研究とは何か、想いはないのか。
最近はいろいろなことを考えています。
其の1、研究とは?
最近、友人や先輩と「研究とは何ぞや?」ということについてお酒の場でお話をしました。
それが印象に残っていて、今でも自分の中で答えを探しています。
M1になって、研究のイロハを学んでいくなかで、だんだん自分の中で研究に対するイメージが固まってきている気がします。
もちろんまだまだひよっこですが。
特に「数値を使って自分の論を立証して、ジェンダー平等に反論してくる人をデータで殴る!」と豪語する指導教員には非常に影響を受けていて、それが核になっている感じはあります。
あと、高校生の時に生物の先生が話していた「研究というのはブラックボックスをひたすら開けていく作業だ!」という熱のこもったお話も印象に残っていて、それも私の核です。
一方で、まだ卒論に取り掛かっていない友人からは「研究には(これを主張したいという)思いはないの?!」と言われ、それも重くのしかかっています。
その問いに対する答えを探しながら悶々としていたのですが、先輩から「自分が学部3年の時のことを思い出してみたら?」と助言をいただいたので、その時のことを考えてみました。
確かに、私も研究を始める前は、こういうことを研究してこういうことを明らかにしてこんなインパクトを残したい!という壮大な野望で満ち溢れていました。
一方で、それはリサーチクエスチョンというものに昇華され、そこから先には「社会心理学」という研究分野で使われている手法にのっとる必要があるということも学びました。
それを始めて学んだのは、学部3年生の時です。
私はその時チームで「ジェンダーについて学べる」ゲーム開発をしていました。
和気あいあいと、こういうゲーム性があったらおもしろいよね、とか、こういう学びを得てほしいからこういうゲーム構造にしたらいいよね、とか話し合っていた記憶があります。
そして、私はそのゲームにどんな効果があるのか知りたくて、今の研究室に入りました。
先生に研究計画を相談する日々。
そのたびに、「心理学のこの知見・この理論をこのゲームにこうやって落とし込むからこのゲームに効果がある、ということが論理的に言えなければ研究じゃないよ」といった内容の指導を受けていました。
私の中で研究に対するイメージががらりと変わったのはこの指導が発端かもしれません。
私はそれまで、「ゲームを通して楽しく学んで、勝手に人が変わってくれる」と信じていたし、それでいいと思っていました。
でも、研究の世界ではそれは曖昧過ぎるよ、ということを学んだんです。
そして、研究をしていくなかで、研究の過程やそれに付随する成果に対する謙虚な気持ちも学びました。
半年かけてこんだけしか研究(実験)って進まないの?!
一個の実験で「これが分かりました!」と自信を持って言い切れると思っていたけど、ひとつの実験でわかることってこんなもんなの?!(ちょっと失礼かな?)
私が研究の一端を経験して感じたことです。
研究を組み立てるために読む論文の数の多さ、その中で使える論文の数の少なさは私の想像の範囲をとっくに超えていました。(私の腕がまだまだなのがこれに拍車をかけているわけですが。)
また、私が実験結果をゼミで発表するたびに、指導教員からは「このデータでそこまで自信もって仮説支持を主張できないよね?」というお言葉をいただきます。
そのたびに「自分って自分の研究結果を過剰評価してるんだな」と謙虚な気持ちになります。
研究の原点は、あります。
主張したい想いもあります。
ジェンダー平等が達成されない理由を解明したい。
ジェンダー平等は○○が原因で達成されないということを証明したい。
これは私の中で動かない思いです。
ジェンダーというテーマに興味を持った理由もあります。
それは私しか経験していない、私だけのものです。
でも、研究というフィールドに立ったら、研究というフィールドのルールにのっとって進んでいかなくてはいけない。
あくまで研究は、こういう問いを立てた、という視点の新規性や、こういう手法でこういうことを明らかにした、という過程の再現性などが問われるのではないかと考えています。
うまく言えないのですが~、、、
先に出てきた友人の「主張したいこと (=想い)」というのは、エンジンのような役割を果たすものであり、重要です。
ただ、研究の成果を発表するときに、混同していいものではない。
それは、研究結果を歪曲することにつながりかねない危険な行為な気がするんです。
研究者として、結果を客観的に分析するなんてことは当たり前で、こういう主張がしたいからこういう解釈なのね、というのは、なんか研究とは違うよな~と思ったり。
なーんて、悶々と考えている、今日この頃です。
またね~