僕が人間であるために
深淵と、目が合った。
僕を僕たらしめるすべてのものが壊れていくなか、深淵が僕を抱擁した。そこには温もりは無く、安心感も無い。愛情なんてあるはずがない。あるのはただ、絶望。底の底にある絶望。しかし僕にはそれが必要だった。それしか無かった。
そのとき、僕は笑っていた。
「どうですか?」
診察は主治医のその一言から始まる。どうもこうも毎日やるべきこともなくただ死ぬのを待っているだけの人生なのだから、なにも言うことはない。しかしそれでは診察にならないので用意してきた科白を口にする。
「先週くらいから気持ちが沈んでいてなにもできていません。なにかをする気力が湧かないんです。それに落ち着かなくて常にそわそわしている感じで夜もろくに眠れません」
先生はカルテになにかを書き込みながら僕の話を聞いている。書き終わるとペンを置き、僕を見た。
「睡眠薬変えてみましょうか。それと、なるべく陽の光を浴びるように。軽い運動をしてください。散歩とか、その程度でいいので」
それができたら苦労はしないと心で思いながらわかりましたと言って席を立った。
薬局で薬をもらい、家に帰る。疲れた。通院するだけでも僕にとっては重労働だ。僕は昼の薬を飲んでベッドに横になった。
インターホンの音で目が覚めた。なにか買ったっけなんて思いながらドアを開ける。こんにちは、と目の前に立っていたのはケースワーカーだった。
「家庭訪問に伺いました。……中、よろしいですか?」
忘れていた。そういえば生活保護費支給通知書に家庭訪問の手紙も入っていた気がする。しどろもどろに僕はケースワーカーを中へ通した。
「どうですか、生活はできてますか?」
「はあ、まあ……」
「先日、主治医の先生に電話で連絡したんですよ。先生の見解も、今は就労は難しいとのことで、最近はこちらからも就労指導はしないようにしていたんですが……やっぱり難しいですか?」
「なにがですか?」
「その、就職、というのは」
できたらとっくにしてるわ、と喉まで出かかったがなんとか堪えて、そうですね、とだけ言った。
「まだ年齢もお若いですし人生もこれからなので、このまま生活保護というのは……」
「わかってます。重々わかってます。でもできないものはできないんです。僕だって働ければ働きたいですよ。でも無理なんですよ」
ケースワーカーはボードに挟んだコピー用紙になにかを書いて、ふうと息をついた。
「わかりました。今はまだ難しいということで……まずは体調を優先しましょう」
それなら最初から仕事の話なんてするんじゃねえと怒鳴りそうになったが、ケースワーカーの立場もある。それはわかっている。僕も生活相談員をやっていたから、言いたくないことも言わなくちゃいけないのはわかっている。しかしいまの僕にはそれは大きな負担だ。
ケースワーカーが帰ったあと、どっと疲れが出てまた寝た。目を覚まして時計を見ると夜の七時だった。SNSを見ると仕事終わりの書き込みでいっぱいだった。朝起きたときとこの時間が辛い。つい、本当なら僕も――なんて考えてしまう。夜の薬を飲んで、なにも食べる気はなかったのでストロングゼロと柿ピーで夕飯を済ませた。
悪い酒で酔った頭で考える。僕はなにをしているんだろう。
高校生のときに精神疾患を患うも誰からも理解されず、朝起きられないのも、授業中寝てるのも、夕飯を残すのも、全部根性が無いからだと、先生からも両親からも責められた。夜は足音がするたびに誰かが殺しに来たんじゃないかと怯えて眠れず、やっと眠れたかと思えば悪夢にうなされてすぐに起きる。そして希死念慮が襲いかかる。
精神科にかかり大量の薬を処方され、今度は副作用で寝たきりになった。それでも高校を卒業して、大学に進学して、新卒で就職もした。新卒で入った会社は試用期間で切られ、今度は介護士になった。病気と闘いながら介護福祉士を取り、五年目には生活相談員にまでなった。生活相談員は施設のナンバー2で、二十代で抜擢されるのは異例だった。当時の施設は書類関係がボロボロで、開設して六年が経っていたが役所に出さなければいけない書類をほとんど作っていなかった。おまけに施設内の利用者の割合(有床率)が七割を切っていて、そちらも改善しなければならなかった。さらに現場の人手不足も深刻で、日中は現場の手伝いをしなければならなかった。当然自分の仕事は定時過ぎからやっとできる状態で、帰るのはいつも日付が変わってからだった。面倒くさいのでそのまま泊まることもあった。休みも返上で働き、少しでも現場が楽になるようにと手伝いもしたし、裏工作もしたりした。だが、現場から返ってきたのは妬みと嫉みだけだった。現場リーダーの経験もない僕がいきなり生活相談員になったのが面白くなかったのだろう。現場で仲良くしてた人でさえ僕を敵視して、思い出したくもない言葉を浴びせられることもしばしばあった。それでも書類をまとめ、業績を上げて、重役の人からも認められるまでになった。すると今度は施設内だけでなく系列施設の相談員からもやっかまれるようになった。現場のときも相談員のときも、僕は一組織のコマのひとつとして与えられた場所で全力を尽くしていただけなのに。
次第に病状は悪化していき、昼過ぎになるとイライラが抑えきれず、昼休みにデパスを噛んで午後に臨んでいた。日に日に錠数が増えていき、最後のほうはほとんどラリっていた。
朝起きるのも一苦労で、着替えて靴を履いたはいいがそこから外に出られなくなった。そして仮病を使って休むようになり、施設長から怒鳴られることも増えていった。ときには車で家まで来られ、半ば拉致のような形で仕事をさせられていた。
ある日、施設長が「最近、大丈夫?」と声をかけてくれた。僕はもう限界ですと率直に伝えた。相談員を下ろしてくださいと。
しかし「いまできるのは君しかいないの。だから辛いだろうけど頑張って」と言い、去っていった。そのとき僕の中でなにかが壊れた。
次の日、病院で診断書を書いてもらうと、それを速達で職場に送って僕は寝込んだ。
そのあとのことは覚えていない。気づけば仕事を辞めていて、僕はただひたすらストロングゼロを飲みながらアニメを観ていた。
仕事を辞めてすぐに精神保健福祉手帳と障害年金と生活保護の申請をした。なんの因果かすべてすんなり通った。
思い出すのは毎朝、寝ながらスクーターを運転して出勤していたこと、浴びせられた罵詈雑言、そして「頑張れ」という上司、同僚、両親。
半年くらい酒とアニメの生活を送って充電できたのか、就労移行支援事業所に通い始めた。皮肉なことにそこで得られたのは「自分はもう働けない」ということだった。スタッフの人はそんなことないとは言うが、そんなものは建前だ。就職が近づくと必ず病状が悪化する。それを何度も繰り返して、ほとんどドクターストップの形で就職を諦めた。
――もう働かなくてもいいんだ!
――もう頑張らないでいいんだ!
――もう、もう……生きなくてもいいのかなあ……
このまま頑張らないで生活保護でぬくぬくと生きていくしかない。別にそれが悪いことだとは思わない。人それぞれの人生なのだから。
でも、でも、生活保護で人生あがり?
生きているだけで丸儲け?
――そう言い聞かせていた。生きているだけで御の字じゃないか。セラピストに「よくいままで生きていましたね」って言われたくらいじゃないか。秋空の気持ちいい陽気のなか、公園でストロングゼロを飲みながら考えていた。生きているだけでいい。それだけでいい。
……違う!
イヌ、ネコ動物なら生きているだけで勝ちだろう。でも僕は人間だ。生きているだけじゃない、もっと人間の、人間たらしめる何かがあってこそ人生ってもんだろう。
――それってなんだ?
――それって手に入るものなのか?
わからない。いや、きっとそんなものは僕には無い。そう、僕には今後得られるものも、失うものも、なにもない。
ストロングゼロの缶を握りしめると急に可笑しくなった。そして僕は笑った。声を上げて大笑いした。嬉しいからじゃない。楽しいからでもない。僕が人間であるために笑ったのだ。笑うしかなかった。涙なんてとっくに枯れていた。笑っていると思い出す。「頑張れ」と言われていたときのこと。
「頑張れ」と言う人は多かったが、「頑張ったね」と言う人は誰一人としていなかった。
笑い疲れて芝生に寝転んだ。目に射す日差しが優しい。小説でも書くか、と思った。
僕はそのとおりにした。
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