お市の方は柴田勝家と若い頃に結婚してた説
日本の戦国時代の話で腑に落ちないところがある。
本能寺の変後、1582年6月27日に行われた清須会議で柴田勝家はどうしてお市の方との結婚を望んだのだろう?
「そりゃ、信長横死後の織田家との繋がりを重視したんだろ」
と言ってしまえば、それもあるんだろうけれど、別に織田家の娘はお市の方だけじゃないでしょうに? 他の女性でもよくない?
事実、織田家の有力武将で織田信長の姉妹、従姉妹、娘と結婚している人は大勢いる。
なぜに、柴田勝家はお市の方を所望したのか?
今回は、これについてじっくり考察してみた。
・お市の方は、なぜか結婚が遅い
お市の方は織田信長の妹である。
政略結婚で浅井家に嫁いだことは有名な史実で、浅井長政とお市の方との婚姻は1568年前後とされている。
仮に1568年だとしたら
浅井長政(23歳)、お市(21歳)
なお、長政には既に妻がいて、長男である浅井万福丸(4歳)がいたという。
ちなみにこの時、信長(34歳)、秀吉(31歳)※当時はまだ木下藤吉郎、家康(25歳)、柴田勝家の生年は判明しておらず、1522年~1530年くらいだと言われている。1526年説があるので、42歳(±4)ぐらいとしよう。
ちなみに有名な浅井三姉妹は
長女、茶々が1569年
次女、初が1570年
三女、江が1573年
の生まれである。
現代なら21歳で結婚は早いと考えられるだろうが、当時の常識から考えれば、お市の方の結婚はかなり遅い?
信長の兄弟はたくさんいるが、お市は同腹と言われている。
お市の方という妹に対して信長がシスコン……とても大切にしており結婚させなかった可能性はある。
浅井家滅亡後にも手厚く保護しているので、大切にしていたのは事実だろう。
とはいえ、1567年には娘の徳姫が徳川家康の嫡男に嫁いでおり、お市だけ特別扱いする必然性は特に無いようにも思える。
・家臣に嫁ぐ姉妹や娘は一番多い
織田信長の姉妹、娘の嫁ぎ先を表にしてみた。※Wikiをもとに作成
・信長の姉妹
くらの方 家臣
犬山殿 親族
神保・稲葉夫人 他家→家臣
斎藤秀龍室 他家
遠山直廉室? 他家
お犬の方 家臣→他家
お市の方 他家(浅井長政)→家臣(柴田勝家)
小幡殿 親族
栄輪院 親族
津田出雲守室 家臣?
飯尾尚清室 家臣
乃夫殿 家臣
信徳院 家臣
丹羽氏勝室 家臣
初婚相手で家臣7、他家4、親族3
・信長の娘
相応院 家臣
徳姫 他家(松平信康)
秀子 他家?
玉泉院 家臣
報徳院 家臣
振 他家→親族
源光院 公卿
三の丸殿 他家(豊臣秀吉側室、この時点では他家へ嫁いだ扱いだろう)
月明院 公卿
初婚相手で家臣3、他家4、公卿2
古典における女性の記述はとても少ない。
信長の姉妹、娘には、生年没年どころか存在自体が不明だったり、誰と結婚したのかよくわからない人も多い。
ちなみに「お市」の方は本名ではない。本名は不明。
だが、家臣に嫁ぐ女性が最も多いというのは事実であろう。
史料が少ないため、このあたりの考察は、必然的に予想が多くなってしまうのが辛いところ。
・浅井三姉妹の名前がおかしい
次に、お市の娘である茶々、初、江の名前をみてみよう。
現代でも当時でもそうだが、「初」は普通最初の子供に付ける名前である。
もちろん例外はいくらでもあるが……
江は、近江の江だろう。
つまり、初と江という名前は浅井家の娘のネーミングとして自然である。
しかし、並べてみると「茶々」だけネーミングのバランスを欠く感じがする。
産まれた年も、茶々は浅井家に嫁いですぐ産まれたことになっている。
もちろん可能性はあるが……
・お市の方は再婚だったのかも
浅井長政にお市の方との結婚前に既に子供がいた。
お市の方もいったん家臣の誰かと結婚していたが、政略結婚の為に離縁して浅井家に嫁いだ可能性がある。
当時の常識ではよくあることで特別というわけではない。
本項でいいたいのは、お市の方は浅井家に嫁ぐ前に織田家の誰かに嫁いでいた。茶々はその娘なのではないか?
という予測である。証拠はない。だが、否定する根拠もない。
さて、仮にそうだったとして、お市が政略結婚で他家に嫁ぐ前に結婚していた織田家の家臣は誰か?
・柴田勝家には正妻がいない
佐久間信盛が失脚した後は、柴田勝家は間違いなく織田家の筆頭の家臣である。
しかし、彼にはなぜか正妻がいない。庶子はいるらしいが、事実かどうかもよくわからず、成年も没年もよくわかっていない。
信長は本能寺で斃れたが、倒れなければ柴田家は間違いなく、勲功第一である。なのに正妻を作らず、世継ぎも指定しなかった。
興味なかった、そういう人もいる、と言ってしまえばそうだが、もう一つ可能性が有る。
・(仮説)柴田勝家の正妻はお市の方だった。
それが浅井家との政略結婚の為に離縁させられ、妻は浅井家に嫁いだ。
他にもそういう事例はたくさんあるので、柴田勝家がそうであったとしても不自然ではない。
柴田は鬱積した気持ちを抱えながら生涯を戦いに捧げ、しかし主君を失ってしまう。
その遺領分配する会議で勝家が求めたのが「お市の方」だった。
北ノ庄城が陥落した時、お市の方は退避しようと思えば出来たはずだ。秀吉がお市の方を罪に問うとは思えない。
だが、お市の方は娘たちの安全を願う手紙を秀吉に送って、勝家と共に死んだ。浅井長政とも一緒に死ななかったのに、たった10月程度暮らした夫と共に死んだわけである。
もしかしたら2人の関係は10月ではなく、もっと強固な関係だったのかと感じさせる。
冒頭における清須会議での唐突に見える勝家の要求も、彼の人生に何か思うところがあったのかもしれない。