選抜やフォーメーションにおけるミーグリ成績の影響力

まじか、「あーや」に会えるチャンスが残されていたのか・・・どうしよう。

実は、ミーグリに関心がないから完売表なるものをいちいちチェックする習慣がなかったのだが、たまたま発見した乃木坂ファンのツイートに違和感を覚えた。

なるほど、『バンドエイド剥がすような別れ方』のミュージックビデオにおいて、たしかに〈井上・菅原・川崎〉が最も目立つポジションでパフォーマンスしているし、ミーグリの売上との相関はありそうだな。

しかし、疑問がなくはない。

疑問1

まず、五百城と冨里はフロントメンバーといえないのだろうか。

実際にミュージックビデオをみてみると、五百城と冨里もフロント(一列目)ポジションでパフォーマンスしているようにみえる。明らかにフロントの両サイドなのに、フロントと認定しないのはおかしいではないか。

他の映像でも検証すると、先日のTIF2022の映像によれば、〈井上・菅原・川崎〉の3人で歌い出し、五百城・冨里につないでいることが観察できる。3人で歌い出すと3人が一列目に違いないと勘違いする人がいるけるど、それに続く2人もフロントなのだ。

四期生でもこのことが確認できよう。昨年のカミオトで披露された『キスの手裏剣』では、新四期生(5人)が加入した16人バージョンであったが、リリース当時の11人が【Aメロ5人→Bメロ6人】というような歌割りでつないでいた。※新四期生は歌割りなし

《Aメロ》
清宮・遠藤・柴田
「風が過ぎてくほんの一瞬に」

賀喜・筒井
「僕のこの胸は何かを感じたんだ」

《Bメロ》
田村・矢久保・早川・金川・掛橋・北川
「緑の木々の下のベンチ誰を待ってるのか?夏色のワンピースを着た君にハート盗まれそうだよ」
『キスの手裏剣』

この基本形を踏襲して、『バンドエイド剥がすような別れ方』においても、

《Aメロ》
井上・菅原・川崎
「砂浜の白い貝殻はいつから(いつから)寄せる波に流されないまま見ていたのか」

五百城・冨里
「水平線沈む太陽に照らされて(歩いた)星の数の恋人たちはどこへと行った?」

《Bメロ》
中西・一ノ瀬
「君の声が聞こえたような気がして」

小川・池田
「胸がギューンとしてしまった」

奥田・岡田
「風はもう知らないうちに肌寒くて」

(再び)井上・菅原・川崎
「今一人きり腕を組む」
『バンドエイド剥がすような別れ方』

としている。

〈井上・菅原・川崎〉はAメロの冒頭の一節の担当であるが、フォーメーション上では五百城も冨里もフロントの一部であろう。

しかし、そもそも、フロントや◯◯列目という言い方が当たり前にされるのだけど、パフォーマンス全体で《列》がキープされているのが「常」ではない。選抜発表やサビの一部で《列》におけるポジションがフィーチャーされがちなのだけど、パフォーマンス全体を通してみれば、《列》ではない陣形がむしろ楽曲のパフォーマンスの個性となっている。

たとえば、三期生楽曲の『思い出ファースト』、『僕の衝動』、『大人たちには指示されない』では《三角形》になる。とくに『大人たちに指示されない』のように《列》であるのはサビの一瞬だけで、一直線になったり円になったりと飽きさせない。「欅っぽい」と話題になった『Actually...』はサビで《列》になって綺麗にみせるが、それ以外では《列》にこだわってない(見慣れないダンスが「欅っぽい」と感じさせたのかもしれない。乃木坂ファンが「欅っぽい」と言うとき、批判的な意味が込められている)。

『Actually...』2番Aメロ冒頭

また、四期生のパフォーマンスでも、『猫舌カモミールティー』の二番のサビなんて、なんだかよくわからん、独特の形態である。

『猫舌カモミールティー』2番サビ

このような楽曲だと、センターとその両サイドが目立つものの、それ以外のメンバーの序列がどうのと論じるのがナンセンスに思えてくるのだ。全体でパフォーマンスしているようで好きだし、序列なんていう『大人たちからの指示』が最大限無効化されてしまう、そのように思えてくるのがよい。

だから、以下のツイートが言うように、それが珍しいかどうかはさらに調べが必要なのだけど、変則的なフォーメーションになる曲はこれまでになかったわけではない。

疑問2

ルッキズムという言葉がある。外見至上主義という意味の言葉であるが、この言葉が濫用され、単なる外見の良し悪しを論じることすら非難されてしまうのだとしたら「行き過ぎ」であるように思う。これを許したらアイドル界隈で「あの子がいい」という発言すら非難の対象となりかねないから。

私はいま、○○至上主義という言葉に敏感である。というわけで、本当にどうでもいいことなんだけど、ミーグリ至上主義について、しばらく考えてしまった。至上主義というほど、ミーグリだけを参照しているのだろうかと。

たしかに、ミーグリの「成績」を参考にしているだろう。ただ、ミーグリ至上主義というのなら、五期生を選抜に入れないとおかしいではないか。『Actually...』の完売スピードを考慮すれば、井上と菅原を選抜(三列目でもいいから)に入れるべきであろう。そうしないのなら(実際そうしていない)、もはやミーグリ至上主義とは言えないではないか。

また、ミーグリ至上主義に疑問なのは、実際に『Actually...』の完売表を見てみたら、一ノ瀬、五百城、冨里、小川、池田の成績も悪くはないから。五期生は全体としてミーグリの調子がいいみたいだ。そうすると、五期生をもっと選抜入りさせるべきだということになる。ひなちまや絢音ちゃんすら進撃の五期生にそのポジションを脅かされている。でも、そうしない。なにか別の要因があるのではないか。

※五期生の『Actually...』ミーグリ参加は5次応募から開始。
※池田瑛紗の『Actually...』ミーグリ参加は8次応募から開始。

それに、ミーグリ至上主義という唯一の主義に序列の根拠を求めると、乃木坂の魅力が単なる数値の問題(売上)に片付けられてしまう、つまり数値の裏にある人気のワケを見過ごされがちになる。他でもない〈井上・菅原・川崎〉の三人をフロントの中心に起用したワケがあるはずで、少なくともファンであるならば、そちらを積極的に語っていきたいと思わないのだろうか。

つまり、ミーグリ至上主義ということばは、運営を批判するための概念として有効なのかもしれないけれど、実際はミーグリの成績以外の要因も選抜やフォーメーションに影響を与えているだろう。ミーグリ至上主義という概念で片付けないで、井上や菅原の魅力を積極的に語っていきたい。