【自分歴史】中学校編①
自分自身を振り返ろうシリーズ、今回より中学校時代です。
このペースではまだまだ続きます。何卒お付き合いください。
中学校は地元の公立中学です。
地方にしてはそこそこ学校規模は大きくて、クラス数は6~7クラスあったと思います。
部活動に絶対入らなくてはいけなかったので、入学してすぐに部活動見学に向かいました。当時空前のバスケットボールブームで、スラムダンクを見てバスケを始める人が多かったように思います。
(水戸洋平が一番かっこよくて、付き合うなら宮城リョータだな、と今でも思います。)
わたしも身長があったので、流行りにのりバスケ部がいる体育館へ向かってみると、メイン体育館のステージに居座る先輩が怖くて(たしかお菓子食べながら寝っ転がってた)、素通りしてきたのを覚えています。
「え…運動部って怖い…」と思い、美術部にも入ろうかと思いましたが、美術部ってなんだか閉ざされた場所にあって、それもまた怖い。
う~~ん、と思っていましたが、バレーボール部の先輩が優しそうだったと、母親のママさんバレーの練習にもついていってたこともあり、バレー部にとりあえず入部することにしました。おそらく同じような気持ちで入部した子が多かったのでしょう…新入部員だけでも、ざっと30人くらいはいた気がします。1年生のときには苦手な長距離もそこそこがんばり、内出血になりながらバレーボールという競技に慣れていきました。
最初は特になにもなかったんですが、2年生の途中から生徒会にも推薦で入る事になりました。会計と称しながら、ただ生徒会室で集まって先輩たちと嵐のデビューを語る、という、ヤンキーが多くて毎日廊下にタバコの吸い殻があるような中学校で、唯一ふつうの中学生らしい、楽しいひと時でした。
が、このあたりから部活動組との溝ができてきます。
そもそも大所帯のバレー部。女ばかりで、6人制のレギュラーになれるのはわずかな人数ですが、身長があった私は部活動にあまり参加していないながらも、なんだかんだでコートに入ることもありました。
単純に面白くないと思われたのでしょう。無視されることも増え、練習に参加させてもらえない、などが続くようになり、結果孤立していきました。
まぁそんなもんだよな。と、どこか楽観的に考えていた私は学校を休むことなく、生徒会にはそこそこ顔を出し、バレー部もたまに参加して過ごしていました。ある程度は悩み傷つきましたが、自分自身そこまで間違ったことはしていなかったと思っていたので、あっけらかんと学校には通っていました。部活以外の友人もいましたし。
そんな日々を過ごしている中で、ついに漫画のような出来事が発生します。
「次、体育か~」とロッカーにある自分のジャージを袋から出すと、
ハーフパンツの真ん中が刃物で切られている…(!!!)
「え…」と一瞬は思いました。
が、このシリーズを読んでいただいた方はご存じかもしれませんが、私は体育が苦手なのです。運動も得意ではないのです。しかも部活動のメンバーもクラスにいるので、一緒にチームなんか組まれた時にはやってらんねーぜ。となってました。
「体育、休めるじゃん!!!!ひゃっほー!!!」となり、職員室に切られたジャージを堂々と持ち込み、当時担任だった先生(音楽教師でちょっと変わった先生だった)に「ジャージ切られたから体育できなーい!」と報告し、体育を休んだのを覚えています。
しかも「ショックだったろうから、保健室にいきなさい」と言われて、誰もいない保健室でぐーすか昼寝するくらいの図太さです。
ここまで図太くいれるのも、中学校から始めたバレーボールに関しては、自分で選んで入部したんだし、やれることをやろう。と毎朝通学前に自宅の前でオーバーハンドトスの練習なんかをしてました。
当時へたくそなので、よく自宅に駐車してあった父の車にボールをぶつけては叱られたりしましたし、母のママさんバレーの練習に参加させてもらったり、走ることも嫌いだけどやり切ってました。
なので、部活動に参加できない分、やってたし。
という自分自身の自負がありました。コソコソ何かするのもめんどくさくてダサいと思ってましたし、部活動の人間関係がうまくいってなくても、他に話してくれるクラスメイトや別のコミュニティがあったことも、あっけらかんと楽天的に考えられた結果だと思います。
自分がある程度はやってきた、という自負と、一つのコミュニティに固執しなかったことが、今のある程度の土台とし作り上げられたのかもな、とこの文章を書きながら思っています。
次回は中学校編②「高校入試に向けて」です!
ではまた!
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