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遊説×乙女3

 そうして仕事を終えた紅花は、花吹雪舞う神仙の棲家、雲夢山へと帰り着いた。
 早速王詡(おうく)の元へと向かう。日の落ちかけたこの時間なら、彼の人は、桃の花咲く四阿(あずまや)で酒でもたらふく呑んでいそうだ。向かう途中で、


「おかえり紅花」
 突然声をかけられた。驚き、紅花は肩をびくつかせる。
「老師……」
「僕へのお土産は?」


 そう言って青年は、小首をかしげる仕草をした。かつて天下に持枢者(じすうしゃ)と呼ばれ、名のある王に招聘(しょうへい)された遊説家とは思えない。聞かれて紅花は、手ぶらで帰ったことに今更ながら気がついた。


「ご、ごめんなさい老師」


 謝れば、彼はふにゃあと哀しそうに顔を歪める。今にも泣き出しそうな顔は、頑是ない子供のようだ。老師にはなんとも純真無垢なところがある。


「紅花は李成なんかに構うから、僕へのお土産を忘れるんだ」


 唇を尖らせてそう言われ、紅花は内心汗を流した。どうして、と最後まで言い切る前に、指で輪を作った老師が、その輪を右目に当て、


「何故だって? がんがんせんりがーん、せんりがーん」


と奇妙な節をつけて歌う。紅花は更に冷や汗をかいた。王詡は神仙だ。仙道を極めた者は、千里先まで見通す力を備えている。


「まったく! 匂い袋に僕の使い古しの下着を入れて渡すだなんて!」
「ご、ごめんなさいっ」
「教えたことをつまらないことに使うなら、追い出しちゃうよ?」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」


 でも、と紅花は小さく呟く。老師はうん?と尋ねた。


「でも、李成はいつも私を山狗って馬鹿にするんです! それに、楚の国の人間なんて酷い目に遭えばいいんだって、思います!」


 叫ぶように紅花が言えば、王詡はああ、と低く呻いて頭を抱えた。


「老師?」
「んんん、小さいッ! なんて小さい弟子だろう! この僕の弟子を名乗るなら、もっとでっかい志を抱かなきゃ! 復讐を果たすなら楚の王の首を狙え! それから、策謀と弁舌を尽くして国同士の争いを止めてみせろ!」


 目の前に人差し指を突きつけられて、紅花はうっ、と声を詰まらせる。


「そん、な。そんなの、老師だって出来なかったそんなこと、は」


 後退り、言いながら、けれど紅花は言い訳に過ぎないと自覚していた。


「それに私は女だし、まだ子供だし、声だって綺麗じゃない――」


 言い訳が、どんどん真実から離れてゆく。紅花はうう、と呻いた。


「何を言う! あの日の惨状を思い出せ! 余すところなく!」


 老師の言葉に、紅花は己の傷をひらいて覗き込む。
 頭に矢が突き刺さったままの父。矢は硬く、紅花の手で抜くことは出来ず、埋葬も叶わなかった。生まれ育った村は焼け落ち、それから、川に浮かんだ見知った顔は、どれも苦悶の顔を浮かべていた。母の悲鳴も、いなくなった妹も、あの日から一度たりとも忘れた日はない。


「紅花の敵は楚の民じゃない。やたらと領土を広げようとする好戦的な魏の王だ。だからその都度報復を受け、民がその代償を払う。それから、未だ一つにまとまらないこの大陸の国々が、紅花の真の仇だよ。領土を巡って争い続ける王達がいる限り、民の苦しみは終わらない。紅花がやるべきは、李成に猫の糞を売りつけることなんかじゃない。すべての国を一つにまとめる偉大な王に繋がる王を、国を、育てることなんじゃないのか?」


 神仙の言葉は力強く、紅花の心を鼓舞した。
 出来るだろうか、自分に。今はまだ、自信がない。
 けれど老師の言葉がこんなにも、紅花の胸を焦がすのは、それが紅花の望みであり、願いであり、夢だからだ。


 陰に潜んで王を育て、国を動かし争いを止める、『遊説(ゆうぜい)の士』として、生きる。


 胸に灯った一つの夢は、煌々と紅花を燃やした。


「さあ、わかったら、僕におやつを持ってきてくれないか」


 秋分のよく晴れた日の朝、四阿(あずまや)の涼み台に腰掛けた紅花の髪を、老師は丁寧に梳(くしけず)ってくれていた。そうして、紅花の洗い立ての黒髪を、二つ編みに寄り合わせ、まとめて笄(かんざし)で留めてくれる。
笄礼(こうれい)である。昨日、紅花は数えで十六になった。


 一般的に、成人のしるしを挿して、女子は完全に大人になる。いつも両肩に垂れていた三つ編みがなくなっただけなのに、もう誰かの妻になれる。

 それが不思議で、また納得もいかない。

 体は月日が勝手に大人にしてしまうのに、月日は夢を叶えることはしない。ここ何年も、紅花は老師にあらゆる教えを叩きこまれた。だがまだ全然夢に足りない。
 成人したという事実が、紅花を無意識に焦らせる。雲夢山をおりることの出来る日が、本当に来るのだろうかと不安になる。


「紅花。頼まれていた家族の捜索だけど」


老師がそう切り出したのは、紅花が髪を結って数日後のことだった。


「だいぶ時間が経ってしまってすまない。あの戦で行方不明になった人々の行先から、紅花の家族を洗い出すのに時間がかかってね」


 続けられた言葉に心臓がはねた。嬉しさ半分、不安半分。否、不安の方がだいぶ大きい。
戦で行方不明になった婦女子の行先は暗い。他国の兵士の慰み者にされるか、私属(どれい)にされてこき使われるか、場合によっては妓院(ばいしゅんやど)に堕とされる。それが戦というものだ。それを、紅花はもう知っている。手指が震えだし、紅花は必死にそれを抑えた。


「母上の行方はわからなかった。が、妹さんの行方は、わかったよ」


碧月。頼まれたのに守れなかった妹の名を、紅花は心で噛み締める。


「というのも最近、紅花のいた村の出を名乗る少女が楚の後宮に入ってね。魏美人の名で評判になっているらしい。年齢は紅花と同じ。紅花の村に同じ年齢の子が居なければ、きっと、魏美人が妹さんだ」


紅花の胸が早鐘を打つ。妹が生きて、楚の後宮にいる――。美人を名乗っているのなら、きっと士族の養女にでもなったのだろう。敵の宮城で妹がどんな暮らしをしているのか、それを思うと居ても立っても居られない。


「ここを出たらどうかな?」
 ふいに老師がそう言った。


「ここに来てから、紅花には、一通りの教養は教えたつもりだ。もうどこへなりとも行けるだろう」


そう言われ、けれど反射的にはい、と言えない自分がいた。


妹に会いたい。今すぐに。


けれどどうやって後宮に忍び込み、妹を連れ出して、あまつさえ家族を引き裂いた楚の王に、復讐を果たせばいいのだろう。迷う紅花に、


「これを」
 老師が木で出来た面を差し出してきた。


「秦へ行け。かの国の王は、広く才ある人間を登用していると聞く。それに、楚に拮抗出来る国は秦しかない。君の妹を取り戻すなら、正攻法じゃあ、きっとだめだ。いつか話した夢の話を叶える中で、きっと妹も取り戻せる。方法は既に教えただろう?」


 王詡の言葉に、紅花は無言で仮面を受け取り、しげしげと見つめた。


「何を迷う? その声を気にしているなら、まったくのお門違いだよ。面をつければその弱みは、思った以上に強みになる」


 豺狼(さいろう)と忌み嫌われたこの声が、強みになる――。
 紅花はその意味を、考える。面をつければ性別も、年齢も関係ない。

 言葉だけが、紅花という人を判断する材料となる。凄みのあるこの声は、かえって有利に働くかも知れない。
 紅花は息を吸い、口を開く。


「老師、私に舌は、まだありますか……?」


 年頃の娘の、鈴のような美しい声を奏でる喉は失った。けれど自分にはまだ――。


 紅花の問いに、老師と言う名の青年は笑う。


「あるともさ。頭と舌があれば十分だ。さあ、君の夢を遂げてこい」


 紅花はその日、仙郷を後にした。


4へ続く

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