新旧『OBSCURE』を聴き比べてみた
今回はちょっといつもと趣向を変えてみる。
ちょっとした事情でDIR EN GREYの新旧『OBSCURE』を聴き比べてみた。
男性が苦手とする「女性主人公」「妊娠」が躊躇なく描かれている。
「男性は女性主人公は好まない」
「男性にとって、『妊娠』『中絶』『出産』『育児』『介護』はストレス負荷となるので物語に組み込まない」
「これらを物語に組み込みたいのであれば、売れないことを覚悟の上で女性向け小説を執筆するべき」
「ただし、現状売れるのは男性向け小説であり、女性向け小説は売れない」
小説家や、小説家を目指す者たちのオンラインサロンで耳にした言葉である。
違和感を覚えたのはDIR EN GREYが真っ向からこのテーマに立ち向かってきていたのを、私が目の当たりにしてきたからだろう。
そして、意外かもしれないが、DIR EN GREYは男性ファンが多いのだ。
望まぬ妊娠、中絶、性的虐待、女性、母親と向き合ってきたDIR EN GREY。
メジャー1作目のアルバム『GAUZE』で一際異彩を放っている楽曲は『mazohyst of decadence』である。
9分24秒の長編ナンバーであり、中絶される胎児目線で描かれた楽曲である。
驚くべきことに、90年代の作品である。
以降も、女性目線で性的虐待と近親相姦をテーマとした『embryo』、そして今年、2021年 4月28日に発売された最新シングル『朧』も、母親が主人公の楽曲である。
『朧』は、中絶がテーマとも、虐待、もしくは毒親がテーマとも受け取れる。
あるいは、娘が苦しむのを承知の上で尚、離婚を決断できない母親の胸中か。
女性の自殺増加、女性の貧困、DVや虐待被害の増加…………女性を抱える諸問題を浮き彫りにしたコロナ禍渦中に相応しい楽曲と言える。
まだ未聴の人はぜひ聴いてみて欲しい。
悲しくも、とても美しい楽曲である。
『OBSCURE』とは。
2003年 9月10日発売のアルバム『VULGAR』収録曲である。
その後、2011年 1月26日発売のシングル『LOTUS』のカップリング曲としてリメイク版が収録。
以降はライブではこのリメイク版がメインとなる。
リメイク版は2018年 1月2日発売のベストアルバム『VESTIGE OF SCRATCHES』にも収録されている。
この記事では以降、『VULGAR』収録版を『旧OBSCURE』、『LOTUS』収録のリメイク版を『新OBSCURE』と記載する。
グロテスクなミュージックビデオが話題となった『旧OBSCURE』
DIR EN GREYの特徴として、
・視聴年齢制限ありのミュージックビデオを作成する
・アルバム収録楽曲のミュージックビデオを作成する
というものがある。
インターネットが普及していなかった90年代、ミュージックビデオという名称は使われていなかった。
当時はプロモーションビデオ(PV)と呼ばれ、主にシングル曲の宣伝の為に製作されていた。
ミュージックビデオ(MV)という言葉が定着したのは、VOCALOID楽曲が動画配信サイトで次々と配信されるようになった00年代後半以降である。
そう、『VULGAR』が発売された2003年はまだ、ミュージックビデオはあくまでもシングル曲の宣伝の為のものであり、宣伝目的ではなく作品としてミュージックビデオが製作されることは稀であった。
『旧OBSCURE』のミュージックビデオは当時は珍しい、宣伝目的ではなく作品としてのミュージックビデオだったのである。
グロテスクなので苦手な方は注意が必要ではあるが、2012年に英音楽サイト『Gigwise』が発表した「最も物議を醸したミュージック・ビデオ TOP50」にて8位にランクインした作品なので、興味のある方はぜひ視聴してみて欲しい。
過激で凄惨なミュージックビデオに対し、悲しさと空虚感が前面に押し出された『旧OBSCURE』
「吊るした紅月 今宵で幾つ」
伝奇小説の冒頭のような一節から始まる『旧OBSCURE』は過激なミュージックビデオに対し、DIR EN GREY楽曲に親しみ慣れた者にとっては“美しい”と思える楽曲である。
いや、“鬱くしい”と表現するのが適切か。
(勿論、DIR EN GREYを聴き慣れない者にとっては充分過激な楽曲なのだが)
主人公は花街の娼婦。
「合わない」と表している通り、彼女は望んで娼婦に身を落としたのではない。
嘔吐、目眩という言葉が繰り返されるように、彼女は今の状況に嫌悪感を感じるのであろう。
昨年ある男性芸能人が「コロナが終息したら絶対面白いことあるんですよ。美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。短時間でお金を稼がないと苦しいですから」という発言をし、女性蔑視発言と話題になった際に反論として「セックスワークを自ら望んで選んでいる女性もいる」という声も上がったが、少なくとも『旧OBSCURE』の主人公の女性は望んで娼婦を選んだわけではない。
冒頭の「紅月」とは文字通りの赤い月ではない。
「秘め事隠す未熟児」、つまりセックスワークにより主人公が妊娠した胎児、もしくは産んだ後に殺害した赤子の事である。
「今宵で幾つ」とある事から、1回や2回、一人や二人ではないのだろう。
そして「棘を刺して彼方は消える」。
父親である男性は責任も取らずに消えている。
いや、女性が苦しんでいることすら知らないのかもしれない。
欲望を吐き出したのであれば、捌け口となった娼婦のことなど気にも止めないのかもしれない。
『旧OBSCURE』では主人公は彼らに対しての復讐心を露にはしない。
「棘の生えた蜘蛛に成りたい」という言葉で垣間見せるものの、主人公はまた「夜が始まり人が犇めく」花街へと戻っていく。
2度繰り返される「覚えているのでしょう?」という言葉。
赤子から主人公へ向けての言葉でもあり、主人公から男性へ向けての言葉でもあるのだろう。
『旧OBSCURE』の主人公は、加害者でもあり、被害者でもあるのだ。
そして彼女は『旧OBSCURE』渦中では悲劇に終止符を打とうとはせず、また花街へと戻っていく。
『旧OBSCURE』では悲劇は終わらないのだ。
彼女はこれからも同じことを繰り返すのだろう。
だがしかし、果たしてそんな彼女は「悪」なのだろうか?
アサシンからアヴェンジャーにクラスチェンジした『新OBSCURE』
「汚れは満ちた糜爛の月と嘔吐 お前の名を私が付けては奪い去る」
から始まる『新OBSCURE』は、苛烈さを増している。
『LOTUS』が深海の底のような静謐な楽曲だからこそ、その苛烈さはより際立つ。
『旧OBSCURE』より色彩が減っている。
『旧OBSCURE』の色彩は「黄金色」「涙色」「目眩色」「柘榴色」の四色だったが、『新OBSCURE』の色彩は「黄金色」一色である。
『旧OBSCURE』で「棘の生えた蜘蛛になりたい」と口にしていた彼女は、『新OBSCURE』では既に「棘の生えた蜘蛛」に成ってしまっている。
「棘の生えた蜘蛛」に成って記憶を巡らせている彼女が覚えている目眩は、『旧OBSCURE』とは違うものに感じる。
まるで「復讐する相手(男性)」が多すぎて目眩を覚えているような、そんな光景さえ想像できる。
DIR EN GREYのリメイク作品は、原曲の原型を留めていないものも多い。
原曲とは全くの別物としか思えないリメイク作品も多い。
『新OBSCURE』は原曲のフレーズや形が色濃く残っているリメイク作品ではあるが、楽曲を彩る感情は全く別のものとなってしまっている。
いや、『旧OBSCURE』の主人公の悲しみが深すぎて、それが怒り・憎悪へと転じてしまったと解釈すべきか。
だが、被害者である主人公が加害者へ怒りと憎悪を向ける復讐者へと転じてしまったが故に、“もう一方”の被害者も復讐者へと転じているのが『新OBSCURE』の恐ろしさである。
復讐者に転じた被害者は、自身が加害者となり危害を加えた被害者の復讐に怯えることとなる
不倫した芸能人が記者会見で「苦しい」と吐露する姿を見かける。
世間は「苦しいのは不倫された方だ。お前じゃない」と罵るが、実際不倫をするのは苦しみを伴うのである。
何故か。
不倫には嘘と隠し事が伴う。
自分自身が嘘をつき、隠し事をするという事は、他人も自分に嘘をつき、隠し事をするという事である。
つまり、不倫をしてしまうと他人の言葉が信じられなくなってしまう。
他人が自分に嘘や隠し事をしていると疑心暗鬼になってしまうのだ。
復讐心も同じである。
自分が加害者に対して復讐心を向ければ、自分自身も被害者からの復讐に怯えることとなる。
『旧OBSCURE』で主人公は「染井吉野には成れる」と口にしていた。
染井吉野……桜は死の象徴だったのだろう。
『旧OBSCURE』では彼女は「死を選べる」と口にしながらも、それを選ばなかった。
自分はまた悲劇を繰り返すであろう事を知りながらも、安易な死を選ばずに花街へと戻る道を選んだのだ。
『旧OBSCURE』で、彼女は悲劇に終止符を打とうとはしなかった。
彼女は被害者のままである事を選んだのだ。
だが、『新OBSCURE』で彼女は復讐者へと転じた。
一方で、彼女は『旧OBSCURE』では抱いていなかった恐怖に苛まれることとなる。
『新OBSCURE』でも死の象徴である桜は登場する。
しかし、『新OBSCURE』で主人公が桜に成る事を選べないのは、『旧OBSCURE』とは全く別の理由である。
加害者である男性に復讐する復讐者へと転じた彼女は、自分が殺した赤子たちからの復讐に怯える事となる。
桜に成る事を選んだら、死を選んだら、たちまち自身は赤子たちに復讐されるであろう。
自分が今、復讐者と化しているように。
だから死は選べず、そして死を恐怖せざるを得なくなった。
彼女は復讐者へと転じてしまった事で、同時に被害者のままでいられなくなってしまったのである。
これが『新OBSCURE』の恐ろしさである。
『名前』が意味するもの
『新OBSCURE』の冒頭に戻ろう。
「汚れは満ちた糜爛の月と嘔吐 お前の名を私が付けては奪い去る」
これは加害者視点の一節である。
『旧OBSCURE』にはなく、『新OBSCURE』で新たに加わったもの、それは加害者の視点である。
被害者が主人公の場合、奪い去られたのは元の名であり主人公の人間としての個や尊厳である。
主人公は彼女個人としての名を奪われ、娼婦としての源氏名を与えられ、人間ではなく商品として、モノとして扱われる。
では、“もう一方の被害者”はどうなるのか?
赤子は元々名を持たない。
産まれてから名と、人間としての尊厳を与えられる。
この部分が主人公とは真逆である。
では、「お前の名を私が付けては奪い去る」とは何を意味するのか?
主人公は産んだ赤子に名前をつけて、個と人間の尊厳を与えた上で“殺す”という名の剥奪を行ったのではないか?
『OBSCURE』とは「不明瞭」「よく見えない」「曖昧」
その言葉通り、『旧OBSCURE』では主人公が中絶したのか、出産した後で赤子を殺したのかが不明瞭だった。
未熟児という言葉があるが、これはまだ人の形を成していない、産まれていない胎児とも解釈できる。
だが『新OBSCURE』では、主人公は赤子に名と人間の尊厳を与えた上で、明確な殺意をもって殺害を行っている。
四色だった色彩を黄金色の一色にした事で不明瞭だった部分が明瞭さを増したのが『新OBSCURE』である。
だが、しかし。
それでも『新旧OBSCURE』揃ってぼかされておらず、明瞭で明確となっているものがひとつだけある。
主人公は決して死を選ばないのだ。
それが無気力さ故か、恐怖故かの違いはあるが、主人公は死を選ばずに生きてゆく。
犯した罪を自覚し、命を奪った事を自覚し、絶望しながら、或いは復讐心と恐怖に飲まれながら、それでも彼女は死を選ばない。
それでも彼女は生きてゆく。
DIR EN GREYの世界の登場人物たちは、例外はあるものの、基本的にはどんなに辛くても、苦しくても、安易に死を選ばない。
土に塗れても、泥を啜ってでも、それでももがき、足掻き、必死に生きてゆく。
私は、それこそが彼らの世界観の魅力のひとつであるように感じる。
「それでも生きる」その力強さが、私を惹きつけてやまないのだ。