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最高の恋人(9)追憶

  目の前に鬱蒼とした樹木が立ち並んでいた。ムッとするような湿り気のある外気が鼻につく。
 実際の樹海は、自分の想像していたものとは全く違っていて、ところどころ、ポンと開けた空間があり、そこを抜けるとまた樹林が続いている。
 昼間でも太陽の光は樹木に遮られて、燦々とは届かない。

 いったい、今何時ごろなのか…
 電池も切れてしまった携帯の画面は黒いままだ。
 もう何日も歩き続けて、何も食べていないのに死ぬことさえ出来ない。
 このまま歩き疲れて倒れてしまえば死ぬことが出来るのだろうか。
 夜が来て眠り、朝が来て目が覚める度に軽い失望感に襲われる。
 ああ、昨日も死ぬことが出来なかった。
 眠っている間に死んでしまうというのは容易いことではないのだと思い知らされる。

 途中、首を吊った遺体の残骸が大木からぶら下がっているのを見かけた。出来ることなら、誰にも自分の朽ち果てた肉体を見せたくはなかった。
 死んだあと、自分の醜い姿を見せる事で誰かの迷惑になることだけは避けたかった。
 もっと奧へ、奥へ。
 誰からも見つからない、誰も知らない場所へと行ってしまいたかった。
 ずっと歩き続けているのに、若い肉体は疲れを知らない。死にたいと思っているのに、生への執着が肉体に意外に残っているのがもどかしかった。
 
 樹海では、毎日のように夕立があった。その度に水分が口から流れ込む。そうやって生き延びているのが不思議だった。
 人間はなかなか死ねない。薬も飲まず、首を吊ることもせずに死のうと思うのは並大抵のことではない。
 自分の若さが恨めしかった。
 ふと誰かの声がしたような気がした。
 自分以外にも死のうとしている人がいるのだろうか。
 そう思いながらも歩き続けていると、樹木の向こうに何人もの人間がいるのが見える。
 集団自殺。
 もしそうなら、自分も一緒に加えてもらおう。
 そんな気持ちで人影の見える方へと近づいた時だった。

 「あれ、君、エキストラは、向こうで待機だよ」
 ふと声がして、振り向くと、一人の割腹のいい男性が立っている。
 「君、エキストラじゃないのか?」
 返事をすることもできず、その場に棒立ちになった。急いでその場を立ち去ろうとしたら腕を掴まれた。
 「ちょっとこっちに来なさい」
 強い力で引っ張られ、しばらく歩くと何台もの車が止まっている広場にたどり着いた。
 大勢の人間が忙しそうに立ち働いている。
 一見して何かのロケ現場だとわかった。
 忙しい為か、誰も達也に視線を送る人はいない。
 「ああ、ちょっと、誰か手が空いてる人いないかな?」
 「社長、どうされたんですか」
 若い男性が走ってやってきた。
 「ああ、浦か、ちょうどよかった。ほら、エキストラの子が一人ドタキャンして困ってるって言ってただろ。ちょうどいい子がいたから連れてきた。えっと、君、名前、なんて言うんだ?」
 年配の男性の強い視線と有無をも言わさない口調に小さな声で答えた。
 「くぜ……久世達也」
 「達也君か。そうか、いい名前だ。
 じゃあ、エキストラで、ちょっと映画のワンシーンに出てくれ。
 そうだ、その前に何か食わしてやってくれ」
 「わかりました。じゃあ、君、こっちに来て。
 昼飯の弁当とお茶持ってくるから。
 食べたら、メイクして着替えてもらうからね。逃げるなよ!」
 「浦! 口が悪い。そんなんだから、エキストラに逃げられるんだ」
 「すみません、つい…
 じゃあ、君、あっちへ行こう。社長、助かりましたよ」

 浦という若者に、ワゴン車の隣りにあるテントの中に連れて行かれた。
 何人もの若者が、テーブルを囲んで食事をしていた。
 「はい、これ、ロケ弁。それとお茶ね。食べたら、悪いけど顔洗って。簡易シャワー室あるから、そこでシャワー浴びてメイクしたら撮影だから」
 それだけ言うと彼はさっきいた方へと行ってしまった。
 達也の手には、弁当とお茶が残された。
 何日ぶりの食事だろう。
 弁当の蓋を開け、少し震える手で箸を掴み、白米を口に入れた。途端に口の中いっぱいに唾液が広がって猛烈な空腹感と共に食欲が蘇ってきた。そのあとは本能の欲するままに食べ続けた。
 一気に食べて、お茶を飲み干すと身体に活力が戻ったのがわかった。
 「食べた?」
 顔をあげると、さっきの男性が達也を見下ろしていた。
 「はい」
 「じゃあ、シャワー室に案内するよ。ホント、助かったよ、君がいて。ちょうど長身だし、男前だし、社長もいいのを見つけてくれてバッチリだ」
 簡易シャワー室は、ワゴン車の停っている空き地の隅に簡易トイレと向かい合わせの形でいくつも並んでいた。
 「あっちゃーん、この子、見れるようにしてくれ」
 あっちゃんと呼ばれた小太りの女性が小走りにやってきた。
 「エキストラの子? 見つかったの?」
 「うん」
 「へぇー、なかなかいいじゃない」
 彼女は、腕組みをしながら、達也の前に立って、上から下まで舐めるような視線を投げかける。
 「君、幾つ?」
 「二十一です」
 「そっか。ちょっと汗と汚れ、落としてきて」
 そう言ってバスタオルと普通のタオル、それに下着と浴衣を手渡された。
 「また、社長、どっかから拾ってきたんだよ」
 「やっぱり! でも今度の子はなかなかいいかも」
 シャワー室の中にさっきの二人の話声が聞こえてくる。

 達也は、何も考えないようにした。何も考えずにいたかった。
 シャワー室から出ると、大きなコンテナ車に連れて行かれた。中に入ると何台もの化粧台が置かれていて、何人かの若者がメイクの最中だった。
 「君、ここへ座って。ちょっと今から白塗りするから、じっとしててね」
 「白塗り?」
 「うん、君は、若武者の役だって。なので、ちょっと綺麗にします」
 達也は思わぬ展開に何も言えなかった。
 「ああ、大丈夫、大丈夫。着物着て、その場に立ってるだけでいいから。誰でも出来るのよ。まあ、見てくれさえ良ければ誰でもね」
 あっちゃんと呼ばれた人は、後ろに立ち、強い力で達也のこめかみを引き上げ、額と共に両脇をテープで止めた。白いドーランが顔、首筋と塗られていく。
 その様子を見ながら夢を見ているような気がした。
 顔全体にドーランが載せられると、彼女は筆で眉を描き、まぶたの際に紅色でラインを引いた。最後に薄紅を唇に載せ、かつらを被せる。
 彼女は、腰に手を当てながら、じーっと鏡に映る達也の顔を見た。
「ふーん、社長が連れてきただけあるわね。君、衣装部に行くからついてきて」
 彼女に強引に別のワゴン車に連れて行かれた。
 「長さん、この子、お願い! 若武者で」
 長さんと呼ばれた初老の男性が、達也の前にやってきた。
 「うーん、背が高いな。百八十ぐらいか?」
 「八十三です」
 「そうか、丈的にギリギリだな。まあ、何とかなるだろ、こっち来て」
 浴衣を脱ぐように言われ、あとはまるで着せ替え人形のようにされるがままになっていた。
 「よし、出来た。鏡で見てみろ。なかなかのものだ」
 そう言われて、鏡に映る自分の姿を見てみた。
 そこには見たこともない一人の若侍が立っていた。


 「お疲れさん。今日の撮影はこれで終了です。明日も早朝からロケが入ってますので、遅れないように集合してください。解散」
 係りの人の声がして一斉に解散になった。達也は衣装を脱ぐためにワゴン車の方へと歩いていこうとしたときだった。
 「君、ちょっと、社長が呼んでるから」
 声のする方に顔を向けると、浦と呼ばれていた人が立っていた。
 「え? 僕ですか」
 「うん、君、君。久世達也君だっけ。社長が待ってるから着替えたらここに戻ってきて。それと、これ着替え、渡すように言われた。君の服は悪いけど汚れてたから処分させてもらったよ」
 達也は外にある洗面台で白塗りのドーランを落とし着替えをして元の場所に戻った。スタッフや出演者達が口々に「お疲れさま」と言いながら車やバスに乗っていく。
 大掛かりな撮影だということだけはわかったが一体何の撮影なのか、どこがしているのかも全くわからなかった。
 言われるままにこんなことになって、このままそっといなくなってしまおうかと思ったときだった。
 一台の黒い乗用車が達也の側に停まりドアが開いた。中にさっきの社長と呼ばれた男性の姿が見えた。
 「さ、乗りなさい。どうせ行くところもないだろう。ちょっと私につきあいなさい」
 その言葉は優しかったが、有無を言わさない強い眼光で見つめられ、達也は従うように車に乗り込んだ。
 男性は運転手に言った。
 「このまま事務所に戻る。途中、都内の適当なところで飯を食うから、どこか連れていってくれ」
 「わかりました」
 男性は、達也に言った。
 「今日は疲れただろう。ちょっと眠るといいよ。都内までだいぶかかる」
 そう話したきり、黙ってしまった。
 いろいろ聞きたいことはあった。しかし何から聞けばいいのかもわからず、聞いてどうするかも決めていなかった。
 ただ、男性から漂う微かなコロンの優しい香りが鼻先をくすぐり、何とも言えない安堵感に包まれた。
 車の定期的な振動が達也をいつのまにか眠りへと誘っていた。

 「達也君、着いたよ。起きなさい、聞こえるかな」
 男性の声で目が覚めた。
 「よく眠っているようだったから、食事をやめて直接ホテルに行くことにした。君が今夜泊まるホテルだ。さっき弁当を買っておいたから、これを持ってフロントで自分の名前を言いなさい。君の名前で予約をしておいた。明日は、昼の十二時に迎えに来る。それまでゆっくり過ごすといい」
 「あの……」
 「遠慮せんでいい。言われた通りにしなさい。決して悪いようにはしないから」
 社長と呼ばれる男性に促され、車を下りホテルの入口に向かった。
 振り向くと、ホテルに入るのを見届けるように車はその場に留まったままだった。
 フロントに行き、鍵を貰って部屋へ行った。
 椅子に座って渡された弁当を食べ、バスタブにお湯を張って浸かった。温かい湯が身体に染み込んで、それまでの緊張を一気に解した。
 なぜか、涙が溢れた。
 濡れた手で顔を拭った。拭っても拭っても涙が流れ続けた。
 まるで緊張の糸がプツンと切れたように、涙は止まらなかった。
 頭の中で今日一日の出来事がめまぐるしく思い起こされる。
 なぜ、自分は生きているのか。なぜ東京に戻ってきたのか。死にきれずにさまよった挙げ句にここにいる。
 達也は、考えることをやめた。考えてもわからない。ただ、まだ生きている。それだけが現実だった。


 次の日、約束通り、車が迎えに来て、表参道にある一軒のカフェレストランに連れて行かれた。
 そこは、達也が何度も通った馴染みの場所だ。忘れたくても忘れられない場所。ここへ連れてこられたことに因縁を感じた。
 「ここは、私の父が建てたカフェでね。遠慮しなくていい。
 どうだ、人生、やり直してみる気はないか?」
 芸能事務所の社長で松倉と名乗る男性は、達也に芸能人になって人生をやり直してみることを勧めた。
 「君がどんな理由であの場所にいたかは一切問わない。
 ただ今までの人生を投げ出してしまいたくなるような出来事があったのだという事だけは想像がつく。それならいっそ、新しい人間に生まれ変わって人生をやり直さないか。君はまだ若い。人生は、いつだってやり直しが効くんだ。これは一つのチャンスだ。そのチャンスを掴み取ってみる気はないか?」 
 彼は達也の目を正面から見据えていた。
 松倉は何も聞かなかった。
 なぜ、あの場所にいたのか、達也は今までの生活をかいつまんで話した。話し終えたとき、彼は言った。
 「私は今まで何百人という子を見てきた。人を見抜く目だけは確かだ。君はきっと芸能人としてやり直せる。頑張ってやりなさい。
 君は犯罪を犯したわけでもない。人に迷惑をかけたわけでもない。ただ、ちょっとルートから外れただけだ。
 今まで一人で頑張ってきたんだ。これからは、もっと人に頼って生きてみなさい。君なら、きっと人生をやり直せるよ」


 それからは、名前を変え、整形をし、高良淳として生きてきた。
 韓国人の母を持つということも最初は伏せていたが、韓流ブームの中で強みになると言われて公表した。
 この四年間、過去を振り返る暇もないぐらい必死で生きてきた。

 新しい環境、新しい名前、新しい人生の中で、いつも心の中に一つだけわだかまりを持ち続けていた。
 小さい頃から好きだった女の子。
 辛いことばかりの人生の中で、ただ一つ、宝物のように輝いている記憶がある。
 その記憶の中にいる女の子に、自分が生きているということを伝えたかった。
 
 

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