遊説×乙女1
夢を見ていた。夜に見るそれではない。
遠い将来の話だ。
畑仕事に出た父に、夕餉が出来たと呼びに行った帰りだった。父と二人のいつもの日暮れ、茜色の家路。
紅花(ホンファ)の最後の幸せだった家族の記憶。
将来は王宮に仕官したいという娘に、どうやってその無謀さを説こうかと、父は大変困っていた。
母に言えば否定され、尻の一つでも叩かれる話題だ。優しい父は、困り果てながらも、紅花を否定したりはしない。そんな父が大好きだった。
いつまでもいつまでも、幼い紅花のその無謀さを受け止めて、甘さで満たしてくれるものだと、信じて疑いもしていなかった。
それが突然終わるなんて、知る由もなかったのだから。
もうすぐ家というところだった。
ひゃうふッと射切った矢音がして、征矢(そや)が父の頭に突き刺さった。
父の顔には柔和な笑みが貼り付いたままだ。
ゆっくりと地面に向かって崩れ落ちた父を尻目に振り返れば、父を射った弓手を含んだ弓床(ゆみどこ)が、村の外れに広がっていた。
軍旗が上がっているのが見えても、数えで六つの紅花には、どの国のものかわからない。
敵国が攻めて来た。
それしか分からなかったが、それで十分だった。
紅花があげるより先に、村のあちこちから悲鳴があがった。
それに伴う怒号が、平穏だった夕暮れの村を、ぱっくりと切り裂いてゆく。
放たれた火矢から燃え広がった火柱が、村を紅蓮に染めていった。
倒れた父をどうしようかと逡巡した時、怖い顔した紅花の母が、紅花に向かって駆けてきた。
父さんが、と言うより先に、
「行きなさい、早くッ。碧月(ビーユエ)を連れて隠れるのッ」
矢継ぎ早に怒鳴られる。
腕を無理矢理引っ張られ、背中をばしんと叩かれた。
本心では行きたくない。倒れた父が心配だったし、この異常な状況で、両親から離れるのは怖かった。
しかし、早く行けと睨み付けてくる母に逆らうことは出来ず、家で待つ妹が心配でもあった。
紅花の双子の妹、碧月(ビーユエ)は、姉の紅花と違ってとても内気で臆病な少女だ。
今頃家で、一人怯えているに違いない。
紅花は無言で立ち上がると、家に向かって駆け出した。
しばらく駆けたところで背後から悲鳴が聞こえてくる。それが母のものに似ていた気がして、紅花は耳を塞いで先を急いだ。
「碧月、碧月――」
家に着き、小さな声で妹を呼ぶ。
返事はなかった。
はっとして大声でその名を呼ぶが、やはり妹の返答はない。絶望が心に指先を伸ばしてくる。
けれど既に村中から聞こえてくる喊声(かんせい)が、それに侵されることを許してはくれなかった。
耳に痛いほどの鯨波(げいは)に押され、隠れなければ、と紅花は思った。
といっても、敵国の兵士に見つからぬ場所など紅花には一つしか思いつかない。
紅花は厠下の豚小屋へと急ぐ。
うず高く積もった飼料代わりの人糞の中に、鼻を摘んで目をつむり、押し入った。
そうして、どれぐらい隠れていただろう。剣戟と略奪による混乱が去り、静寂(しじま)が訪れたのは、半宵(はんしょう)になろうという頃だった。
夜が明けて、火煙の立つ村を紅花は歩いた。
全身人糞にまみれ、目蓋すらろくに開けられない状態で、手探りで川へと向かう。
せせらぎを便りに川岸に辿り着くと、気の済むまで体を洗った。
目が見えてくるようになると、川の流れの至るところに、動かなくなった知り合いが浮いている。
紅花は驚いて川からあがった。濡れた服が気持ち悪かったが、我慢して母と妹とを探した。
方々で二人の名を呼ぶ。口の中に次々と立ち上る煙が入ってきて、喉を焼いた。
「っ……」
思わず喉元を押さえるが、母を呼ぶことはやめない。
声が枯れたとて構わない。
母の声に似たあの悲鳴が、紅花の耳にこびりついて離れないのだ。
母と妹を呼びながら彷徨(さまよ)い、家路の途中で父を見つけた。
父は、血を吸って黒くなった大地の上に、頭に矢が突き刺さったままの状態で倒れ伏していた。
母の姿は見当たらない。
紅花は震える足で父の遺骸の側を通り過ぎ、母と妹の姿を探して村を出た。
幼い紅花は生まれて以来、村を出たことがない。
村の外は未知の世界だ。
けれど、父を殺した者達がいつ戻ってくるか分からず、母と妹も心配だった。
その思いだけが小さな紅花の、震える足を追い立てる。
兵士たちの足跡とは逆に向かって、紅花は歩いた。
しかしいくばくもしないうち、力尽きてしまう。
疲労と飢えと寒さとが、紅花に重くのしかかった。
当て所なく歩いてきたことを後悔しても、もう遅い。
よろめいて倒れると、生まれたときのように路上で紅花は丸くなった。
目を閉じると、世界は自身の鼓動だけになる。
恐怖はない。
どろりとした安穏な眠りが、紅花をおいでおいでと手招いた。
その誘惑に負けそうになったとき、その人が、通りがかった。
「おやおや、どうしたことだろう。小鬼が一匹、死にかけている――」
薄目を開けた紅花の視界で、真っ白な喪服に身を包んだその人は、そう言ってふんわりと笑う。
浮かんだのは催命鬼(しにがみ)、という言葉。
けれどその人に抱きかかえられ、思わずしがみついた胸元からは、桃の花の香りがした。
2へ続く