最高の恋人(10)レモンタルト
ドラマ撮影の最後のシーンは、三月の始めの休暇中の校舎を使って行われた。実際に、Love学の授業を学生達が受けているシーンで、教授と希望者を集めて特別授業という形で行われた。
淳はあれから何度か行われた学内での撮影中も彼女の姿を捜して続けていた。
けれども多くの学生達がいる中で見つけることは出来なかった。
「脇坂菜々子です」
教授の部屋で出会った女性はそう名乗った。
四年の歳月は、彼女を見違えるぐらいの女性に変えていた。
制服を着ていた頃の面影はどこにもない。自分の目の前に現れた彼女は、すらりと長身の都会的な美人だった。
「自分の名前を書くのが恥ずかしくて、ペンネームを使ったんです」
少し悪びれた様子で答えた彼女の顔が思い起こされた。
あの頃の彼女の屈託のない笑顔に再び出会った。
あの笑顔に会いたいと何度思っただろう。
久世達也の記憶を消しても、書庫と彼女の記憶だけは消せなかった。
「はい、スタンバイ、いきます」
ADの声が響く。
「本番入ります」
淳は撮影に集中した。
今は彼女の事を考えている時じゃない。最後までいい仕事をするんだ。
自分の中で高良淳が消えて、海野茂樹へと変わっていくのがわかった。
授業風景のシーンは、熊川教授の講義から始まる。
今回は、教授の自論でもある五感を使って人間は無意識に相手を取捨選別している、というものだった。
最初の視覚による取捨選別の経験として、みんなで相手を見つめるという行為を練習してみるという内容だった。
淳は他の共演者とその練習をしている演技を至近距離と遠距離からカメラを回して撮影した。
「はい! オーケーです。お疲れさまでした」
「これでクランクアップです。お疲れさまでした!」
声と同時に会場から拍手が沸いた。
「お疲れさん」
「お疲れさま」
口々に淳も出演者や周りの学生達に挨拶をした。
マネージャーが駆け寄ってきて、お疲れさまでしたと言う。
撮影が終わり、学生やスタッフがごった返す中、マネージャーに付き添われて外へ出た。
中庭から校舎を見上げた。あの頃と少しも変わっていない。
もう一度、こんな形でこの大学に通うことになるとは思いもしなかった。 もう最後だ。もう二度と、ここへ来ることもないだろう。
淳は、何度も校舎を見上げながら、その景色を自分の中に刻み込んだ。
淳は、無性に、撮影が終わった解放感もあって、無性にあの場所へ行ってみたくなった。
表参道に車を走らせ、近くのコインパーキングに駐車した。
今日はわざとマスターには連絡をしなかった。
平日の夕暮れどき、辺りは薄暗く、前庭には人影がまばらだった。
淳は、樫の木の下にあるテーブルに視線を投げかけた、
あの頃、二人で座った場所には先客がいるようだった。
テーブルの上には、古びた本が一冊置いてある。持ち主の姿は見えない。
本の表紙が目に入った時、誰が先客なのかわかったような気がした。
惹かれるように向かいの席に座った。
戻ってきた持ち主に声をかけた。
「やっぱり君だったんだね。
先日は、失礼しました。
今日は、撮影にいたの?」
脇坂菜々子は、驚いたような顔をして、その場に立ちすくんで、小声で答えた。
「はい」
「そっか、たくさんの人でわからなかった。
ちょっと一緒に座らせて貰ってもいいかな」
彼女は戸惑った表情を見せながらも自分の席についた。
「ここ、いいでしょ。大好きな場所です」
淳は、馴染みの店員を呼び止めていつものものを頼んだ。
彼女の前には、ブルーベリータルトとアイスティーが並んでいた。
これもあの頃と何も変わらない。
しばらくして、淳の前にレモンタルトとアイスコーヒーが並べられた。
淳は、テーブルの上に置いてある本を指差しながら言った。
「それ、ホビットの冒険でしょ? 知ってます。面白いんだよね、それ、僕の大好きな本です。
じゃあ、戴こうか」
淳は、フォークでいつものようにタルトを真ん中から真っ二つに切った。端のビルケット部分を切り離して、左側のひと切れを口に放り込んだ。
カリンといい音が鳴った。
淳は、彼女に笑いかけながら席を立った。
「今日は、撮影、お疲れさま。
タルト、美味しかった。
君は、ゆっくり食べて」