分かっていない)。「でさえ飽きなかった」ではなく「このアルバムだからこそ飽きなかった」ことは間違いないが。
そして、これからも繰り返し聴くことは間違いない。聴けば聴くほど分かってくるディティールもあるし、逆に解釈が間違っていたことにも気づくだろう。
そういう意味で、この旅は終わっていない。あるいは、そもそも始まってもいなかったのかもしれない。"Set an open course for New York state line"と言っていながらその場をほとんど動いたとは思えないこのアルバムの内省的な旅のように。
感想
この一連の記事は自己満足のため、そしてそれだけのために書いたものですが、インターネットの片隅に、何の宣伝もすることなくそっと放流することで、いくつかのいいねをつけてくださる方がいたことはとても嬉しい体験でした。そして文章を書く、考えたことを文章化する、文章化しながら考えをまとめる、自説を伝えるための文章を推敲するという作業の楽しさを知ることができました。ありがとうBCNR!ありがとうIsaac Wood!
そして一つでも記事を読んでくださった皆様、ありがとうございました!
Isaac Woodの心身の健康を祈って終わりたいと思う。
※ 記事は気づいたことがあれば加筆・修正すると思います。
※ 他のアルバムについても同様の連作の歌詞解釈記事を書くかもしれません。ただ、これほど深めて書く内容があって、個人的にも大好きなアルバムを探すのに時間がかかる気がしています。一曲ずつはやらずにアルバムで1記事書くことも検討しています。何がいいかなあ。