はじめての平和教育
9月4日、平和活動に力を入れている友達の友達、とその仲間たちが広島に来て平和について学ぶということで、参加させていただいた。
走り書きのようなメモを残していたので、それをもとにまとめよう。
見たもの、聞いたもの。
午前、清水さんという方の証言を拝聴。
午後、被服支廠(ひふくししょう)と陸軍比治山墓地のガイド付き見学。
メモ
何を学び、どうこねくりまわしていけばよいか
今回の体験で、2つ、心に残ったことがある。
1つ目は、私にもできることがあるかも、という手ごたえだ。
私は今まで、「平和について学ぶと言っても、何を学び(何から学び)、どうこねくりまわしていけばいいのか(意見を持てばいいか、発信すればいいか、など)わからない」といったとまどいを抱いていた。
それが、今回の経験で「私が学びたい・学べることから学べばいいのかな」「無理にこねくり回そうとしなくていいのかな」という考えに変わった。
清水さんのお話を聞く中で、歴史を学ぶ、という言葉の意味を理解した気がする。
歴史の中にはたくさんの人の生活がある。
歴史を学ぶことは、その時代の人の暮らしを知ること。
そしてそれが、私にもできることがあるかも、につながった。
私は原爆の証言を聞くのが苦手だ。
自分の想像以上のことが起こったという事実に責め立てられている気がするからだ。
でも、歴史なら、学べる気がする。
まだその違いはわからないけど、歴史から人々の暮らしを学ぶことはできる。
歴史ベースの平和学習。
これが、私にできることかもしれない。
入り口を限りなく広くすること、特別さをなくすこと
2つ目は、平和について考える、の入り口を広くすること、特別さをなくすことが大事かもしれない、ということだ。
メモにある通り、被服支廠の活用の話になった時、一緒にガイドの話を聞いていた1人が「宿泊施設にしたらよいのではないか」といった。
図書館を作ったり、休憩になるような簡単な遊び場をつくったりしたらどうか、という意見だったと思う。
それを聞いて、「それはよくないんじゃないかな」とガイドの方は、こう続けた。
「たくさんの人が苦しんだ場所で、遊んだり騒いだりするのは違うんじゃないかな?」
私は「たしかに」と「本当にそうかな?」のはざまで少し揺らいだ。
たしかに、と思った理由は、私がよく聞いてきた言葉だからだ。
静かに祈りをささげること、それは常識のように思える。
でも本当にそれだけであるべきなのか?
私たちが普段暮らす場所と、平和について考える場所を、切り離す意味は何だろう?
もっと、地続きのようにつながっていても良いのではないか。
先のやり取りを聞いて、そう感じた。
おわりに
まだまだ入り口に立てたばかり、右も左もわからないことだらけ、なので、どう進んでいったらよいか、いろいろな本を読んだり現場に足をはこびながらかんがえていけたら。