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最高の恋人⑶マスク


 天国にいる達也に向かって手紙を書くようになって、菜々子は、心の中に溶けることなくあった氷の塊のような感情が僅かに動き始めるのを感じていた。
 あの頃、勇気があれば伝えることのできた思いを彼に向かって手紙に書く。いつしか彼と高良淳という人の面影が重なっていく。
仮想の達也に見立てているせいか、あちこちの画像に映る高良淳の姿形は全く違うのに、なぜか懐かしかった。

 今日もミナと別れて、お気に入りのカフェに来た。
 この場所にいるときだけが心が落ち着く。
 「お待たせしました、アールグレイのストレートアイスとブルーベリータルトです」
 そう言って店員が菜々子の目の前にいつもの品を並べていく。
 鞄から読みかけのアガサ・クリスティーの「青列車の謎」を取り出し、ページを開く。ミステリーの筋もさることながら、小説の中にある何気ない描写が好きだった。
 お茶の時間、その時代の上流階級の暮らしを反映するかのような家並みや庭園の細かな描写、そして、ミステリーの謎解きに不可欠な小道具の存在。特にこの小説には、長距離列車が登場する。日本にはないコンパートメント内での犯罪、そして、服装、気品ある小物の数々。
 祖母から与えられた世界は、菜々子の想像を掻き立て心を奪っていく。
 傑作の多いアガサの物語の中でも特にこの小説を菜々子は気に入っていて、何度となく読み返していた。物語を読みながら古き良き時代のイングランドの暮らしに心を馳せる。大好きなアガサの世界は、菜々子をいつしかすっかり店の喧騒から抜け出させ、小説の世界へと誘っていく。
 あの夏の日以来、片時も外すことのなかったマスクをこの場所にいるときだけは無意識のうちに外していた。
 コロナが治まったのと夏を迎えて、街行く人の多くがマスクをすっかり外していたが、菜々子は相変わらずマスクが外せないでいたのだ。

 「一度、こっちに来る気はないかい? もうずいぶん菜々子にも会ってないしね。梅雨に入る前に一度、書庫の整理をしようと思うんだよ」
 神戸で一人暮らしをしている祖母は、もうすぐ八十になる。
 祖母からの電話に、慌てて問い返した。
 「書庫の本を処分するの?」
 「菜々子には悪いんだけど、私も年だからね。本の管理もなかなか大変なんだよ。それに菜々子が来なくなってからは、この書庫を利用することもなくなったしね。本がこれ以上、傷んだりする前にどこかに寄付をして、たくさんの人に読んでもらうのがいいと思うんだよ」
 
  長い間、祖母宅を訪れていなかった。
 書庫の本が処分される。
 達也と一緒に読みふけったあの場所が無くなる。
 菜々子はいたたまれない気持ちだった。
 五月の最後の週末、泊りがけで出かけた。
 御影の駅から続く閑静な住宅地の坂道を登りきったところに祖母の家は立っている。震災に遭ってもビクともしなかったという頑丈な洋館は、父の自慢の実家でもある。しかし祖母が亡くなれば、書庫を管理する人間もいなくなるのは目に見えていた。今のうちに書庫を整理したいという祖母の気持ちもわからなくはない。

 「菜々子でーす」
 玄関ホールで靴を脱ぎ、黒光りする長い廊下を突き当たりまで歩く。
 見慣れた書庫の扉があった。扉は半開きになっていて祖母がいるのがわかる。
 「おばあちゃん、菜々子です」
 白髪のパーマがゆるくかかり、まあるくなった小さな背中に菜々子は声をかけた。
 「あ、菜々子。よく来たね、まあまあ、すっかり見違えちゃって。元気だったかい?」
 「うん、元気。おばあちゃんも元気そう」
 「そうでもないよ、最近はもうろくしてしまってどうにもならないよ。応接間にお茶が用意してあるから、しばらく休むかい?」
 「うん、でもちょっと先に捜したいものがあるから」
 菜々子が答えると祖母は書庫から出てきた。
 「そうかい、じゃあ、おばあちゃんは、ちょっと休憩しようかね。菜々子もあとで応接間に来るといいよ」
 祖母が出ていくのを見送りながら、菜々子は書庫の厚い扉をくぐった。

 書庫の中は、ひんやりとした空気が辺り一面を覆っている。床から天井までの四方の壁一面に備え付けられた漆黒の本棚には、びっしりと隙間なく本が並べてある。
 洋館仕立てのこの家の天井は高く、脚立なしには上段の本を取ることは出来ない。本棚は、絵本の棚、一般書籍、美術書、そして祖父が集めたとされる数々の洋書の四つに大きく分類されていて整然と並べてあった。
 あの頃、とてつもなく大きな本棚だと思っていたのに、そんなふうに感じないのは、菜々子がそれだけ大きく成長した証でもあった。
 記憶の中の書庫はもっと幻想的で一種の憧れの場所だった。
 今、こうして目の前に現実として見る書庫は、古びた多くの書物の保管庫だ。それでも、どこか懐かしい匂いにセピア色の記憶が蘇る。 
 
 菜々子は、ある棚の前に立ち、本の背表紙を指でなぞっていく。
 捜していた本は、『指輪物語』の隣りに並べて置いてあった。その本を手に取り、表紙に書かれていることばを慈しむように撫でた。
 『ホビットの冒険』
 初めてこの家で達也と出会った日、指輪物語を読んでいるのを見て、「これも読んだの?」と達也が渡してくれた本だった。
 祖母の家にこれほど多くの本があっても達也がいなければ十分の一も読まなかったかもしれない。達也がいろいろ話してくれる世界が面白くて、小学校の間は、長期休暇ごとに祖母の家にしばらく滞在しては二人で多くの本を読んだ。
 菜々子は、達也が熱心に読み耽っていた外国の本が置かれている棚の前に立ち題名を目で追う。確かこの辺にあったはずだ。
 見つけた。
 『ギリシャ神話』
 一冊が分厚く、何冊ものシリーズに分かれているこの本は、多くのギリシャ神話が収められている。
 あの頃、菜々子には読めなかった英語も今では読むことが出来る。
 「菜々子、ちっとも来ないから、こっちに持ってきてやったよ。捜してる本は見つかったのかい?」
 祖母が紅茶とケーキの載ったトレイを部屋の隅にある小さなテーブルの上に置きながら言った。
 「うん、これ、たっちゃんが好きだった本」
 祖母は僅かに表情を動かしながら、そうなのかい、と呟いた。
 「うん。いつもこの本を読んでた。このシリーズ、私が貰ってもいいかな。それとホビット、指輪物語も」
 「ああ、いいよ、いいよ。どうせ、全部、菜々子にあげるつもりで管理して来たんだから、お前の好きなようにすればいいよ」
 「ありがとう。じゃあ、他にも彼が好きだった本、いくつか貰っていくね」
 祖母はしばらく、菜々子があちこちの本を手に取るのを見ていたが、やがて、おもむろに口を開いた。
 「あんなことがあってから、たっちゃんの話はしない方がいいと思ってたんだよ。本当にかわいそうだったね。
 あれから菜々子もここへは来なくなったし、すっかり書庫も寂れてしまったから、ちょうどいい機会なんだよ。
 そう言えばあの頃からずっとマスクをつけているって聞いていたけど、もうしてないんだね」
 祖母に言われてマスクを外している事に気がついた。どこで外したんだろう。
 菜々子は、慌ててポケットを探してみたがマスクは入っていなかった。玄関に置いてきた鞄の中に入れたのだろうか。
 「何度も言うように、たっちゃんがあんなふうになったのは菜々子のせいじゃないんだからね」
 本に夢中でマスクを取っていることさえ気がつかなかった。
 「おばあちゃん、心配しないで。大丈夫だから」
 「そうかい? 頑張るんだよ」
 祖母は少し安心したような表情を見せて部屋を出ていった。
 菜々子は、あらためて湿気た本の匂いを深く吸い込んだ。

 御影から戻った菜々子は、架空の相手、高良淳に課題の手紙を書いた。
 差出人の名前は、高樹優子(たかきゆうこ)という架空の名前にした。達也を思って書くのに自分の名前で書くのは余りにもリアルで辛かったからだ。
 教授の熊川は、それを見て、「ほおー、ホントにペンネームで書いてきたのか、君は面白いね」と笑った。


たっちゃんへ

 昨日ね、御影から戻りました。
 おばあちゃんの家の書庫に行って来たの。
 おばあちゃんが書庫の本を整理するというので、たくさんの本を貰ってきました。
 覚えてる? たっちゃんの大好きだった本。
 『ギリシャ神話』
 あの頃、「英語で読めるの?」とおばあちゃんに聞かれて、たっちゃん、真っ赤な顔をして言い返してた。
 綺麗な挿絵の本は、少し古びてしまっていたけれど、それでもあなたが熱心に読み耽る姿が目に浮かぶようでした。あなたは、いつも真っ先にそれらの全集のある場所に行って座り込んでた。私はその横に本を持って行って並んで座るのが大好きだった。

 時々、あなたが私の方を見ながら、「ここが面白いんだ。読んだげるよ」と、日本語に訳しながらお話をしてくれた。私は、そのお話を聞くと、いくつもの場面を想像するのです。
 挿絵を見ながら、二人で想像したよね。とても楽しかった。
 もちろん、『ホビットの冒険』も『指輪物語』も持って帰りました。
 私がこぼしたジュースの染みがついていた。いつも食べながら読むから、あなたから「本が傷むよ」と怒られていたっけ。
 でも「私の本なんだからいいのー」と言い返してた。生意気な私でした。

 あなたが高校生になり、絵本から、もっと難しい本ばかり読むようになって、私は一人取り残されたような気がした。だって、私はまだ小学生で挿絵のある本ばかり読んでいたから。
 その頃には、あなたは、ダンテの『神曲』がお気に入りでした。
 でも私は、あの本のところどころにある挿絵が怖かった。ドレの挿絵は、リアリティーがあって、『地獄』は本当にこういうものなのかと子供心に思ったほどでした。
 本を捲ると、あなたが差し込んだと思われるしおりがいくつも出てきました。それをそのまま本に差し込んであります。
 これから一冊ずつ、ゆっくり読み返そうと思っている。あなたの事を思い出しながら。本としおりを読んだら、あの頃のあなたに少しは近づけるかしら。
 小学生の頃の可愛かったあなた。
 中学生の頃のちょっとはにかんだ表情のあなた。
 高校生になって急に大人びたあなた。
 そんなあなたに出会えるかしら。

 私の記憶の中のあなたにこれから会ってきます。
 いつか私の夢の中に出てきてね。

                      高樹優子(たかきゆうこ)



「今日からは実践的な会話の練習をしようと思う。
 席の近くの人同士でまずカップルになってください。そしてお互い相手を見つめ合う。
 相手の目を4.5秒、出来たら8.2秒以上見つめてみよう。
 一目惚れする時の心理について体験してもらおうと思う。
 じゃあ、まずやってみて!」

 最初は説明ばかりの講義だったLove学の授業も、回を重ねるごとに異性に対する具体的なアプローチの仕方など実践的な内容に変化していた。
 それに従って授業に対する菜々子の気持ちも変化した。
 何より達也へ手紙を書くことで、心の中にしまい込んでいた頑なな思いが少しずつ楽になるのを感じていた。

 菜々子はミナと向かい合って、アプローチをやってみる。
「4.5秒で相手が好意を持っている。8.2秒以上だと一目惚れ」

 ホワイトボードには大きな字でそう書かれている。
 
 ミナから菜々子はじっと見つめられ、思わず視線を外した。
 「菜々子、ダメじゃない、じっと見つめ合わないと」
 「そんなこと言っても無理」
 「結構長いよね、8・2秒とか。ホントにそんなに見つめ合ってるのかな」
 ミナを見つめていると何だか変な気分になる。思わず視線を逸らした。
 「ね、ちょっとマスクとってみてよ、マスクが大きいから視線を合わせにくいのよ」
 「え」
 「お願い」
 両手を合わせて頼まれると拒むことも出来ず、ついマスクを外した。頬のあたりにひんやりとした外気があたる。
 「そうそう。そのほうが見つめあいやすいでしょ」
 ミナは、案外真面目な顔つきで菜々子を見る。
 「……5、6、7、8……はい、オーケー。これで私は菜々子に一目惚れね」
 教室のあちこちでは、視線を合わせた途端、噴き出して会話が続かないもの、言葉に詰まってしまって上を向いたり下を見たり、キョロキョロしているもの、つい目を逸らしてしまっているものなど様々だった。
 熊川はホワイトボードに五つのことばを書いて話し始めた。

「恋愛は人の五感を使ってするものだ。五感とは、視覚聴覚嗅覚触覚味覚の五つを言う。
 まず見つめ合ってお互いの好意を確かめ合う。
 お互いに好意が確かめ合えたら、次に会話をしてみる。
 ことばによってお互いの情報を交換する。声、話の内容などだ。
 これをクリアすると次に無意識のうちにお互いの匂いを嗅いでいる。
 いわゆるHLA遺伝子と呼ばれるもの。
 これは俗に恋愛遺伝子とも呼ばれ、六番目の染色体に存在する。
 無意識のうちに自分と同じ遺伝子を後世に残す為に好都合な相手を選ぼうとする。
 自分とは違う遺伝子情報を持つものに惹かれるなど、嗅覚は恋愛にとって重要な感覚になる。
 匂いが合格すると手をつないだりしてバクテリアをチェック。そしてキスすることによって最終チェックをする。
 キスは無意識のうちにお互いのバクテリアの交換をしているんだ。
 キスの相性がよくないと感じるのは、自分に対して有害なバクテリアを持つ人だと認識しているからだよ。逆に素敵なバクテリアと交換が行われると免疫力が付くね」
「先生、じゃあ、いいバクテリアを持つ相手とキスすると病気にならないのですか?」
「病気にならないとまでは言わないけど、夫婦でも毎朝、キスする夫婦とそうでない夫婦では、キスする夫婦の方が寿命が五年長いという統計があるぐらいだ」
「ええー、そうなんですか。だからうちの父は病気がちなのかなぁ」と誰かが発言したので、教室中がドッと沸いた。
「冗談ではなくキスは重要だよ。キスをクリアしたら最終段階のセックスだ。そうなって初めて種が守れる」
 
 前回の授業で教えられた、『種の存続』というテーマの講義内容が効いているようだった。
 昨今は結婚をしなくなった上に、男性の生殖能力が著しく衰えているとのデータもあり、このままではホモサピエンスとして種の存続の危機だという説もあるらしい。
 「種の存続に欠かせないものは、やはり結婚であり、結婚に至る恋愛は重要な要素を占める。それは君達の世代にかかっている。笑い事ではなく、このまま行けば出生率は益々下がり、やがて日本では子供が希少な時代がやってくる。そうなってからではもう歯止めが効かない。今でも生物学的にはかなりの危険水域だ」という話を熊川がこんこんとしてから、みんなの授業に対する意識が少し変わったように菜々子は感じ始めていた。
「みんな、恋愛して下さいよ。恋愛は大事だ。傷つくのを怖がっていたら何も始まらない。相手にぶつかって自分をさらけ出す。そんな事は今のうちしか出来ない。この五つのステップをクリア出来る相手を探そう。それが最高の相手を見つける第一歩なんだ」
 
 授業が終わると菜々子は急いでマスクをつけた。授業中はマスクをつけようとする度にミナから「ダメ」と言ってつけさせてもらえなかった。
「あれから四年だよ。菜々子の気持ちもわかるけど、もうそろそろ自分を許してあげてもいいんじゃないの。傍から見ていて、私も辛いよ」
 自分の思ったことをストレートに表現するミナでも、マスクのことだけはずっと触れずにそっとしておいてくれた。その彼女が、見ているのが辛いと言うほど、自分のマスク姿は痛々しかったのか。
 コロナも治まった、花粉症の季節でもない、風邪をひいているわけでもないのに一年中、マスクをつけている姿は確かに違和感満載なんだろう。何もない人から見れば、マスクなんて鬱陶しいだけかもしれない。でもこの薄い不織布一枚で、心の平静を何とか保つことが出来るのも事実だった。
 菜々子だけじゃない。最近は若者の間でマスクをつける人が増えているとネットのニュースにもあった。コロナ禍の中、顔を見せないで心のバリアを張っている若者が増えているという統計が紹介されていた。正直、顔をマトモに曝け出すのが怖い、という若者もいるぐらいだ。
 カフェでは外せるマスクも、それ以外の場所では相変わらず外すことができないでいた。

 今でも達也が好きだった。手紙を書くほどに自分の気持ちに気づく。いまさらどうしようもないことぐらい、嫌というほどわかっていた。それでもどうしようもなかった。彼と過ごし、彼の事を慕っていたのに、彼の現状を何も知らなかった自分が許せなかった。
 知らなかったのではなく、彼に会えるというだけで浮かれ、彼の苦しみも悲しみも何も見ようともしなかった自分が許せなかった。
 なぜ、気づかなかったのか。側にいる自分が僅かでも気づいていたら、彼をそこまで追い込むことはなかったのではないかと思うと、何度後悔してもしきれない思いにとらわれた。
 自分を嫌悪し、自分の顔を人前に晒すことすら出来なくなった。
 人と視線が合えば責められているような気分になり、視線が突き刺さるように感じた。
 人目を避けるようにしてつけ始めたマスク。マスクをしているときだけは、自分の顔を見なくて済む。自分を世間に晒すこともないのだと思えば少し楽になった。
 そんな菜々子をいつもミナはそっと気遣ってくれた。口ではポンポンと言いながら、ずっと側で見守り続けてくれたのも彼女だった。
 「ごめん、もうちょっと待って」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 「ううん、こっちこそ、ごめん。余計なこと言っちゃった。気にしないでね」
 ミナは、そう言って力なく笑った。



 Love学の授業は、益々、具体的、実践的になっていた。
 例えば、第一印象は、0.15秒で決まるというもの。
 自分の相手としての最終決定までに生殖部分から顔の部分までを十二回は注視する。
 ファッションは、女同士の戦いに勝つためにあるのではなく、素敵な男性をゲットする為にあるということ。衣服は男性の場合は経済力をアピールする為のものであり、女性はプロポーションをアピールする為のものである。また男女ともに清潔感が第一。なぜなら男性は生理的嫌悪感を回避する為、女性は浮気性であると思われないようにするためだということ。
 男性にもてる為に有効なのは、ダイエットで痩せた身体を手にいれるのではなく、ウエスト÷ヒップのWHR値が0.7の黄金比率の女性的な体型であり、ウエストのくびれこそが男性にとっては最も魅力的に見えるのだ……などなど。

 「こういうのを知っちゃうと、今つきあってる相手が自分にとって最高の相手なのかどうなのかもチェックできちゃうってことだよね。
 手順に照らし合わせて考えてみたら、そうではなかった。どこかで無理してた、ってことになるから別れちゃったりするんだよね。それで新しい相手を見つけるってことか」
 ミナは一人、納得するように言ったが、菜々子は今でも達也以外の男性の事を考えることは出来なかった。


たっちゃんへ

 今年の夏は、連日、猛暑日が続いていて、熱中症注意報が出るほとです。
 表参道のカフェに行って、しばらく一人で本を読んできました。もう長いこと行ってなかったから、まだあるかどうかもわからなかったけれど、あの頃のままのお店の佇まいでした。
 あの頃、二人でいつも見上げた大きな樫の木もそのままありました。
 覚えてる?
 あなたはいつもレモンタルトとコーヒーを頼んでいた。私はあの頃と同じようにブルーベリータルトとアイスティーを頼んでみました。
 何も変わらない、あの頃と同じ味がした。
 あなたの笑顔や声が蘇ってきて、すぐそばにあなたがいるような気がした。あなたが話したことばがあなたの笑顔と共に聞こえてきて、今にもあなたが現れるような気がした。
 そんなことはないのに。
 あなたは遠く離れたところにいるのに…
 あなたに会いたい気持ちをどうすることも出来なかった。
 今度、あなたに会ったとき、私の気持ちを素直に伝えたい。
 だからきっと帰ってきてね。
 あなたに笑われるかもしれない。
 馬鹿にされるかもしれない。
 相手にもしてもらえないかもしれない。
 それでもあなたに伝えたい事があるの。
 だからきっと帰ってきて。
 あなたに会いたい。

                       高樹優子
 


 大学が休みになり、菜々子はミナと郵便局で久しぶりに出会った。夏季休暇中も熊川の課題の手紙を提出することになっていた。
 手紙は各自がそれぞれに熊川の自宅に何通分かをまとめて郵送する仕組みだった。

 「なんでわざわざクマタの自宅に郵送しなきゃいけないのよ、面倒くさいなあ」
 ミナが頬を思いきり膨らましてブツブツ言う。
 「こうやって切手貼って手紙出すなんて、ほんとにアナログの世界だよね。恋愛ってアナログ時代の産物だったんだ」

 確かにミナが言うとおりかもしれない。
 このネット全盛時代、年賀状以外に切手を貼って郵便物を出すという行為は、日常生活から消えつつあるように思う。
 菜々子は、熊川に出す封筒の中に高良淳宛の住所を書いた封筒を入れた。 課題といっても、本当にこのまま切手さえ貼れば出せる形の手紙にしなければいけなかったからだ。
「あれ、何? 菜々子、中の封筒にも切手貼ったの?
 それに名前、自分の名前じゃないの?」
 ミナが封をする手を止めて言った。
「え? ああこれ? どうせ作り物の手紙なんだから偽名にしたの。先生もそれでいいって。いつもそうしてる」
 「へぇ、益々作家みたいね、
 ペンネームか…
 そうだよね、妄想の世界なんだから」
 「うん」
 「でもどうして切手まで貼ってるの? もったいなくない?」
 「家にたくさん切手があるのよ。それ見てたら、何だか貼って出したくなったの」
 「そっか」
 菜々子は切手を貼る理由を誤魔化した。本当はこうやって切手を貼って出せば天国にいる達也に届くような気がするのだ。
 最初は、どうせ届かないと思って書き始めた手紙。
 何通も何通も書くうちに届いて欲しいと思うようになった。
 手紙は届かなくても、思いだけは天国にいる達也に届いて欲しい。
 今でもあなたのことが好き。心のどこかにいつもあなたがいる。達也のことを忘れられない自分がいるということを達也に知って欲しかった。
 あの映画で見た赤いポスト。草原にポツンと立っている赤いポストに切手を貼った手紙を出せば天国に届けてくれる。そんなポストが本当にあればいいのに。誰かがもしかしたら届けてくれるかもしれない。
 そんな夢のような妄想を抱きながら、菜々子は封筒に宛名を書き、切手を貼って提出していた。
 高良淳の名前が書かれていても、天国への配達人は、きっと達也に届けてくれる。そんな淡い期待を胸に抱きながら。
 
 「これって返してくれるのかな」
 ミナが言った。
 「え?」
 「手紙よ、手紙。返してくれないと困るよ、クマタ以外の人の目に入ったら、こんなに恥ずかしいことないもの」
 確かにそうだ。そう言えば、提出した手紙をどうするかは聞いてなかった。
 「夏休みが終わったら、授業の時に聞いてみようよ。私も返して欲しいもの」
 「うん、そうしよう。みんな返して欲しいよね」


 夏季休暇も終わりに近づいたある日、菜々子の携帯に大学の学生課から電話がかかった。
 「もしもし、社会学部三年の脇坂さんですか?」
 「はい、そうです」
 「至急、熊川教授の携帯に電話をかけてください。携帯番号は×××××……」
 突然、至急熊川の携帯に電話をかけろと言われて、菜々子は嫌な予感がした。
 何だろう、何かしたかな。
 自分のことを振り返ってみても、熊川に電話をしないといけないようなことは思い当たらない。
 菜々子はちょっと緊張しながら番号を打ち込んだ。
 「もしもし」
 聞きなれた低音の声がした。
 「熊川先生ですか? 脇坂です」
 「あ、脇坂君か」
 「はい、学生課から電話するように言われたんですけど」
 「いやぁ、すまん、すまん。僕は君に謝らないといけないことがあるんですよ」
 「はぁ」
 思いもかけない返答に菜々子は少し戸惑った。
 すると熊川は、言いにくそうにしながら話し始めた。

 「実は、君の手紙なんだが……」

 いつもの威勢のいい声とは比べ物にならないほどの小声で、熊川は信じられないような話を菜々子に切り出したのだった。

 「なあに、それ! じゃあ、クマタは謝りの電話だったってわけ?」
 「うん」
 熊川からの電話から一週間ほど経った頃、菜々子はミナと大学近くのタルト屋さんのテラスで向かい合っていた。
 昨日、ミナから電話で、たまにはお茶しない? と誘われたのだ。
 ついでに今週提出する手紙も書いちゃわない? と言われて、つい先日の熊川からの電話の内容を話してしまった。
 熊川からは、今後、手紙を提出しなくても単位をあげるからと言われている。それでも菜々子は最後まで書きたいと思っていた。

 「それって結局配達されちゃったの?」
 「どうかなぁ」
 菜々子は目の前に置かれたアイスティーに差し込まれたストローで氷をかき混ぜながら答えた。
 「どうかなぁって、住所ちゃんと書いてないの?」
 「ううん、ちゃんと事務所の住所はホームページで調べて書いたけど、本人に届くかどうかはわからない。たくさん届くでしょ、ファンレター、だから事務所に適当に処理されてるんじゃないのかな」
 「まさか、それはないでしょ。本人に渡してるでしょ? でも読んだらびっくりするだろうね、ファンレターじゃなくラブレターなんだから。それも恋人同士の話なんだもの」
 「困ったわ」
 「なにが?」
 「だってこれだと手紙、返ってこないもの」
 「ああ、そう言えばそうだね。それでクマタ、何て言ってるの?」
 「いやぁ、もうホントにすまん! うちのワイフが余計なことしたばっかりに申し訳ないって平謝りだった」
 「そりゃそうでしょ! ホントにいい加減なんだから」
 ミナは、オレンジタルトをひと切れ、口に放り込む。
 熊川の話は、笑って済ませられるような話ではなかった。
 菜々子が提出した手紙は、当然彼の手元にある筈だった。
 ところが熊川が学会でヨーロッパに出かけている二週間余りの間に、未投函のその手紙を彼の妻が投函してしまったらしい。熊川はよく郵便物を出し忘れる癖があり、それらの手紙もその類だと思って気を利かして出してしまったと聞かされた。
 「それって何通ぐらいあったの? まさか今までの分全部とかじゃないよね?」
 「全部」
 「ええっ、全部なの? またどうして菜々子のだけ? 他の手紙も一緒にあったんじゃないの?」
 「私のだけ切手が貼ってあって、封をして出せばいいだけになってたからなんだって」
 「ああ、切手貼ってたものね」
 「もう戻ってこないわ、私の手紙」
 菜々子は、ちょっとため息をついた。
 「それでこれからどうするの? もう出さなくていいんでしょ?」
 「うーん、でも出そうと思って」
 「どうして? 単位あげるって言われたんだからいいじゃない」
 そうね、と笑って答えながら、菜々子は最後まで手紙を出そうと思っていた。最後まできちんと達也に手紙を書きたい。天国には届かないけど書くことで心は届くかもしれない。だから最後まで書き続けたかった。

 すっかり夏の盛りを過ぎて、まだ暑い中にも時々秋の予感を感じさせる心地よい風が吹いている。
 菜々子はふとマスクを外した。
 心地よい風が頬先を撫でていく。
 「気持ちいい」
 思わず声が出た。
 「あれ、マスク外したの?」
 「え」
 慌ててマスクをつけようとする菜々子の手をミナが掴んだ。
 「そのほうがずっといいよ。もうマスクするの、辞めたら?」
 ミナの指先から温かさが伝わる。
 「そうね」と言いながら、菜々子は彼女の手をそっと外した。

 

たっちゃんへ

 今日、樹海へ行ってきました。あなたが四年前、訪れた場所。
 四年も経っているのに、樹海への入口は何も変わっていなかった。
 足を踏み入れるとすぐに鬱蒼とした森が広がっています。露を含んだ下草が足に絡みついてきました。
 あなたが一人でどんな気持ちでこの道を歩いたのだろうと思うと、涙が溢れました。あの頃、私は何も知らなかった。あなたにとって、私は子供だったのでしょうね。社会の仕組みも何も知らない能天気な高校生。あなたがどうやって暮らしているのか知ろうともしなかった。あなたがどうしてそんなに日焼けして、そんなに痩せていたのか。ちょっと考えればわかりそうなものだったのに。
 あなたは、いつも私に本を渡してくれて、美味しいものをご馳走してくれた。高校生の私は、それを何の疑いもなく、当然のことのように受け止めていた。でも、あなたは私と会うために生活を切り詰め、食べるものも食べなかったのではなかったの?
 いつもいろんな本の話をしてくれたあなた。
 いつも明るく笑っていた。でもその笑顔の裏に、あなたがたった一人で人生と向き合い、戦い続けていたことを私は何も知らなかった。
 
 大学はあなたの通った学校を選びました。少しでもあなたを感じたかったから。
 ひとりぼっちで働きながら、授業料を工面して勉強を続けていかなければならなかったあなたの苦しみが、大学生になった今、少しは想像出来ます。
 自分だけが今もこんなに恵まれた生活をしていることが許せない。
 ごめんなさい。
 あなたの苦しみを少しでもわかっていたら、今頃、あなたは私の側にいてくれたかもしれないのに。

 樹海へ入るとき、入口にある売店のおばさんが声をかけてくれました。
 「気をつけて、必ず戻ってくるんだよ。奥深いところまで行ったらダメだよ」
 あなたには誰かが声をかけてくれた?
 あの頃、自分の気持ちを正直に話していればよかった。
 こんな子供の私など相手にされないと思ってた。自分の気持ちを伝えたら、笑い飛ばされそうで怖かった。
 もっと大人になって、あなたに相応しい女性になりたかった。
 自分に自信が持てた時、あなたに私の気持ちを言おうと思ってた。
 でももう、あなたはいない。
 どこにもいないの。

 私の気持ちは宙ぶらりんのまま。
 どんなにあなたを求めても、あなたはどこにもいない。
 だから樹海に会いに行ったの。

 でもあなたはいなかった。

                             高樹優子
 
                                

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