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【修論日記】指導教員の添削

年末に修論の第1稿を提出し、先週添削されて帰ってきた。
今週はそれとひたすらに向き合っている。

真っ赤になって返ってくると思っていた修論は、意外と訂正が少なく、その代わりに1つ1つのコメントに重みがあった。
この用語の定義は何か。
この変数を測定した理由。
説明不足だという指摘はいくつもあったし、逆にもっと端的に、という個所もあった。
逆に、方法や結果の書き方に関しての訂正や直しはほとんどなかった。

卒論の時は、時間があまりなかったのも相まって、真っ赤になって返ってきたように記憶しているから、返ってきた修論の添削を見て驚いた。
その後指導教員と面談する時があり、その時に「もし自分が質問をする立場だったらどのように質問するかを想定してコメントを返した」という言葉を頂き、コメントの質の違いが少し腑に落ちた。
それと同時に、自分の文章や修論が少し認められている気がして嬉しくなった。
文章のニュアンスをひたすら訂正されるのではなく、先述したような、本質的な質問やコメントを返してもらえたことで、私の今までの研究生活を踏まえたうえでの添削なんだな、という気持ちになり、嬉しさを感じた。

まだまだ修論完成には程遠いし、修論発表のための要旨やスライドの準備も残っているが、少しずつ前に進んでいる感覚があって、気が引き締まる。
終わりが見えてくると、あれだけ嫌だった大学院生活も、意外と悪くないなと思えたりもして、人間の気持ちなんか刹那的なものだな、と苦笑したくなる。
博士の先輩に何度も質問しにいきながら恋愛相談に乗ってもらったり、夜一緒に過ごしている恋人に「この文章どうやって直したらいいと思う?」「この概念ってどう説明したらわかりやすい?」と聞いてお酒を飲みながら議論をしたり、そういう日常と地続きな研究ライフをもっと早くから送れていたら、研究に対する苦手意識だって払しょくできたのかな、なんて。
今になってそんなことが分かるなんて、の気持ちだ。

自分の興味のあることを、好きな時に好きなだけ追求できる2年間だったのに、それを無駄にしてしまったのかもしれない、という気持ちもある。
でも、今だからこそ向き合い方もわかって、楽しく最後を迎えられるなら、それはそれで私の研究ライフっぽくていいかな、なんて。

さあ~、追い込んでいくぞ!
またね!



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