私と推し活
私は今、J-POPの音楽評論家をして、日本のアーティストの歌についての評論を書いている。
しかし、ほんの5年前までは、ある歌手のファンの1人に過ぎなかった。
そう、私は、推し活からJ-POPの音楽評論家になったのだ。
こんな話をすると、大抵の人が聞く。
「久道さんは、一体、誰のファンなんですか?」
それで私は答える。
「元東方神起のジェジュンさんです」
そう、私は韓国人歌手ジェジュンのファンなのだ。
私が彼の存在を知ったのは今から13年前の2010年初頭。
当時、日本で活躍していた5人の東方神起が分裂すると言われていた頃だ。
前年に東方神起のファンになった娘が車のオーディオに入れっぱなしにしていた彼らのアルバムを聴いたことが全ての始まりだった。
いや、これは全く正確とは言い切れない。確かに東方神起という韓国人のグループがいたのは知っていた。しかし、誰が誰で、どんな歌を歌っているかということの意識はそれまでほとんどなかったに等しい。
その頃の私は、音大を出て結婚後もピアノや歌、コーラスを教える仕事をしていた。
いわゆるクラシックの世界にいたのである。
結婚、子育てという人生の繁忙期に、すっかり流行歌というものからご無沙汰をしてしまい、世間では一体何が流行っているのか、かいもくわからない浦島太郎だった。
僅かに年末の紅白歌合戦で、その年に流行った歌を聴く、というぐらい、J-POPの世界も芸能界も私の日常には全く関係のない世界だったのだ。
そんな私が年明け早々、車のオーディオから流れてくる東方神起の歌を次々聞かされる羽目になった。それはたまたま娘が入れっぱなしにしていたアルバム。それがエンジンをかける度に流れてきていた。
彼らは韓国人のグループだがJ-POPを歌っていた。即ち、日本語で歌っていたのだ。だから私も聴く耳を持ったのかもしれない。
なんとはなしに聴き流していた私の耳に1人の歌声だけが残った。
当時の東方神起は5人全員がメインボーカルを取れるというコンセプトで売り出していた。その為、日本でよくあるスタイルの1人が歌い、その他のメンバーがコーラスをつけるという形とは全く違い、ワンフレーズずつをメンバー全員が交代で歌っていく形を取っていた。そのためにその歌声に再び出会うのには、しばらくかかる。
そうやって何曲かを聴くうちに、私はすっかりその歌声に嵌った。
彼の声の順番を心待ちするようになった。
当時の私はクラシックでもポップスでも歌手の歌をほぼ聴かない生活をしていた。なぜなら、職業柄、歌声を聴くと疲れるからだ。
「ああ、音が下がってる」
「ああ、喉を締めて歌ってる」
「なんでこんな歌い方するのかな」
「何歌っているのか全然言葉がハッキリしないな」
歌手の歌声を聴くたびに、そんなことばかりが浮かんでちっとも心が落ち着かない。だから、抜群に上手い歌手か、どうしようもなく下手なアイドルグループの歌しか聴くことが出来ない状態だった。中途半端に上手い歌手の歌は私の神経を逆撫でして疲れるだけだったのだ。
そんなこともあって、いわゆる流行歌というものに殆ど興味を持っていなかった。
ところが、そんな私が東方神起の1人の歌声だけには嵌まった。なぜなら、その歌い手は、実に理に叶った発声をしていたからだ。
伸びやかで弾力のある歌声。
高音部は流行歌手にありがちな喉を締めるような歌声はどこにもなく、どこまでもどこまでも歌声が伸びていく。
中音部は非常にまろやかな音色で濃厚なミルクのよう。まるでビロードのような艶のある響きをし、低音部は幅のあるソフトな音色をしていた。そしてその歌声は、どこまでも空間を飛んでいく。
即ち、我々、クラシック出身の人間が叩き込まれる発声法、そのものの発声をしていたのだ。
こんな歌い方をしている歌手がいるとは思わなかった。
そして、その歌声は、日頃、音楽の仕事をして疲れている私の神経に非常に心地良く響いた。歌声を聴くだけで心が休まるのだ。
長年、音楽の仕事をしてきて、指導した多くの人や私の歌を聴きに来てくれた人達が、「先生の歌声に癒されました」「先生の歌声が好きです、いつまでも聴いていたいです」と言ってくれても、私の中には何の実感もなかった。
その人達が、なぜ、私の歌声を聴いて癒されるのか全くわからなかった。 それは、私自身に「歌声で癒される」という経験がなかったからだ。
もちろん、好きなクラシックの歌手は何人もいた。しかし、その人達の歌声を聴いて心が癒されたかと言えば、そうではなく、あくまでも私にとっては「歌のお手本」であり、憧れの対象だった。その人達の歌声を聴いて、心が癒される、という気持ちは味わったことがなかったのだ。
しかし、彼の歌声は違った。
私の疲れた神経が癒されたのだ。
私は生まれて初めて「人の歌声で癒される」という経験をしたのだ。
それがジェジュンという人の歌声だった。
それからは娘が東方神起のいろんな情報をくれるようになった。
芸能人のCDなど買ったこともなかった私は、CDを買えばメンバーのカードが入っているということも初めて知った。そしてお目当ての人のカードが手に入るまで何枚でも買う人がいることやカードを交換しあうことが出来るということも知った。
私は、人生で初めてCDを買い、ジェジュンのカードを持っている人と交換して貰った。単に封筒に台紙を入れてカードを送った私に対して、送られてきたカードは、決してジェジュンの顔が傷つかないようにCDケースに大切に収められていた。ファンの人は、カード1枚を大切に扱うのだということをその時、私は初めて知ったのである。
娘に勧められて人生初のファンクラブなるものに入り、私のファン生活は始まった。
その頃には東方神起は2人と3人に分裂し、私は当然、ジェジュンのいるJYJ(当時はJJY)のファンクラブに入会した。
さらに彼らが京セラドームで行ったライブのチケットが当たったのだ。
これも人生初のライブというものに行き休憩もなく3時間もコンサートが行われるということを初体験をしたのだった。(クラシックでは必ず幕間の休憩がある)
とにかく何から何まで初めての経験だった。グッズを買うために早朝からホールに並ぶということも経験した。
そうやって私の生活は変わり出した。
彼が出る番組を見たり、週刊誌を買ったり。
女性週刊誌を買うのも人生で初めてだった。
もちろん、車の中では彼の歌声が鳴り響いている。
毎日が初めてのファン生活でウキウキしていた。
どんなに疲れていても、気分がどんよりしていても、彼の歌声を聴くと元気になった。
朝、エンジンを掛けると同時に彼の歌声が聴こえる。
それだけで、「さあ、今日も一日元気で頑張ろう!」と思えるのだった。
50代になって初めてのファン生活。
もっとライブにも行きたいし、もっと楽しみたい。
そう思っていた矢先、彼らは所属事務所とのトラブルから日本活動が打ち切りになった。そして、韓国へ帰ってしまったのだ。
私は何とも言えない喪失感に襲われた。
やっと見つけた宝物を取り上げられたような…
かけた梯子を途中で外されたような…
そんな気分だった。
毎朝、毎日、聴き続けた彼の歌声。
やっと見つけた宝物のような歌声。
その歌声にもう二度と日本で巡り会えないということ。
もう日本で彼の歌声を二度と聴くことは出来ない。
その歌声が消えてしまった、ということに茫然とした。
そして、堪らなく寂しい気持ちになった。
私はそれまで以上にネットの世界を徘徊するようになった。なぜなら、ネットには彼の情報も画像も溢れていたからだ。
そうやって徘徊しても私の心は満たされなかった。
どこをどんなに探しても彼が日本から消えてしまった、という事実に打ちのめされるようだった。
多くのファンが自分の気持ちをネットに書き込んでいた。そこには、自分の思いと同時にお気に入りの画像が貼ってある。
私も自分だけのお気に入りの部屋を作れば、この喪失感や寂しさから少しは抜け出せるのかもしれない。
そんな軽い気持ちで私は彼のブログを書き始めた。
これが、私が音楽から文筆という世界に入っていくきっかけである。
自分の寂しさを埋め、自分の気持ちを吐露する場所。
そんな軽い気持ちで始めたブログだったが、記事を書くとすぐにコメントがついた。
誰かが読んでいる。
広い世界の中で自分のブログを読んでいる人がいるということが驚きだった。
そして、2週間後、私はある人の勧めで、韓国で行われたレビューコンテストに応募することになったのである。
そこで私は、人生初めてのレビューというものを書いたのだった。
レビューというものがあるということも、その書き方さえも知らなかった私は、彼の歌に自分がどのように救われたのか、彼の歌声がどんなに素晴らしいのか、彼が歌手としてどんな才能を持っているのかということを、1人の息子を持つ母親の経験談と、音楽大学を出て、何十年と歌の仕事をしてきた専門家としての意見を交えて、彼に「手紙」という形で書き綴り応募した。
何の文章の知識もない私は、自分の気持ち1つで浮かんだ言葉をただ綴っただけのものだった。
ところが、そのレビューがコンテストで1位を取ったのだ。さらに韓国の主催者は、その作品を中国のレビューコンテストに私に無断で送っていた。
中国のコンテストでも優秀作品に選ばれ、多くの人がコメントを書き残している、と知らされたとき、私は文章の持つ計り知れないほどの影響力というものを実感した。
自分が行ったこともない国、何の知り合いでもない人達が私の書いた作品を読んで感動していると言う。
作品が私の手を離れて、一人歩きし、海を渡って遠く中国まで行き、多くの人に読まれている。
それまで私は音楽の世界で、自分の目の前にいる人達に感動を届けた経験はあっても、遠い異国の見ず知らずの人達に感動を届けることなど想像も出来なかった。
その現実が自分に起こっている。
信じられない思いと同時に文章を書いて多くの人に自分の思いを届けたい。そんな気持ちになった。
この経験が私の「文章を書く」ということの原点である。
その後、私は彼が2018年にソロ歌手として日本に復帰するまでの8年間、ブログを書き続けた。
その思いは、彼の歌声をこの日本から消し去りたくなかったから。
東方神起時代、あれだけ聞かれていた彼の歌声を忘れ去られることが耐えられなかった。
私が書くことでジェジュンという歌手の素晴らしさを少しでも多くの人に伝えたい。
そんな一心でブログを書き続けた。
新曲が出れば彼の歌声がどうなのか、レビューを書いた。
どこかで彼が歌えば、なるべくその音源を手に入れて歌声の分析を書いた。
私が書き続けることで、少しでも彼という歌手の素晴らしさが伝わればいい。
彼が作った曲、歌った曲、カバーした曲、そして、過去の東方神起時代の歌声、日本語の曲も韓国語の曲も、全てのレビューを書き続けた。
もちろん、それ以外にファンとしての気持ちも綴った。
しかし、私は彼以外の歌手のレビューを書くことはなかった。
今から思えば、彼の歌のレビューを書くことで、私は音楽評論というものを身につけたのかもしれない。
そうやって8年後、彼はソロ歌手として日本に復帰した。
彼の歌声は再び、この日本に鳴り響いたのだ。
そして韓国人でありながら、彼は多くのJ-POPのカバーを歌い、アルバムまでシリーズ化している。
私がブログを書き始めた理由、彼の歌声を少しでも多くの人に知って欲しい、彼という歌手の素晴らしさを多くの人に伝えたい、という願いは、彼が日本での活動を復活させたことで叶えられたのだ。
そうやって、私は8年間、書き続けたファンブログを閉じることにした。
正直なところ、ファン社会に疲れたという気持ちだった。
8年間のファン生活は、いいことも悪いこともたくさん経験した。書きたいことを書いているだけの自分勝手なブログは、いつの間にか巨大なブログになり、多くのファンが読むものになっていた。
文章で思いを伝えることの難しさや、誤解から生じる人間関係のいざこざに正直うんざりした。
ただ、私は彼を多くの人に知って欲しかっただけなのだ。
ジェジュンという韓国人の歌手が日本語の歌を歌う。その素晴らしさを一人でも多くの人に伝えたい。それだけが、韓国人の彼が日本の歌を好きで歌ってくれる気持ちに報いる唯一の方法だと思ったからだ。
日本活動を続けたいと言ってくれた彼の日本活動が打ち切られ、それでも彼は日本を好きだと言ってくれる。そんな韓国の若者の気持ちに日本人として応えたい。
何の社会的地位もなく、ただの普通の主婦だった私ができることは、彼の歌の素晴らしさをブログに書き綴ること。
ただそれだけだった。
日本に正式に復帰した彼には、きちんと事務所がつき、多くのスタッフがいて、彼の素晴らしさをプロモーションする。
多くの番組に出て彼の人間的魅力も歌の素晴らしさも十分伝わる。
私のブログは書く理由がなくなった。
彼が日本で歌うことで、当時私が抱いた喪失感は完全に消え去ったと言っていい。
そうやって私は5年前にファンブログを閉じた。
単なる1人のファンに戻ったのだ。
しかし、人間の習慣というものは恐ろしいものだ。
ファン時代、ほぼ毎日、私はブログに向かい、何かしらの記事を書き続けていた。そんな私はブログを閉じて何もすることが無くなった。
もちろん、彼のCDを買い、グッズを買い、楽しくライブに行ってファン生活をしている。
しかし、私は文章を書く、という楽しさをブログを書くことで知ってしまっていた。
ファンブログを書き始めた翌年には、文章の基礎を本格的に習うために、田辺聖子や朝井まかてを輩出した大阪文学学校という作家の学校へ行き、4年間在籍して文章の基礎を学んだ。
これは、音楽をする時には音楽の基礎を学ぶように、文章を書くなら文章の基礎を習いに行ったほうがいいのではないか、という友人の助言に従ったものだった。
そうやって私は8年というファン生活の間にすっかり「文章を書く人」になってしまったのである。
文章を書く楽しさを手放すことが出来なくなっていた私は、最初に自分の文章が認められた音楽レビューを書き続けようと思った。
それが今のブログを書き始めるきっかけである。
ジェジュンの歌しか聴いたことのなかった私は、J-POPの歌手の歌を片っ端から聴き始めた。
独身時代も、結婚後も、J-POPの世界にはほぼ無縁だった私は何を聴いても新鮮だった。
今までジェジュンの歌しか書いたことのないレビューが果たして他の人のものも書けるのか、ファンでもない人間が書いたものを読んでくれる人がいるのだろうか。
全てが疑心暗鬼の中で始めたことだった。
たまたまジェジュンと同じフェスティバルに出ていた三浦大知のレビューから書き始めることにした。
彼の名前は知っていたが、実際に彼の歌や踊りを目にするのは初めてだったからだ。
しかし、彼は40分ほどの持ち時間をフルに使って私のような彼のファンでもない人間が心から楽しめるパフォーマンスを見せてくれた。
三浦大知の音楽はジェジュンの音楽とは全く違う。
私は、彼のデビュー曲から1曲1曲、丁寧に聴いては、自分の感じた批評をブログに書いた。
それが、私がJ-POPの評論を書き始めるきっかけである。
そうやって、3年書き続けたコロナ禍の2020年春、私は東京にある音楽評論家の団体「ミュージック・ペンクラブ・ジャパン」に所属が認められたのだった。
単にブログを書き続けていただけの私だが、そのブログを多くの人が読みにきてくれたおかげで、ランキングが常に上位になり、その実績が認められて入会が許可されたのだ。
私は、思いもかけない形で「音楽評論家」になったのだった。
ペンクラブでは1年間、理事をさせて頂いたおかげで、日本の音楽評論界の草分け的存在とも言える評論家の先輩方と交流させて頂けるようになった。
東京で月に一度開かれる理事会に大阪から毎月出席をした。
かつて、文学学校時代に作家を目指し、いつか仕事で東京へ行けるような人間になりたいと夢みたいなことを思い描いていたことが実現していた。
そして、月に一度、ペンクラブのHPにレビューやエッセイを投稿させて頂けるようになったのである。
自分の書く文章が、音楽業界の人が訪れる場所に掲載されるようになったのだ。
そして、私は昨年の4月から、青春出版社の公式オンラインに『人生を変えるJ-POP』というタイトルで月に2度、文章を書いている。
J-POPの老若男女、さまざまなアーティストのデビューからの経歴や人物像、音楽の魅力などを書き綴る連載だ。
J-POPには素晴らしいアーティストがたくさんいる。
才能豊かな若い世代から、布施明や矢沢永吉など70代になっても歌い続ける歌手達が多くいる。
そんな人達の魅力を私の文章で多くの人に伝えたい。
グローバルな世界の中でJ-POPの良さを世界中の人達に知ってもらいたい。
そんな思いで連載を書いている。
私は13年前まで、J-POPをほぼ知らなかった。
J-POPに何の興味も持たなかった。
ただ毎日、生徒に歌やコーラス、ピアノを教え、年に一度、自分のコンサートで歌うために歌の練習をし、家事と育児に明け暮れる日々だった。
そんな私がたった一人の歌手、ジェジュンという人に巡り合ったことで、今、音楽評論家として仕事をしている。
人生が変わったのだ。
彼の歌声に巡り合わなければ、今でも私は、単に毎日、歌やコーラス、ピアノを教え、家事をして、1日を終えている平凡な主婦だっただろう。
自分の思いを文章に綴る世界に入るなどとは全く想像すらしていなかった。
ジェジュンという、たった1人の歌手に巡り合ったことが、私の人生の歯車を大きく動かし、全く違う場所へと連れて行ったのだ。
今、私が見ている風景は、13年前の風景とは全く違うものになった。
何を決めるにも夫に決定権を委ね、自分では何一つ決めることをしなかった。いつも夫や子供のことを優先し、夫の意見に従うのが良妻賢母だと思っていた。
自分ではあんパン一つ、白餡を選ぶのか、黒餡を選ぶのかも決められないような人だった。
1人で飛行機に乗ることはおろか、1人で知らない土地へ行くことなど怖くて仕方がないような人間だった。
音楽のことは自分で決められても、他のことは何も決められない。
行動するのも決定するのも、何日も何日も迷うような私だった。
そんな私が、今では1人で飛行機に乗り、見知らぬ土地でライブに参戦する。
さまざまなアーティストのライブに1人で参戦することなど全く怖くなくなった。人見知りだった私が、今は平気で誰とでも会って話をする。
そして、何でも自分で決めて行動する。
そんな姿を見て、30年来のママ友は、今の私を全く別人だと言う。
今の私は、イキイキしていて、以前よりもずっと楽しそうだと言う。
私の推し活は、私の人生を変えた。
推し活をすることで、私の人生は全く別の人生になったのだ。
今、推し活という言葉がトレンドになり、多くの人が好きな人や好きなものを追いかける。
推しがいることで、病気が治ったり、塞ぎ込んでいた気持ちが元気になったりする人がたくさんいる。
推しに会うために、仕事に精を出し、元気になる人がいる。
推しのライブに参戦するために、日頃から、健康に気をつけ、体力をつけて努力する人がいる。
推し、という存在は、人に元気を与える存在であり、その人の人生そのものを変える存在でもあるのだ。
私は、音楽評論家の仕事をしながら、やっぱりジェジュンのライブに通う。
彼より上手い歌手はいっぱいいるだろう。
彼より実績のある歌手もいっぱいいる。
それでもやっぱり、私の推しは、ジェジュンだ。
彼は私が全く知らない世界、知らない景色を見せてくれる。
これからも、きっとそれは変わらないだろう。
今日も車からは彼の伸びやかな歌声が聴こえる。
この歌声が私の活力の源だ。
いつかこの日本で誰もが彼の代表曲を口ずさむ。
そんな曲に彼が巡り合えることを願っている。
私は今日も書き続ける。
彼と、多くのJ-POPのアーティストの素晴らしさを伝える為に。