最高の恋人⑸再生
今日から後期の授業が始まる。
朝、ロールアップしたジーパンに足を通す。買ったばかりの白いシャツの裾をジーンズの上に出し、グリーンのニットセーターをボコッと羽織った。
鏡にいつもの素顔の自分が映っていた。
先日、コスメサロンで教えてもらった方法を思い出しながら、化粧水、乳液、下地クリーム、ファンデーションにコンシーラーと、教えられたとおりの手順で顔に載せていく。
ラメ入りのピンクのシャドーをまぶたに塗り、同じくラメの入ったパープルのシャドーを目尻に入れる。
「お客様は色がお白いから、これぐらい明るい色のシャドーをお付けになると、お顔がパーっと明るくなりますよ」
化粧をしてくれた美容部員の声が蘇る。
ブラウンのペンシルで上瞼の際にアイラインを慎重に入れた。
濃いブラウンのマスカラをまつげに載せ、ピンクのチークを両頬に入れると白かった顔色が明るくなった。最後にブラシにたっぷりつけたピンクのグロスを唇に塗った。
髪にドライヤーをあてながら、菜々子は、昨日の美容院でのやり取りを思い出していた。
「本当にバッサリいってもいいの?」
「ええ、いっちゃって下さい」
新宿の行きつけの美容院。小学校の頃からずっと通い続けている。
店長の大庭(おおば)は菜々子を昔からよく知っている。
いつも変わらず接してくれる人だ。
「菜々子ちゃん、ホントにいいの?」
「ええ、顎のラインでバッサリやってください」
彼はにこりとしながら、慣れた手つきで菜々子の長い髪に躊躇なくハサミを入れる。
先ず肩先の長さに切り揃えられる。
「先ず、これぐらいにカットしてから形作って行くからね」
細かく動かす刃先から長短にカットされた毛先が床にこぼれ落ちていく。みるみるうちに菜々子の足元には、黒い大きな塊が出来た。
「じゃあ、一旦、髪の毛を流すから」
シャンプー台の方へと促され、椅子から立つと、頭がずいぶん軽くなっているのに気がついた。いつも重しをつけているような感覚だったのは、重力に逆らわない髪の重さが頭にかかっていたのだと知った。
ふん、ふん、ふん。
思わず口ずさみたくなるような気分だった。
髪を切ることは、頭の重量と一緒に心の重量も軽くすることだったんだと気がついた。
短く切った髪に、生暖かいお湯がかけられる。髪の間から頭皮に染み込んで心の中まで暖かくなった。
シャンプーの気持ちよさについウトウトとしかけた頃、「はい、お疲れさまでした」と身体を起こされた。
不要な髪を綺麗に流されて一層軽くなった頭をタオルで包まれ、鏡の前に戻った。頭をタオルでゴシゴシされるあいだ、目を瞑って指の感触を楽しんだ。
「ちょっと冷たいけど頭皮に栄養を与えるからね」
目を開けると短い髪の少年のような頭になった丸顔が鏡に映っている。
「前髪は横に流してワンレングスにするね。そのほうが大人っぽいから」
店長は、ドライヤーとブラシを使って、綺麗に髪先を整えていく。
鏡の中に新しい自分がいた。
菜々子は自分の姿を点検する。
マスクの箱は処分した。
持ち物の中にマスクはない。
持ち物を全てモルダー社の黒いバックパックに収めた。
ランドセル型の長方形のマッチ箱のような鞄を背中に背負い、同じくモルダーの赤いパスケースをジーンズのポケットに差し入れる。レペットの真っ白なスニーカーに足を入れると自然と気分が高揚してくるのがわかった。
秋の爽やかな風がマンションの廊下を吹き抜ける。木々の葉がカサカサと音を鳴らした。
「おはようございます」
管理人に元気に声をかけてみる。
「あ、あ、おはようございます」
ポカンとした管理人の顔が可笑しかった。
見上げると、どこまでも澄んだ秋晴れの空が高く広がっている。
雨あがりの通学路は、学生の姿であふれんばかりだ。
「おはよう!」
ピンクのひらひらしたスカートを風になびかせながら、大学までの道を歩いているミナの後ろからポーンと背中を叩いた。
「おはよ……」
振り向きざまに菜々子を見たミナは驚きの声を上げた。
「え、え? 髪、切ったの? 」
「どしたの? まるで幽霊でも見たって顔してるわよ」
「だって、だって、菜々子、そんなに短い髪にしたの、初めて見た」
「そうだっけ? 似合ってる?」
「うん、うん、すっごく似合ってる。そのほうがずっといいよ」
ミナは嬉しそうな表情を見せて、菜々子の腕を取り、ずんずん歩いていく。彼女の足取りの軽さが彼女の気持ちを表しているようで、菜々子まで嬉しくなった。
教室へ行き、声をかけた相手はどれも豆鉄砲を食らったような顔で菜々子を見上げる。
可笑しくて思わず大声で笑ってしまった。
「ねぇ、菜々子、一体、急にどうしたのよ。ホントに菜々子だよね」
訝しげに何人ものクラスメイトが菜々子を見上げる。
「いやあね、そんなに驚かれるとは思わなかった。今日から新学期でしょ。今までと違う自分になりたかったの」
「そっか。うん、うん、いいよ、断然いい。今の菜々子の方が、綺麗だし、長身でスタイルもいい。まるで蛹から孵化した蝶みたい」
クラスメイトの反応を楽しみながらまんざらでもない気持ちだった。
達也に手紙を書くことで過去の自分と向き合う気持ちになれたのかもしれない。
書庫へ行って、達也のお気に入りの本をたくさん持ち帰った。
まるでいつも達也が側にいるようだった。
その本を一冊ずつ読み返している。
時折、達也が入れたと思われるしおりが本の間から出て来る。
そのしおりには、格言のようなものが書いてあって、それが達也からのメッセージのように感じた。
達也の好きなことばだったのかもしれない。
『今、目の前にあることを一生懸命するだけ』
『本心をいつも誤魔化さない』
『自分の人生の主役は自分だけ』
『過去は過去。何度でもやり直せばいい』
達也から、前を向いて歩いて行けと背中を押されたような気分だった。いつまでも過去にとらわれていたら、彼が悲しむような気がした。
菜々子は、今までの自分を捨てて、新しく歩き始めたかった。
『Love学』の授業は、いつものように盛況だ。
今日の熊川は何だかやけに機嫌がいいように見える。
「ねぇ、クマタ、何かいいことでもあったのかな」
「どうして」
「だってやけに機嫌よさそうに見えない?」
ミナも同じことを感じてたんだと思うと菜々子は可笑しかった。
今日はディベートの授業だ。前方にあるホワイトボードには今日のテーマである「結婚は、見合いか、恋愛か」の文字が大きく書かれていた。
「さあ、今日はこのテーマで討論してもらおうと思う」
「ちなみに先生はどっちだったんですか?」
前の席の男子学生が聞いた。
熊川は、ちょっと笑いながら、「僕は見合いです」と言った。
「ええー! 先生、恋愛じゃないんですか」
「ああ、僕は恋愛には疎くてね。
好きな人の前では声すら出せないくらい緊張するタイプだったんだよ。だから恋愛は苦手でうまくいかなかった」
「それで先生、Love学の専門家になったんですかぁ」
男子の発言にみんながどっと笑った。
「お、鋭いとこ突いてくるなぁ。図星です。
僕みたいにならないようにみんなには、恋愛の本質を学んで、最高の恋人を見つけてもらいたい」
「先生、結婚は失敗だったんですか?」
「失礼なことを言うなよ」と熊川は笑いながら言った。
「いい奥さんですよ。
見合いでも僕のようにいい人に巡り会うことも多い。
見合いも一つの出会いのチャンスだからね。見合いしてもその相手が自分にふさわしいのか、判断する目がないとその後、発展もしないからな。
見合いでも恋愛でもいいです。要は、結婚に繋がる相手に巡り会えるかどうか、関係を発展出来るだけの力を持つかどうかです」
「先生、今は見合いは、ほとんどありません」
最前列の女子学生が答えた。
「ああ、そうだったね、じゃあ、今は、マッチングアプリか。
きっかけは何でもいいんだ。要は、そのきっかけを活かせるかどうかだね。きっかけの少ない現代は、益々、コミュニケーション能力が重要になる。
だから、ディベートはコミュ力を高めるのにもってこいなんだ。
さ!隣りの人同士でディベートしてみてください」
熊川の掛け声に、あちこちで椅子を向かい合わせにし始めた。
「菜々子はどっちなの? 恋愛派? 見合い派っていうか、紹介派?」
ミナに聞かれて、どっちなのだろうと思う。
今までの菜々子なら間違いなく昔でいうところの見合い結婚のタイプだった。
でも今はどうだろう。熊川の授業を受け始めてから、菜々子は自分が変わってきたのを感じている。
達也への思いが捨てきれなくて今までは新しい恋愛に何の興味もなかった。でも恋文を書くようになり、彼への思いを手紙に託して書くことによって、あの頃伝えられなかった気持ちを伝えることが出来ている。
今まで後悔ばかりして吐き出すことの出来なかった思いが最近は胸の中に何もないことに気づいていた。
今では天国の達也に見立てた俳優の高良淳に手紙を書く事が純粋に楽しかったりもする。
「ミナは?」
「私はもちろん恋愛結婚、と言いたいところだけど、実際に結婚するとなったらどうだろう。お見合いならそれなりに条件も揃ってるし、結婚相手としてシビアに相手を見ることができるでしょ。案外、見合いっていい制度なんだよね」
「じゃあ、私が恋愛結婚、ミナが見合い結婚でディベートしよう」
教室のあちこちで熱心に討論している声が聞こえてくる。
二十分ほど経った頃、熊川がディベートの終わりの合図をして、一斉に話声が途切れた。
「ディベートした内容は、また、次の授業のときに発表してもらうことにして、ちょっと最後に皆さんに報告があります。
実はこの授業がモデルの連続ドラマが撮影される事になりました」
「ええー、すごい」
皆が一斉に口を開く。
「それって誰かがモデルだったりするんですか」
「先生!恋文、見せたんじゃないでしょうね」
「先生、先生もモデルになってるんですよね」
「まあ、まあ、落ち着いて!
実は、夏前にテレビ局の人にいろいろ取材を受けてね。君達に恋文の課題を出しているという話をしたんだが、それが興味をひいたらしい。脚本家がその話を元にドラマを書いたそうだ。それでこれから撮影をして、来年早々の放送らしい」
「えー! すごーい! 」
「先生! モデルになってるってことは、大学でも撮影とかあるんですか」
「さぁ、まだ詳しいことは聞いてないんだが、まあ、そういうこともあるかもしれんな。また、わかり次第、知らせるよ」
熊川がそう言うと教室中が一気にざわついた。
授業が終わっても席を立たないで話し込んでいる学生が多かった。
皆、一応にドラマ撮影が学内で行われるということや、授業がモデルになるということに興奮気味だった。
「エキストラとかでよくその大学の学生が映ってるじゃない。のだめカンタービレにもそういうシーンがあったよね、私達も映るかな」
ミナがウキウキしながら言う。
「エキストラの募集があれば、真っ先にミナが応募すればいいわよ」
「もちろんよ! 菜々子も出るでしょ? こんなに綺麗なんだし、もう視線も怖くないでしょ」
「え、私? 私はいいわよ、遠慮しとく」
授業が終わってミナと別れ、一人いつもの表参道のカフェにやってきた。来週提出の手紙を書くためだ。
平日の午後ということもあって、比較的店内は空いていた。店の中ほどにあるカウンター席に座る。この店のカウンター席は広々としていて気持ちがいい。カウンターテーブルの奥行きも広く、何より席と席との間隔がゆったりと取ってある。勉強道具やパソコンを広げて作業するのも隣の人の目を気にしなくて済む。テーブルには、コンセントがついていて電源を確保出来るところも気に入っていた。
古い建物で雰囲気もあるのに、こういうソフト面は現代にマッチしていて、そんなところも多くの人に好かれる要素なのだろう。
菜々子はいつものメニューではなく、今日は、レモンタルトとアッサムのホットティーを注文した。
秋晴れの柔らかい日差しが窓越しに射し込む店内で水玉模様の便箋を取り出した。
最近の菜々子は、達也への思いを書くだけ書いたら、純粋に高良淳という人に手紙を書きたくなっていた。桜の便箋から水玉に変えたのも、高良には桜が似合わないように思ったからだ。
菜々子は、彼がとても美形で上背もあり、体格もいいということをあらためて知った。
韓国でのドラマがとても好評で韓服の似合う彼には、「花武官(はなぶかん)」というあだ名がついたらしい。
多くのファンがいて菜々子が思っていたよりもずっと人気も実力もあるアイドルなのだった。
菜々子は、食べ終わったタルトの皿をテーブルの奧の方へと押しやって、手紙を書くことにした。
最初の頃、達也との思い出を書こうと思っていた。
高良淳宛に昔の思い出と達也に伝えることの出来なかった思いを書くことで自分の気持ちを吐き出したいと思った。
でも手紙を書くうちに、もし達也があの時、自殺をせず、今もどこかで生きていたら……と思うようになった。
久世達也という名前を捨て、自分の過去を捨て、あの樹海から別人となって生きていたとしたら、どんなにいいだろう。
遺体は結局、見つかっていない。だったら樹海を抜け、どこかで生きているかもしれない。
もし、高良淳が達也だったら。
高良淳に何通も手紙を書くうちに、いつしか菜々子は、そんな妄想を抱くようになっていた。
「バカね、そんなこと、ありえないわ」
菜々子は、自分で自分の妄想が可笑しくて、つい笑ってしまった。
顔も姿も全く違う。
ただ、クリクリとした目の奥に潜む瞳だけは、なぜか知っているような気がした。
「馬鹿らしい妄想は辞めて、たまには、高良さんにファンレターでも書いてみようかな」
菜々子は、水色の便箋に向かってペンを走らせ始めたのだった。