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【小説】迎え酒

09:30

私の彼氏が付き合って2年目の記念日をすっぽかした。
ふたりともお酒が好きだから、ちょっといいスパークリングを用意していたのに。

許せない。

同僚にそのことを話したら、そんなの多めに見てやれと言われた。
でも、許せないと思った私は? 私の気持ちは?

うっかり忘れてしまったとかであれば、私だってまだ許せたかもしれない。
あとでそのことをちゃんと謝ってくれて、別の日に改めてお祝いするとか。日頃の感謝をお互いに伝え合える時間があったりしたらまた違ったと思う。

まあ、期待はしていなかったんだけどね。

ここ半年くらい彼とは連絡が取りにくくなっていて、デートの誘いも断られつづけていた。
その上、つい最近私の知らないところで遊んでいることがわかってしまったの。
彼とよく通っていたバーのマスターがそのことを教えてくれたわ。「最近一緒に来ないね。彼は昨日も来てくれてね」って。

それを聞いても、許してやれと言うの?
なんなんだお前は。当事者じゃないからって勝手なことを言いやがって。
私は外に出かかった言葉を飲み込んだ。その代わりに「そうですよね」と笑って返した。我ながらいい女である。

定時になって、メッセージアプリを開く。

「おつかれさま。最近仕事いそがしい?」

1週間ぶりに送信した言葉には既読もつかない。寂しい。
本当は「会いたい」って送りたかった。でも、返事もできないくらい忙しいなら、会うなんて余計難しいだろうな。
それに、少しでも私のことを面倒だと思っているのなら、負担をかけることで嫌われてしまうかもしれない。それが怖かった。

彼と付き合う前の私は、プライベートでトラブルが起きてもうまく自分の心を整理することができていた。

なのに今は違う。

ふとしたときに彼氏のことが頭に思い浮かんで、情緒がめちゃくちゃになることが増えた。
私の「好き」と同じくらい相手も私を「好き」なはず、と勝手に期待と失望を繰り返してどんどん不安定になる。
周りの言葉にも過敏に反応しちゃって、「こんなに心が狭かったっけ?」と自己嫌悪が止まらない。

どうしてこうなっちゃったんだろう。これから先、どうしたらいいのか分からない。


13:34


明美「もう別れちゃえば?」
ゆりな「そんな簡単に言わないでよ」
明美「付き合ってんのに、不安になる関係って嫌じゃん。あ、動いた」

明美は大学時代の友人で、学生のときの彼女は恋に恋する乙女そのものだった。
だけどそんな彼女も結婚し、今では新しい命をその体に宿している。

ゆりな「お腹、大きくなったね」
明美「でしょ? もう自分で靴下履けないよ~」
ゆりな「だから今日素足なんだ」
明美「そうなの。靴もひもとかストラップとかが無いやつじゃないと履けなくてさあ。もう好きなデザインで選べないんだよね~」
ゆりな「でもそのスリッポン可愛いよ。明美に似合ってる」
明美「ほんと! 嬉しい~。最近、旦那が褒めてくれないから、癒される~」
ゆりな「そういえば旦那さんは? 今日、休みじゃないの?」
明美「急に出社しなくちゃいけなくなっちゃったんだってー」
ゆりな「へえ」
明美「カフェの前まで付き添ってもらおうと思ってたんだけど、緊急案件だからって玄関でバイバイした」
ゆりな「まあ、急いでたなら仕方ないよね」
明美「ね~」
ゆりな「あ、もし食べられないものとかあったら言ってね」
明美「大丈夫大丈夫。ここのカフェ、メニューたくさんあるし、あたしは食欲あるし!」
ゆりな「そっか」
明美「お腹の子のためにも、たくさん食べないと!」
ゆりな「ふふ。それなら良かった」

明美の結婚式はとても素敵だったな。新郎新婦はもちろん、参加者全員が幸せそうだった。
旦那さんは少し不思議な人だったけど、そこも含めて明美は愛しているんだろう。
私も彼氏とこんな式ができたら、なんて考えたこともあったっけ……。

明美「うん。いやそんなことどうでもよくて」
ゆりな「え?」
明美「彼氏と別れちゃいなよ」
ゆりな「うーん」
明美「記念日に連絡してこない上に、もう1週間以上返事ないんでしょ?」
ゆりな「うん」
明美「それでゆりなが平気ならいいけど、そうじゃないんでしょ?」
ゆりな「でも忙しいらしいし」
明美「ゆりなの連絡無視して遊んでるんでしょ?」
ゆりな「そうだけど……」
明美「別れな」
ゆりな「でも、“私は”好きだから」
明美「ほら、相手が自分のこと好きかどうかわかんなくなってんじゃん」
ゆりな「……」

こういうときの明美は鋭い。色んな意味で。

明美「ゆりなが彼氏のことを好きなのはわかるよ。でも、傷ついてまで付き合う必要はないと思う」
ゆりな「心配してくれてありがとう……でも、今は倦怠期なだけかもしれないし」
明美「いつ終わるの?」
ゆりな「え?」
明美「倦怠期、いつ終わるのって」
ゆりな「分からないけど……」
明美「お互いの感じたこととか、考えていることを話しあって、どうしたらいいのか選んでいける関係ならいいと思うの」
ゆりな「……」
明美「でも、今は連絡すらまともにとれないじゃん」
ゆりな「うん」
明美「それって、付き合ってる意味ある?」
ゆりな「そんな、正論ばかり言わないでよ」
明美「ごめん……。でも、見てられなくて……」
ゆりな「ありがとう……」

カフェの冷房はよく効いているみたいで、ひやりとした風が私たちの間を通り過ぎる。

明美「こんなこと言うのも違うかもしれないけどさ」
ゆりな「うん」
明美「その……自然消滅する可能性もあるのかなって……」
ゆりな「え?」
明美「あくまで可能性の話しだけどね!」
ゆりな「そんな……」
明美「だって、だんだん連絡とりにくくなって、ゆりなに返事しないでどっか行ってるのはさ」
ゆりな「うん」
明美「ちょっと距離置きたいとか、そういうやつでしょ?」
ゆりな「多分ね?」
明美「いつまで忙しいとか、時間が欲しいとか、って言われているわけでもないし」
ゆりな「うん」
明美「それって、フェードアウトする線が濃いんじゃないかなって……」
ゆりな「そうなのかな……」
明美「すごく嫌なこと言ってもいい?」
ゆりな「いいよ」
明美「なにか事情があるのかもしれないけど、なんの予告も約束もなしに距離を置くのは、ゆりながキープされているとしか思えない」
ゆりな「……」
明美「それだったら、いったん区切りをつけてもいいと思うの」
ゆりな「うん……」
明美「別れたあとも好きだったら、きっとまた一緒になる日も来るだろうし」
ゆりな「そうかな……」
明美「そうだよ」

何も言い返せなかった。
明美の言葉が私の心にずんと響いて、目頭が熱くなる。

明美「……。なんか頼もうか」
ゆりな「うん」
明美「あ、ここデカフェの紅茶もあるんだ」
ゆりな「明美と一緒に飲めるかなって思って……」
明美「……ありがとうね」
ゆりな「……」

ぼたぼたと熱いしずくが私の目からこぼれた。

明美「も~」
ゆりな「ごめん……」
明美「ううん。あたしも言い過ぎた。ごめんね」
ゆりな「うん」
明美「この後予定ある?」
ゆりな「なんもない」
明美「ご飯食べたあと、飲みいこ」
ゆりな「え、でも旦那さんは?」
明美「大丈夫、多分今日も遅いから」
ゆりな「そうなんだ」
明美「いい感じの個室居酒屋見つけたから、そこで夜まで話そう?」
ゆりな「ありがとう……」
明美「いいのいいの」

明美の優しさに触れたからか、久しぶりに大粒の涙を流した。
心のふたが開いちゃって、全部の気持ちがあふれてきちゃったような感覚。頑張って声を抑えたのは褒めて欲しいな。
私の鼻水まで垂れた真っ赤な顔を見て、カフェの店員さんがおしぼりをくれた。いいカフェだ。

それから、明美に色んな話を聞いてもらって、私は心の整理をつけることができた。


21:07


「急な話で申し訳ないんだけど、私たち別れよう」

彼氏と連絡が取れなくなって1か月。別れたいとメッセージを送った。

送信ボタンを押すまでに30分くらいかかったけど、送ったあとは心が楽になってびっくり。
壮太には悪いけど、まさかこんなに負担になっていたなんて。

不思議な解放感に浸っていると、携帯の通知音が鳴って現実に引き戻される。
おずおずと画面を見ると――

「連絡ありがとう。俺もそう思ってたよ」

なんなんだお前は。久しぶりに連絡を寄こしたと思ったら、しょうもない返事をしやがって。
俺もそう思ってたよ、じゃねえよ。それなら早く言ってくれも良かったじゃんか。

私は特別な日のためにとっていたスパークリングを取り出して、電話をかけた。

明美「ゆりな~、どうしたの?」
ゆりな「彼氏と別れた」
明美「やったじゃん! おめでとう!」

コルクが景気のいい音を立てて、天井まで飛んだ。


作者:明坂凉汰


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