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僕の卒業論文を公開します(その3)

その1をまだご覧になっていない方はこちらからどうぞ。卒論の概略や研究しようとした動機について書いてますので是非ご一読ください。

本日は第4章の後半から行きます。なるべく背景知識や補足を入れつつ公開したいなという気持ちですので、お付き合いいただけますと幸いです。

<自然主義文学における高級娼婦の越境>

自然主義文学者のエミール・ゾラが描くルーゴン・マッカール叢書(Les Rougon-Macquart)の第9巻『ナナ』を取り上げる。ただし ゾラの『ナナ』についてはルーゴン=マッカール叢書の流れの中に存在するある種「大河小説」の一部に位置しているので、ヒロイン・ナナの過去を知るためには第7巻『居酒屋』にも目を通さねばならないためこちらは第11章以降のナナが15歳になった頃の箇所も参考することにした。一方『ナナ』の『居酒屋』はナナの母ジェルヴェーズの没落描いた作品である。ヒロインナナの生涯からわかる高級娼婦の移動について、ジェルヴェーズとの対比を交えながら検討していくことにする。

<ルーゴン・マッカール叢書とは>
エミール・ゾラが書き上げた20巻に及ぶ自然主義文学の大河小説。ルーゴン家とマッカール家の結合(結婚)によってストーリーが展開され、第二帝政期の一家におけるリアルな生活を描くことに注力し、普仏戦争による政体変化に伴い一家が没落していく様子を描いた。
バルザックの「人間喜劇」叢書の影響を受けたが、彼の独自性はそこに科学性(遺伝や先天性など)を取り入れたことにある。環境(犯罪や性的関係(つまり娼婦))などにより「周辺」へと没落していくさまが遺伝と関係性を持つのか、ということを描くことが目的である。

私の作品は社会的にというより、科学的なものになるだろう。バルザックは三千人の人物を使って風俗史を書こうとする。[中略]
他方私の作品はまったく異なる。・・・私は現代社会(第二帝政期=引用者注)を描こうとするのではなく、一つの家族を描き、環境によって種族が変貌する作用を示したい。

<ロマン主義文学との違い>
cf. ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」
主人公ジャン・バルジャンがかつて一本のパンを盗んだという犯罪を犯しただけで、19年にわたって投獄生活を送り、19年後とある司教のもとへ迎え入れられる。そこで司教の大切にしていた銀食器を盗んでしまうのですが、司教は「これは私が与えたのだ」といい無罪放免。しかも銀の燭台も与えたことにより、司教の信念深さに感動し、これまでの人間不信や憎悪の念を払拭し、誠実な人間になろうと誓う。そして彼はマドレーヌと改名し、宝石産業で成功、市長になり「中心」へと返り咲くのでした。

身分的な描き方においては、『椿姫』同様、ロマン主義文学は一度「周辺」に没落していく人物も懺悔することで「中心」へと返り咲くことができるというストーリーが展開されています。ある種、宗教的な象徴も垣間見えるわけです。
一方、自然主義文学はそうも行かないんですね。一度「周辺」に没落してしまうとたとえ一度「中心」に花開き、活躍した人物であっても元に戻ることはできず貧しい生活を送ることを余儀なくされてしまいます。それが運命であったかのように。

<一方、自然主義文学では>
パリの貧しい民衆の生活を描いた 『居酒屋』の後半部において母ジェルヴェーズは堕落することになる。これはジェルヴェーズの元夫であるランチエがクーポーの家に戻ってくることに起因する。そして冬がくると一家の生活は貧困を極め、両親の暴力と酒浸りをきっかけにナナは家出をし、「中心」へ登ることを決意する。『居酒屋』はまさに周辺部に生きる貧困を暮らす人々を描いた作品と言えるのだ。『居酒屋』のラストでは、母ジェルヴェーズは周辺へと移行することになってしまう、まさに「転落のどん底」へと落ちることを運命づけられていたかのように。これはかつての夫であったランチエの登場によりクーポーとジェルヴェーズの2人は貧しい生活を強いられ、『居酒屋』というタイトルの通り、アルコール依存症の病気にかかり死んでいくためである。周辺へと落ちぶれてしまった女性は誰からも相手にされない存在となり孤独のうちに死んでいくのが運命なのである。パリ下層階級の悲惨な女性はこのように転落し、乞食のようになり存在を忘れ去られてしまうというのが自然主義流の描き方なのである、そして逆に中心へと登りつめようとしたのがナナであり、ヒロインの名を冠した続編『ナナ』では、ジェルヴェーズの没落に伴い物語の中心がナナへと移行する。このように第二帝政期のパリはまさに周辺への転落と中心への上昇が同時に起こる坂道のような時代なのである。

それは身分的な越境だけでなく「死」に関しても同様です。こちらの記事の前半部分でざっくりとした違いについて触れているのでよろしければぜひ。

まあ、簡単にいうと上記のような理由・背景から特に「女性の死」についてロマン主義文学においては「結核」という病気が、自然主義文学においては「天然痘」という病気がその表象として適切であり、病気の性質がストーリー展開には好都合であった、ということなのです。
だからデュマ・フィスは「椿姫」を結核で亡くならせることで、美しいまま死を迎える、つまり懺悔を通して娼婦が「1人の男性を心から愛する」ことを知り、「死」によって自身の償いをすることである種「聖性」を持つようになるわけです。
少しキリスト教的な要素が入ってきますが、「たとえ娼婦であっても真っ当な道に戻ることができる」と考えるのがロマン主義、「一度でもその道を外したら(ゾラ的に言えば母がその道を外れたら娘も)元に戻ることはない」と考えるのが自然主義だと読み取ることもできます。

まとめにかえて

そして最後にまとめをつけて終わりという流れになります。3年前に自分が書いた論文を久々に見返して、そこに補足をつけるというのは非常に謎めいた作業であると言えます。読者が違えば説明すべき内容も変わってくるということですね。そして補足のために「レ・ミゼラブル」の紹介をしたのですが、これは3年前やろうとしてできなかった(文字数的にも絞る必要があった)ことなので、個人的には成長でもあるのかなとポジティブに捉えることにします。
卒論って、あまり他の人のを見る機会もないと思うのですが、僕は読みたかったですし、読んで欲しかったですけどね(だからこうして記事にしているわけですが)。

そして、この記事を最後まで読んでいただいた方には本当に感謝しています。
少しでも興味をもった方は、僕の恩師の本もぜひ読んでみてください(宣伝ではない)。
今年も訳本がまた出版されるようなので僕も読んでみようと思います。


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