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料理や食材の価値、美食の価値観は大きく変わる。教育者や社会全体がその進展を支える重要な役割を担う
2025年最初のインタビューは、日本の食をけん引する辻調理師専門学校の校長であり辻調グループ代表の辻芳樹先生です。今年は大阪・関西万博が開かれる年で、パビリオン「EARTH MART」の企画の「EARTH FOODS 25」の選定委員を務め、世界へ日本の食文化を発信されます。日本の食に大いなるリスペクトを持ちつつ、厳しい視点で未来への警笛を鳴らす先生の言葉のひとつひとつが深く心に響くインタビューとなりました。
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辻芳樹(つじよしき)
1964年大阪府出身。12歳で渡英。1993年学校法人辻料理学館理事長、辻調理師専門学校校長に就任。2000年主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)にて首脳晩餐会料理監修。2019年G20大阪サミットでも首脳夕食会のエグゼクティヴプロデューサーを務める。また農林水産省料理人顕彰制度「料理マスターズ」の審査委員、和食のユネスコ世界無形文化遺産登録検討委員を務めるなど、さまざまな形で食文化の発展に貢献。2018年フランス国家功労勲章「シュヴァリエ」を受章。2021年内閣府「クールジャパン官民連携プラットフォーム」共同会長に就任。2025年大阪・関西万博では「EARTH FOODS 25」の選定委員を務める。
著書に『美食のテクノロジー』(文藝春秋)『和食の知られざる世界』(新潮社)『すごい!日本の食の底力~新しい料理人像を訪ねて~』(光文社)など。テレビ「カンブリア宮殿」、アメリカCNN特集番組などメディア出演も多数。
大阪・関西万博では未来につなげたい
日本ならではの食を世界に発信
--今日は30年後の未来を語っていただきたいと思います。辻先生が辻調理師専門学校を引き継がれたのも、ちょうど30年くらい前の1993年ですね。
辻 はい。私が29歳のときでした。ただ、父親の影響もあり、10歳の頃には食の世界に触れてはいました。1993年にここ(辻調理師専門学校)を引き継いだ当時、私たちは、日本料理はさておき、西洋料理をどのように学び、模倣できるかという意識が強かったと思います。そして“本場”西洋料理の料理技術をまずは中心にしたうえで、日本らしさをどう加えていくかが大切でした。もともと日本にはすばらしい日本ならではの食文化があったのに、その歴史的な価値を研究する動きもあまりなく、民俗学的に食文化を研究している人はいたものの、美食学としての「学術的な観点からの」研究は少なかったですね。
--確かに。当時はフランス料理やイタリア料理が大人気で、料理人さんからも、日本料理を世界に発信するという声はほとんど聞かれていなかったように思います。
辻 時が経つにつれて日本料理に対する意識が変わり、小泉政権で日本の食文化をコンテンツとしてどう発信するかが議論されたり、ユネスコの無形文化遺産に登録されたりするようになりました。そのきっかけのひとつとなったのは2000年の主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)ではないでしょうか。私は首脳晩餐会の料理監修に携わったのですが、まだ日本料理を伝統的なそのままの形で提供するという感覚でした。外国の方にどう喜んでいただくか? という大きな視点が抜けていたんですね。政府側と意見交換しながら西洋料理のよいところをとり入れ、日本料理のおいしさと美しさを損なわない形で料理に仕上げました。結果、各国の首脳には喜んでいただけたと思います。
--今年は大阪・関西万博があります。小山薫堂さんがプロデュースするパビリオン「EARTH MART」の企画の「EARTH FOODS 25」の選定委員も先生はつとめていらっしゃいますね。
辻 はい。世界に共有したい日本発の食のリストとして「EARTH FOODS 25」を選定しました。先日、これらの食材をコンセプトに、万博で発表する料理を作ってくれる気鋭のシェフ5名を決定しました。今回のリストには高野豆腐、しいたけ、かんぴょう、こんにゃくなどといった、外国の料理人にはどう使えばいいのかわからない食材が多数並んています。それらの食材は、歴史的な背景や、使い方をしっかり学んでいただかないと、料理の仕方がなかなか理解できない食材でしょう。だからこそ、万博で取り上げる意味があると、選定委員で考えました。
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美食学は裕福や贅沢を意味するものではなく
教養を伴うもの
--そうした万博での発信を含め、日本ならではの食文化を世界に対して、どう伝えていけばいいのでしょうか。
辻 まず「美食学」つまりガストロノミーの解釈で考えると、食を味わうということは、日本料理でも西洋料理でも、裕福や贅沢を意味することではなく、教養を伴う美食学が問われるものだと私は考えています。先のEARTH FOODS25でお話したように、そこで選んだ食材は、理解をしていないと扱えないものばかりです。そうした素材は日本だけではなく世界の国にあります。日本を深く知る。そして世界を深く知る。そうした姿勢と教養を持ってこそ、食というものは楽しめるものなのだということに尽きるように思います。実はその意識は昔も今もそんなに変わっていない。実際、世界中にいる感性のするどい料理人や食に深い関心のある人々は、日本の料理が持つ長い歴史や高い技術に、ずっと以前から気づいていました。単に「メイドインジャパン」の食材を輸出するのではなく、日本料理に根づく「文化」を教養として世界に売る時期だと思っています。
--そうした日本料理のすばらしさを日本人は理解できているのでしょうか?
辻 昔から当たり前のようにあるものですからね。なかなかすばらしさには気づきにくいでしょう。ただ日本人は「探知能力」を持っています。おいしいものを見つけるためのアンテナがとてもするどい。しかし、発掘者ではあり分析者ではあっても、評論者としての力は感じにくい。日本には評論文化があまり根づいていないように思います。評論文化が根づくためには、やはり食に対して深く理解することで、それによって得られる知識、教養が必要です。探知能力がある日本人は、知識に対しても貪欲なものを、もともと持っています。それを、単にあの店が「うまい」「まずい」という形で発信するのではなく、別の形でどんどん発信していくとよいと思うのですよね。
--探知能力とはSNSの使い方がうまいともいえますか?
辻 SNSは確かに重要な発信手段ですが、それはあくまでも二次的なツールに過ぎません。本質的に重要なのは、発信すべき価値ある内容を持っているかどうかです。日本人には、発信に値する本質的な価値を見出す力があります。とりわけ食に対する感性は鋭く、優れています。だからこそ私は、これからの美食文化の根幹となるような新たな価値を発掘し、世界に向けて発信してほしいと考えています。そして、日本人にはそれを実現できる力が十分にあるはずです。
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テクノロジーは食文化に大きく影響を与え
人々の食の価値観も変化する
--うまいものの発掘というと、「食べログ」「ミシュラン」「ベストレストラン50」が浮かびますが、これらの評価サイトや評価本の30年後はどうなっているのでしょうか?
辻 料理やワインの真価は、単純な数値では表現できないものです。しかし、これらの評価システムが果たした重要な役割は、優れた店舗を体系的に見出し、リスト化できる仕組みを確立したことにあります。そして、これらの評価システムは、常に時代の価値観を映し出す鏡となってきました。かつては料理の技術的完成度やサービスの質が重視されましたが、現代では料理人の創造性や、その料理を通じて伝えようとするメッセージ性にも大きな価値が置かれています。この変化自体が、私たちの価値観の進化を示しています。30年後を展望すると、地域固有の食文化や本質的な美味しさへの追求は普遍的な価値として残るでしょう。しかし、現在のような階層的な評価システムは、より多様で水平的な形へと変容していく可能性があります。そしてもっとも重要なのは、その時代を生きる人々が真に求めるものこそが、新しい美食文化の核心となっていくということです。
--具体的にはどのようなものでしょうか?
辻 現在、専門家たちが注力している研究領域に、その答えのヒントがあります。持続可能性への追求、効率的なエネルギー利用、新品種の開発、微生物の活用といったものは、人類の切実なニーズから生まれた研究テーマです。これらの研究成果が人々の日常生活と結びつくとき、新たな価値観として定着していくでしょう。そしてこの過程で、AIが研究と人類をつなぐ重要な架け橋となります。30年後、テクノロジーとエンジニアリングは間違いなく大きく進化しているはずです。それは単に調理の自動化や栄養管理の効率化だけでなく、膨大な知識を基盤とした AIの発展をも意味します。AIの適切な活用により、私たちの想像をはるかに超えるスピードで変革が進んでいくでしょう。そして、そこから生まれる新しい価値観は、必然的に私たちの食文化にも大きな影響を与えることになるはずです。
--「新しい価値観は何だと思うか?」という答えまで生成AIが出してくれる時代が来そうですね。
辻 生成AIに「30年後の食はどうなっていますか?」と聞けば、答えてくれるかもしれませんね(笑)。ただ、美食学という点でいえば、「どうやったらおいしくなるか」という共通目標のもと、おいしさの概念やおいしくする技術は昔も今も、おそらくこれからも「基本的には」変わりません。フランス料理でいえば、200年近く前にエスコフィエが体系化した理論と技術をベースに、調理の順番を変える、道具を変える、郷土色を加えるなどのアレンジが加わることで、新しいと思われる料理が生まれてきたに過ぎないと考えます。とはいえ、天才料理人が現れ、新しい価値観や流れが生まれることもありますが、幹となるおいしさをめざす技術や姿勢は基本的には変わりません。
--価値観を変えるというと「エル・ブジ」のフェラン・アドリアや「ノマ」のレネ・レゼピらが浮かびますが。
辻 そうですね。ヌーヴェル・キュイジーヌのポール・ボキューズやキュイジーヌ・ノヴェルヌのジョエル・ロブション、革新的なアプローチを加えたフェラン・アドリアなどは、時代に寄り添ったさまざまな知見、技術、文化、食材を組み合わせ、今までになかった料理を作り出し、世界的にインパクトを与えました。彼らは歴史の転換点を作ったシェフだといえるでしょう。これから未来に登場してくる天才料理人は、たとえばですが「伝統のテクノロジー化」をうまく進めていける人かもしれませんね。AIの力をうまく使い、ひとりの人間では処理できないさまざまなアイデアを、世界中の民俗学から引き出し、自分のものにできる。そんな料理人が現れる可能性があります。あくまでも例えですけどね。
--レストラン業界にはAIにアレルギーを示す人たちも多いように思うのですが。
辻 それは恐らくAIの一面だけを見ているからです。キャベツを機械でせん切りにしたり、フライパンを自動で操作したりといった、単純な作業の自動化だけを想像されているのではないでしょうか。確かに、伝統と技術を重んじる料理人たちが、そうした機械化に抵抗を感じるのは当然です。私自身も、基本的な技術や理解もないまま、ただ効率化だけを追い求めることには疑問を持っています。だからこそ、教育者として基本的な調理理論と技術の習得を重視しているのです。
しかし、AIの本当の可能性はもっと深いところにあります。たとえば、フランスの名シェフ、ミシェル・ブラスは野草や香草を徹底的に研究し、体系化することで、新しい料理表現の可能性を広げました。今後、このような知識の体系化がAIによってさらに進化すれば、食材の栄養価や鮮度、アレルギー物質の有無、さらには食材の歴史的背景まで、膨大な情報を瞬時に分析できるようになるでしょう。より広い視野で見れば、その可能性はさらに広がります。弥生時代の米は今とは全く異なり、パラパラとした細長い米でした。現在のように箸で持ちやすいモチモチとした食感のジャポニカ米は、何百年もの試行錯誤を経て生まれたものです。
このような品種改良の過程において、もし現代のようなAIによる分析技術があれば、この進化はもっと短期間で実現できたかもしれません。つまり、AIは単なる作業の自動化ツールではありません。それは、人類の叡智を加速度的に発展させ、新しい可能性を開く力を持っているのです。私たちに求められているのは、AIを敵視するのではなく、その可能性を正しく理解し、より豊かな食文化の発展のために活用していく姿勢ではないでしょうか。
--知識の蓄積による新しい食が生まれていくということでしょうか。
辻 知識の蓄積はAIの得意分野ですから。昔の料理、昔の技術を見直して、たとえば「煮込む」という技術を深く掘り下げてレシピをAIで作り直し、そこに自分の感性を加えて新しい料理として表現する人がでてきたら興味深い。AIを活用して、日本や各国の歴史や郷土性、保存食などを分析して掘り下げ、昔の技術で新しい料理として提案するような運動が料理人の間で起こるかも知れません。
--先生は日本政府の食事業についてさまざまな提言をされていますが、フードテクノロジーについて日本の取り組みはどうですか?
辻 残念ながら、日本のフードテクノロジーへの取り組みは、世界の潮流から大きく遅れていると言わざるを得ません。現状の研究予算配分は、短期的な成果を求めるあまり、本質的な課題に向き合えていないように思います。より本質的な問題として考えるべきは、食の未来が単なる技術革新の問題ではないということです。それは人類の生存と文明の継承に関わる重大な課題なのです。たとえば、気候変動による食料生産への影響、人口動態の変化に伴う食料供給の課題、伝統的な食文化の継承と革新のバランスといった問題は、どれも長期的な視野と総合的なアプローチを必要とするものです。
--食育に関してはいかがでしょうか?
辻 日本の食を守るということは、単に料理や食材を守るということではありません。それは日本人の生活様式、価値観、そして究極的には日本人としてのアイデンティティを守ることにつながります。食育もまた、単なる栄養教育を超えて、文化の伝承と創造の場として捉え直す必要があります。世界に目を向ければ、オランダの持続可能な農業技術、イスラエルの代替タンパク質研究、デンマークの食品廃棄物削減の取り組みなど、食の未来を見据えた革新的な施策が次々と実施されています。一方、日本は豊かな食文化と高度な技術力を持ちながら、それらを未来に向けて統合的に活用できていないのが現状です。
今を食べられるのは「今」を生きるひとだけ
我々ができるのは未来へ「つなぐ」こと
--AIやテクノロジーの変化にとまどうところがありますが、今は時代の過渡期といえるでしょうか。
辻 AIがあってもなくても、ひとつ確実にいえることは、食べるということは、その時代に、その時代のものを食べる人しかいない、ということです。食の価値を見出すのも、その時代を生きる人しかいない。過去の人でもない。未来の人でもない。だから、30年後を語ることは、価値をつなごうとしているだけだと思います。当たり前のことなのですが、これは絶対的な事実なんですよ。
--あくまでも、我々は今を語るしかできない、と。
辻 何かを守るのではなく、未来に選択肢を残していくことが今を生きる我々の役目だと思います。君たちはどういう選択ができるのか? 予見しておくので準備をしておいてください。その選択ができるための人を育てることが教育者のつとめであり、社会全体で考えていくべきことではないでしょうか。それを、30年後の未来に「今」となった人が選択する。人間の感覚はそんなに変わらないと思いますが、食を取り巻く環境は間違いなく大きく変わります。想像できない世界になっているでしょう。それに備えるためにも、食に対して知性と教養は必要なんです。
インタビュー・文/土田美登世