最高の恋人(7)再会
一冊の週刊誌がある。朝、コンビニへ行った時、買ってきたものだった。
『花崎瑠依、熱愛発覚。お相手はドラマの共演者』
週刊誌の表紙にはデカデカと大きな文字が踊っている。見開きには二枚の白黒写真が掲載され、一枚は、ひと組みの男女が抱き合って路上でキスをしている。もう一枚は、二人がお互いに腰に手を回しマンションへと入る後ろ姿が映し出されている。紛れも無く瑠依のマンションだ。写真には見出しがついていて、『ドラマの熱をそのまま持ち込んだ熱い夜』となっていた。
女優の花崎瑠依が放映中の「白夜行」のドラマの共演者仙道宗太と熱愛中で、深夜路上でキスをしていたというものだった。二人はマンションへと消え、朝まで出てこなかったという内容の記事が書かれていた。
淳は写真をもう一度よく見た。
男性は紛れも無く同じ事務所の仙道だった。
瑠依とは韓国から戻って来てもずっとすれ違ったままだ。何度か誘ってみたが仕事で時間がないと言われた。
「もしもし」
淳が電話をすると、掠れたような瑠依の声が受話器から響いた。
「俺」
「ああ、電話かかってくると思ってたわ」
かかってくることが当然という言い方にカチンと来た。
「週刊誌、見た。あれ、どういうことなんだよ、説明しろよ」
淳は感情を押さえることが出来なかった。
「記事の通りよ。彼とつきあってる。怒ってもいいわよ」
開き直ったような彼女の言い方がさらに淳の感情を煽った。
「ふざけんな、一体どういうつもりなんだ」
受話器の向こうで彼女がふっと笑うのが聞こえた。
「私を長い間、放ったらかしにしたのはあなたでしょ。プライドを捨てて韓国まで会いに行ったのに、あなたは一晩、私の相手をしただけで私のことを放り出した。撮影のないとき日本に帰ることさえしてくれなかった。
仕事だと言って何週間も連絡さえくれなかったじゃない。それでも恋人だって言えるの? だから私は、私のことをもっと大切にしてくれる人を見つけたの。もうあなたの恋人でもなんでもない。恋人なら、もっと大事にしてくれたってよかったんじゃない。終わりにしましょ」
彼女は一方的に電話を切った。
こっちこそ、願い下げだ、同じ芸能界にいて、韓国での仕事がどれだけ俳優として大事な仕事かわかるはずなのに理解しようともしなかった。こんな我儘な女、どうでもいい。
淳は週刊誌を丸めてゴミ箱に捨てた。彼女への気持ちも一緒に捨てたつもりだった。
小さい頃から芸能界で生きてきた彼女とは価値観が何もかも違った。
金の使い方も店の選び方も、そして人間のつきあい方まで、淳が到底太刀打ち出来ないような人脈を持ち、いつも優位に立とうとする。
金やコネのまかり通る世界が普通の感覚だと思っている彼女と、芸能人になっても昔からの感覚だけは失いたくないと思って生きてきた淳とでは、やはり生きる場所も世界も異なるのだと思った。
売れるに従い、着るものも食べるものもどんどん贅沢になり、人から物品も好意も与えられることは当たり前になった。昔、一万円を稼ぐのに何時間も炎天下で道路工事のガードマンの仕事をしたり、一杯二百円のかけ蕎麦を食べるのを楽しみに極寒の中、交通整理をしたりした。そんな暮らしをしていた頃から思えば夢のような贅沢な暮らしをしながら、自分がそういう普通の感覚を失っていくのが怖かった。
人生はいつ、どうなるかわからない。ましてや、水物の芸能界では、昨日売れていたからと言って、これからも売れるとは限らない。人が飽きたら、それでおしまい。いつか自分のことなど忘れ去って、「そう言えば、アイドルで高良淳っていたよね」と言われる可能性は大なのだから。
そんな世界で小さい頃から二十年以上も活躍し続けてきた花崎瑠依という人間は、所詮自分のような人間が務まる相手ではなかったのだ。そう思うと、随分気が楽になった。
新年早々から始まるドラマの撮影スケジュールが決まった。
ドラマの内容を聞いた時、自分に届いた手紙のことを思い出した。あれからも何度も手紙を開いては読み返していた。
妄想の世界の手紙がなぜ、自分に届いたのか。あの時に十何通届いた手紙は、あれ以降、一通も届かなかった。あれはやはり授業の課題だったのだろうか。自分が持っていてもいいのだろうか。そんな疑問を抱き続けていた。
手紙の送り主は、今も課題の手紙を書いているのだろうか。
もし、あれが課題なら、手紙は一年、続くはずだ。今頃は、生きているとわかった恋人と再会しているのだろうか。
手紙を読みながら胸が痛んだ。彼女の気持ちが手に取るようで、この四年間に彼女がどんな気持ちで過ごしていたのか、彼女が、小さい頃から彼を好きだったという事実が重かった。
ドラマの脚本が出来上がってきた。
ストーリーを読むと、驚いたことに淳が演じることになっている主人公の男子学生は、自分の好きなアイドル相手に妄想の手紙を書き続けるという設定になっていた。
まるで手紙の彼女を男性に置き換えたような話だった。脚本は一回分だけでこれからどのようにドラマが展開するのかわからない。ただ最初に聞いた話では、主人公がLove学の授業で教えられたことを実践し、最高の恋人と巡り会うというあらすじだった。ドラマのキャスティングはほとんど決まっていたが、肝心の妄想の手紙を送り届けるアイドル役だけは未定だった。
淳にとっては久しぶりの日本のドラマへの出演だ。
学園ものということで実際に大学での撮影もあると聞いていた。大学に少ししか通えなかった淳は、Love学の授業に興味があり、熊川という教授にも会ってみたかった。
俳優業というのはある意味、とても楽しい職業だ。自分より若かったり年上だったり、いろいろな年代の人間を演じる事が出来る。年代だけではない。さまざまな職業や人生も経験する。自分がまるで生まれ変わったように感じるのも面白いし、自分にない性格を演じるのも別人になったようで楽しかった。今度は大学生の役だから実際の年齢より少し若い。既に決まっている共演者達は同世代の俳優ばかりだ。初めての主役で自分が現場を引っ張っていく立場になるかと思うと身が引き締まる思いだった。
一週間後、ドラマのキャスティングが全て確定した。
淳の相手になるアイドル役は花崎瑠依だった。以前、共演したドラマも同じテレビ局の制作で、その時の雰囲気が良かったから相手役に決まったと聞かされた。
彼女と別れて、こんな形で再会することになるとは思わなかった。テレビ局側は、当然、自分と彼女の関係を知らないのだから、キャスティングしても致し方ないと言えば、そうなのだが、彼女は共演を断らなかったのだろうか。打診があったときに相手役が淳だと当然知ったはずだ。それとも、仕事だとあくまでも割り切ったのか。
彼女なら、ありそうなことだな、と淳は思った。
仕事だ。割り切るしかない。
淳は、そう自分に言い聞かせた。
十一月末、ドラマの顔合わせが行われ、都内のテレビ局のスタジオに出演者一同は集合した。
プロデューサーが挨拶をした。
「皆さん、こんにちは。今回、ドラマの企画担当をさせて頂いているプロデューサーの早川です。よろしくお願いします。
今日は出演者の皆さんと監督、脚本家、スタッフの皆さんの顔合わせをしたいと思います。これから三月までの間、一つのチームとしてやっていきたいと思いますので、現場の雰囲気がよくなるように精一杯務めさせて頂きます。よろしくお願いします。
では、まず監督の水野さんをご紹介します」
隣りに座っている少し割腹のいい中年男性が立ち上がった。
「監督の水野です。久しぶりの学園ドラマということで、皆さんの若いエネルギーに期待しています」
「ありがとうございます。では、続いて脚本家の野上先生、よろしくお願いします」
「脚本を担当した野上です。今回は都内にある京北(けいほく)大学で行われている実際の講座と学生のエピソードがモデルになっています。授業も見せて貰って来ましたので、生の雰囲気が伝わるといいと思います。
脚本はまだ最終回まで仕上がっていません。撮影を通して、皆さんのキャラクターなども変化していくと思いますので、どうぞよろしくお願いします」
「ありがとうございます。今回の撮影では大学でのロケがふんだんに入る予定ですので、ぜひ、皆さんも大学生になったつもりで楽しく学生生活をエンジョイして貰えたら、と思っています」
制作側スタッフの紹介と挨拶が終わり、出演者が続いた。
淳の隣りには、瑠依が何事もなかったような澄ました顔で座っていた。彼女は時間ギリギリに席につき、言葉を交わすこともなく、皆の前で淳に軽く会釈をした。
「夏野早紀(なつのさき)役の花崎瑠依です。主人公から妄想の手紙を貰うアイドル役です。学園ものは久々なので楽しみにしています。よろしくお願いします」
最後に淳も挨拶をした。
「こんにちは。海野茂樹(かいのしげき)役の高良淳です。ドラマには今までもいろいろ出させてもらいましたが、今回は初めての主役ということで一層責任を感じています。実年齢より若い役なので役作りを頑張り、皆さんに負けないようにしたいと思っています。よろしくお願いします」
顔合わせに続いて、一回目の台本の読み合わせが行われた。一回目には、妄想の相手の瑠依とは絡むセリフがなかった。
いよいよ二日後から撮影がスタートする。最初のシーンの場所をアシスタントディレクターから説明され、帰ろうと廊下に出た時だった。
「淳、あなたのドラマに出るのは楽しみだわ」
振り向くと瑠依が立っていた。
「よく受ける気になったもんだ。振った男と共演するのはさぞかし愉快な気分だろ」
「これから、四ヶ月、よろしくね。いろいろ話もしたいから、またつきあって」
彼女はまるで何事もなかったような言い方をして部屋へ戻っていった。
一体どういうつもりなんだと淳は不快な気分になったが仕事だと自分に言い聞かせて気持ちを静めた。
仕事に私生活を持ち込むことはしたくなかった。はじめこそ二人は絡まない設定になっているが、いずれ絡むのは分かっていた。いつまでも感情にとらわれていては、いい仕事が出来ない。
瑠依に馬鹿にされない為にも堂々と演じたかった。
撮影は順調に始まった。最初はスタジオでの撮影が続いた。
主人公がアイドルに手紙を書く回想シーンからドラマは始まる。淳は実際に自分で手紙を書いてみた。
ドラマに使われる手紙はスタッフが書き出しだけを書いたものだ。主人公の気持ちを理解するために淳は何通かの手紙を書いてみた。書いていると自分宛に書かれたあの恋文を思い出すのだった。
瑠依との絡みのシーンが二回目以降は何度か設定されていた。
わだかまりを捨てて仕事に徹しようと思った。
二回目には、妄想の中でデートするシーンが撮影されたが、長年女優をしてきただけあって、彼女は恋人役を見事に演じきっていた。
監督からは、いい雰囲気が出ていると褒められた。
彼女に負けたくない。
淳は、毎回、張り詰めた思いで撮影に臨んでいた。
ある日、収録の途中、トイレに行こうとスタジオから廊下に出たら、瑠依が立っていた。
「お疲れさま」
声をかけて通り過ぎようとしたら、いきなり腕を掴まれ壁に押しつけられ、彼女は胸に飛び込んで来た。
何するんだよ、と思わず大きな声が出そうになった。
彼女を自分から引きはがそうとしたが上手くいかない。彼女は淳を見上げながら、やっぱりあなたが安心すると言った。
勝手な言い分に呆れて物も言えなかった。
「淳、話がしたいの。時間作って」
その言葉に彼女の顔を見直した。
「何言ってるんだ。俺にはない」
「あなたになくても私にはあるの。時間を作ってくれなかったら明日から撮影に出ないわ」
「は? それでも女優なのか、私的なことを仕事に持ち込むなよ。みんなに迷惑かけるだろ」
「あなたの初めての主演ドラマ、途中で相手役が下りたらガタガタになるわ。それでもいいの」
彼女は離れようとしない。彼女は絶対に自分の言い分を通す。花崎瑠依という女はそういう女だった。
淳は、人目が気になり、仕方なく答えた。
「撮影の合間を見て連絡するよ」
彼女の身体を力いっぱい振りほどいて、それだけ言って別れた。こうでも言わなければ離してもらえそうになかった。
今さらどんな話があるというのだ。淳は、彼女の思惑よりも初めての主演作を無事にやりきることに集中したかった。
ある日、大学でのロケを控え、主要な出演者で熊川教授に最近の学生や授業についての話を聞くことになった。淳は事前に何冊か熊川教授の著書を手に入れて読んでいた。
「過去の気持ちにこだわるから、新しい出会いをしていても気がつかない。失恋にこだわるのも人間特有の感情である」
熊川の著書は、失恋の心情を分析してあるものや、恋愛に至る心のプロセスを生物学的観点から明らかにし、具体的な数値や行動として指し示しているものなど、読んでいてとても興味の惹かれるものばかりだった。
授業ロケの前日、数人の共演者、制作スタッフで熊川教授を訪ねた。
彼は皆を自分の研究室へ招き入れた。そこは雑然と資料の置かれた場所であり、小一時間ほど彼の話を聞いた。
Love学を授業として系統的に教えようと思ったきっかけは携帯の普及だったと彼は言った。
昨今の若者の特徴として、伝えたいことを直接相手に言わずにメールで伝える人間が圧倒的に多いということを知ったらしい。
言いにくいこと、ハッキリ言わなければならないことなど、人間関係を構築していく上で、当然培っていかなければならないコミュニケーション能力が若者の間で著しく低下している。その大きな原因に携帯の普及があり、苦手な相手などに対して何かを伝える時に、直接言うことを避け、メールで済ませてしまう若者が増えている。
メールは簡潔に要点を伝える利点を持つ反面、送りっぱなし、読みっぱなしで、相手とのやり取りをせずに済ませるという欠点を持つ。
人間関係とは、意見が異なる相手との交渉や意見交換を経て、考えの違いを克服する過程の中で、協調性や妥協、工夫などを身に付けていくものだ。 しかし、それらの煩雑なプロセスを避け、結論だけをメールで送るということは、人との繋がりを希薄にする。また文章だけでニュアンスの伝わらないメールは誤解を生じやすく、トラブルの元にもなりやすい。そういう環境では、骨太な人間関係を構築しにくい。
恋愛は、コミュニケーション能力を最も必要とする人間関係の一つで、自分を客観的に知り認めるところから、自分に合った相手を見つける能力を身につけることができる。
恋愛という興味ある学問を通して人間関係を構築する能力を身につけさせたいと考え、授業に組み込んだとの話だった。
淳は熊川の授業を受ける学生たちが羨ましいと思うのだった。
自分もこのような授業を受けていたら、瑠依との関係ももっと違ったものになっていたかもしれない。
それにずっと自分に届いた手紙のことが気になっていた。もし、この学校の学生のものだったら返したほうがいいのではないのか。
教授の話を聞いたあとは、ロケをする教室に移動することになっていた。
淳は全員が部屋を出るのを見計らって教授に話しかけた。
「先生、すみません。ちょっとお話しがあります。時間を作っていただけませんか?」
教授は、笑顔で快諾してくれた。日時の約束をして部屋を出た。
するとそこに瑠依がいた。
「もう、みんな先に行っちゃったわよ、何話してたの?」
もたれていた壁から身体を起こして、腕組みをしながら瑠依が尋ねた。
「別に」
「あら、そうなの。ずいぶんね。あなたが迷ったらいけないと思って待っててあげたのに。
大学との打ち合わせは、第一応接室ですって」
「ありがとう」
淳はなるべく早足で第一応接室と矢印のある方へと曲がった。
「ね、私、あなたに話があるの。この後、時間作れない?」
淳に並んで歩く瑠依が話しかけてくる。
「この後は予定がある」
「どんな予定?」
淳は、足を止めて彼女に向き合った。
「君には関係ないよ。もう俺のことは放っといてくれ」
「いいの、そんなこと言って」
瑠依の脅し文句に沸き上がる感情を押さえることが出来なかった。
「いいよ、下りたきゃ、下りればいいだろ」
そう言い放って応接室への廊下を足早に歩いた。
応接室の扉を開けると一斉に中にいたスタッフや共演者達の視線を浴びた。
「遅れてすみません」
スタッフから説明されたのは、実際の授業に淳達も参加をすることになったということだった。大学でのシーンには、エキストラは使わず、授業を受けている学生達をそのまま映し参加させるということだった。
大学でのシーンは毎回のようにあり、授業シーンも数回予定されていた。
瑠依はすこし遅れて、スタッフがロケシーンの説明をしている時にそっと部屋に入ってきて、淳の隣りの席に着いた。まるで何事もなかったような澄ました顔をして座っていた。
大したものだ。
さすが子役の時からこの世界でずっとトップを走り続けているだけある。
淳は、今さらながらに花崎瑠依という人間と自分との間にある距離感を感じずにはいられなかった。
次の週の金曜日、スタジオでの撮影のあと、淳は、熊川の研究室を訪ねた。
ノックをすると中から、返事が聞こえた。
「高良です」
「どうぞ」
ドアが開いて、熊川が顔を覗かせた。
「すみません、お忙しい所を」
「いやいや、全然構いませんよ」と彼は笑顔で淳を迎え入れた。
「ありがとうございます」
中に入ると、先日と同じように椅子に座った。
熊川は、前回と同じように人懐こい笑顔で淳に向き合った。
「ドラマの方は、どうですか?」
「はい、順調です」
「それはよかったですね。ところで、わざわざ君が尋ねて来るというのは、何かありますか?」
熊川から尋ねられ、鞄の中から手紙の束を取り出した。
「実は、今年の八月頃に、この手紙が事務所の方に届いたんですが、これは先生のところの学生さんの手紙ではないですか?」
手紙の束を見て、熊川は酷く恐縮したような顔で言った。
「いやぁ、やっぱり君のところに届いていたんだね。どうなっただろうかとずっと気になっていたんですよ」
「そうなんですか。実は僕が韓国に仕事で行って留守にしていた間に事務所に届いていたので、僕もこれを受け取ったのが十月だったんです。
ネットで検索しておそらく先生の授業の課題なんだろうと想像はついたんですが、どうしたらいいかわからず、ずっと預かっていました。すみません。お返ししますので、先生から学生さんに返して頂けますか?」
熊川は、ありがとう、と言いながら手紙を受け取り、淳に手紙が届いた顛末を話した。
「そういうことだったんですね。
どうしてこのような手紙が僕のところに届いたのだろうかとずっと疑問に思っていました。早くお返ししなければいけなかったのに申し訳ありません」
「いやぁ、ありがとう。助かりました」
熊川は、相変わらず笑顔で淳を見つめている。その笑顔を見ていると淳は、何でも話してみたい気持ちになった。
「実は、俳優の友達で、一旦別れた彼女から復縁したいと言われて困ってる人がいるんです」
「ふむ」
「それが彼女が別の男性とつきあって関係を壊したのにですよ」
「ほー」
「はい、そういう場合、どうやって相手に納得させればいいですか」
熊川は、笑顔で、だがキッパリ言った。
「それはね、態度をハッキリさせることです」
「態度ですか?」
「ふむ。友達は復縁する気は全くないの?」
「はい。あ、ええ、そう聞いています」
「じゃあ、何も困ることはない。ハッキリ言えばいいでしょう」
「それが、相手の女性は有名な女優で、言い出したら聞かないんです。周りを巻き込んでも自分の意思を通すタイプというか、相手の気持ちなど考えてない。自分が付き合う、寄りを戻すと言ったら、相手がどんなに拒否しようと聞かないです」
「ほー、それはなかなかのものだね」
「はい」
「おそらく彼女は自尊心の非常に強いタイプでしょう。そういう人は自分が納得しないと人から言われて意思を曲げたりするタイプじゃない」
「そうです。そういう彼女に納得させるには、どうしたらいいんでしょうか」
淳は、友達の話と言いながら、つい、自分のことのように話してしまっていた。
熊川は少し笑いながら言った。
「その友達に言ってあげなさい。
彼女のプライドが傷つかないように、自分は彼女にふさわしくない、もっと相応しい男がいるということを自尊心をくすぐりながら言ってみることだと」
「自分を卑下するということですか」
「まあ、手っ取り早く言えばそういうことになるが、目的は果たせる。そういうタイプは自分から捨てさせないとダメだ」
「わかりました」
「まあ、その二人は、手順を間違えたんだろうね。間違えたというよりすっ飛ばしたのかもしれない。最近の人は、ちょっと気が合えば、すぐにスキンシップするからね。お互いに外見的にはオーケーだったんでしょう。それでいきなりバクテリアの交換をした。バクテリアを一旦交換すると、なかなか離れられないものでね、相手に執着します。バクテリアの相性は良かったんだろうね。でもイライラするところをみると、彼女にとっては良くても、友達にとっては良くなかったのだろうね」
淳は、彼の著書にあった五感の交換という部分を思い出していた。
「恋愛は、五感でするもの。
人は、視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚によって相手を無意識のうちに選別している。この順序をすっ飛ばすと、あとから後悔することが多い。
失敗しない恋愛と最高の恋人を得る為には、自分の好みをよく知ることだ。即ち、自分自身をよく知るところから始めなければならない」
確かに瑠依とは、いきなり身体の関係を持った。ドラマの共演を通して、お互いの性格は知っているつもりだった。
撮影という閉鎖された空間の中で、相手に恋愛感情を持つことは珍しいことではない。一種の職場恋愛みたいなものだ。特に、瑠依とは、雪山で遭難する恋人同士の役で、悪天候の為に本当に一晩、二人だけで山小屋に閉じ込もることになった。そういう経験の中で相手に特別な感情を持つのは当たり前だったのかもしれない。
初めての恋人役で、淳はある意味、ドラマの役での感情と自分の感情との区別が上手く出来ていなかったのかもしれない。
あの花崎瑠依が自分の事を好きだと言ったことが意外で、自分を見失っていたのかもしれない。
「まあ、友達には態度をハッキリさせ、一度、彼女が納得するまで話し合うことをお薦めするね」
「わかりました。ありがとうございます」
淳は気分が軽くなるのを感じていた。
さすが、Love学の教授だけある。
淳は、帰宅したらもう一度教授の本を読み返そうと思っていた。
「では、これで……」
淳が立ち上がろうとしたとき、ドアをノックする音が聞こえた。
熊川がドアのところへ行って、何かやり取りをしているのが聞こえた。
彼の後ろから一人の女子学生の姿が見えた。
短めの髪に長身の都会的なスタイルをしている女性だった。
「紹介するよ、高良さんだ。君の手紙を持ってきて下さった。
高良さん、彼女がこの手紙を書いた本人です」
女子学生は、戸惑ったような顔をしてそこに立っていた。
彼女が高樹優子なのか。
「手紙をありがとうございました」
お辞儀をして顔を上げた彼女を、淳は信じられない思いで見ていた。
淳は、挨拶もそこそこに教授の部屋を出た。
駐車場までの道のりを長く感じた。
淳は、今、目の前で起きたことが頭の中で繰り返し映像となって脳裏に浮かんでくる。
淳は、足早に歩いた。
一刻も早くその場を離れたかった。
こんなことってあるのか。
手紙を書いたのは、高樹優子ではなかったのか。
「高樹優子というのは彼女のペンネームなんですよ。
本当は脇坂菜々子さんと言うんだ」
熊川は笑いながら、その女子学生を紹介してくれた。
それで全ての辻褄があった。
なぜ、彼女の手紙の記憶に懐かしさを感じたのか。
なぜ、彼女の手紙に惹かれたのか。
胸がどきどきしていた。
頭が真っ白になって何を話したのか全く覚えていない。
大丈夫だっただろうか。
いや、きっと大丈夫だ、わかるはずはない。
暗い車中のバックミラーに青ざめた自分の顔が浮き上がった。
四年前に整形し、別人になった自分の顔が。
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