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自分は鎖に繋がれたロボットに感情移入しなかった【ENCOUNTERS2025】

 行こうと思えばいつでも東京に行ける。でもそれなりに金銭なり時間なり体力のリソースを使う。箱根の壁が微妙に厚い。なので行くとなったら最大限東京にいる時間を使いたいし、目的を可能な限り作りたいと考えてしまう。貧乏性の田舎者。国立科学博物館の鳥展を終わる前に観たいし、けもフレのイベントやポップアップショップも始まるので行きたいと思っていたが、もっとその時しか観れない、体験できないものがないかと探していた。タイムラインにバズった動画が流れてきた。

『ENCOUNTERS』。東京駅から徒歩圏内で近いし入場無料、ビルのフロア一角でやっているし小一時間あれば一通り周れるかと移動移動の途中で寄って観てみようと軽い気持ちで行ってみた。

TODA HALL & CONFERENCE TOKYO エントランス

 考えが甘かった。とても咀嚼、消化し切れない。当たり前だ。公的に認められた気鋭のクリエイター、エンジニア数十組がスキルと情熱を注いだ結晶なのだから情報が追い切れない。時間もなかったので多くを表面的にしか鑑賞できなかったのが悔やまれる。

 現代的な切り口の展示作品群。何かしら環境やSDGsを意識したものも目立つ。 
 採取したマイクロプラスチックを巨大に再現するインスタレーション『Giant Micro Plastic』(安西 剛)。

  河川で調達したゴミで顕微鏡を作って河川を観察する『Self-reference Microscope』(石橋 友也)。

 植物や微生物や藻類で発電して光とエネルギーを循環させる『Efficiency of Mutualism, Energeia Cycle 分解と循環のエネルゲイア』(滝戸 ドリタ)。

 AIによる航空写真『Water City – 海面上昇想像図』(吉田 裕紀)。

 AIを利用した技術的な作品も目に入る。
 文章生成AIとプレイヤー2人の掛け合い、やり取りで漫画の展開が変わる『演画』(木原 共)。AIを利用した演劇ワークショップのエチュードやインプロビゼーションに近いかもしれない。年内にSteamで配信予定らしく、AI技術を正しく未来のエンタメ、ゲームに落とし込もうとこうなるのかなあと。

 5枚並べられたパネルにリアルタイムで4つのディープフェイクが生成される『自己同一性柔軟体操』(実験東京(安野 貴博+山根 有紀也))(HPやパンフレットの紹介では『別人電話ボックス』)。

フェイク①
フェイク②
フェイク③
フェイク④
やつれ過ぎてAIが頬のこけをもみあげと認識している。

 時間足りない×文章力足りない×写真映像も上手く撮り損なう×作品群の熱量で全然伝わらないだろうが、来れて非常に有意義だと感じた。

 で、当初のお目当て、恐らくバズり方からしてそんな来場者も多いだろう『鎖に繋がれた犬のダイナミクス』(藤堂 高行)。市販のAI搭載のロボット犬を鎖に繋いで観衆に敵意を向けさせる。展示場の出口前の最後のスペースで毎時45分代から5分ほど件のパフォーマンスが行われていた。


 インスタレーションとして見た目のインパクトとアイデアに舌を巻くし「興味深い」。

 ただ、動画の時点で個人的に感じていたことがある。「興味深い」の感情が強過ぎて他の感情をあまり感じていない。
 恐らくはこのインスタレーションの意図はプログラミングされた機械の動きだけで何かしらの感情、特に負の感情を想起させることだとは思う。「怖い」「可哀そう」「残酷」「不快」… 大多数の意見はそうだが、自分にはなかった。

 理由を考える。まず自分が作る側に立ち過ぎていることがある。
 長らくアマチュアでステージパフォーマンス、ストリートパフォーマンスを作る側、運営する側に周ることが多いせいか、観客観衆がどこでどんな反応を示しているか、無意識でもチェックしてしまっている。動物園・水族館・博物館etc.に行っても展示と同時にそれを観ている人を(不審に思われない程度に)横目で観察してしまう。「この展示の仕方は優れている」「このやり方は伝わりづらくて勿体ない」「舞台を観慣れていない人はここで笑うのかあ」… どこか一歩引いて色々考えながら観ている。
 このロボ犬は絶対に何かしらの感情を人に与える力がある作品であるから形式として評価している一方でロボ犬自体はどうでもいいと思ってしまっているかもしれない。

 そもそもだが、私は多分このロボ犬に一切感情移入していない気がする。カメラアイが光ったり、口の部分が動いたり、唸り声の様なものが上げているが、プログラミングされた動作をしているだけの無生物としか捉えていない気がする。「これはインスタレーションであり、鎖に繋がっているのはガジェットだ」という観念が抜けない。お化け屋敷の機械仕掛けの人形、もっと言えば工場見学で産業用機械を眺めるのと大差がないと思ってしまっている。
 ロボットやAIが心を持つというのはフィクションで普遍的かつ定番中の定番ではある。でも現実の技術としてはそこまで届いていない。近年のAI技術の進歩が凄まじくても、ChatGPTもGrokもビッグデータの平均値からそれらしいことを並べるだけの検索エンジンやツールの延長から脱していない、現状は感情があるものではない、と認識している。

 私が人として淡白でドライ過ぎるのはある程度自覚している。ここ数年、孤独や疎外感があろうが、親しい人間が亡くなろうが、自分が死にかけようが、達観と諦念で泣いていない。なのにフィクションの舞台・映画・ゲームetc.の作品に対しては涙を流す。フィクションに対しては感情移入してしまう。

 変な例えかもしれないが、自分は『ポケモンGO』でニドラン♀をしんかさせたくない。

(Pokémon GO ©Niantic, Inc. ©株式会社ポケモン)

『ポケモンGO』の効率のいい経験値稼ぎは「しんかのコストが低いポケモンを集めてアイテムやキャンペーンでボーナスがかかっている時にまとめてしんかさせる」なのだが、コストが低くてもニドラン♀は自分の中で対象にならない。
 何故かと言うと、ポケットモンスター黎明期に作られた公式設定で「ニドラン♀はニドリーナ、ニドクインにしんかすると生殖能力がなくなる」というのがある。そういう設定を提示されると例え虚構でも心情として人為的にそういうことをしたくないと行動を制限してしまう。同じく、ポケモンGO内でメガシンカ、ダイマックスの要素で遊んでいない。設定上「ポケモンに負担をかけている」「自然に反する」「資源問題が発生している」等のバックグラウンドがあるからだ。

 ロボ犬に感情移入できないことが自分でも意外に思ってしまったのは、ソシャゲとして5年以上遊んでいる『けものフレンズ3』内の物語のクライマックスの一つで、同系統の四足歩行ロボット(ビッグドッグをモチーフにした作業用ロボット、フリッキー)が意思や心を持ち始めた挙句、自己犠牲の果てに再起不能になる印象的なエピソードがあったからである。

(けものフレンズ3 ©けものフレンズプロジェクト2G ©SEGA ©Appirits)

 人より感じるものがあってもおかしくはない。でも言い切ってしまえばそれはそれ、これはこれ。自分にとって重要なのはドラマ性、ストーリー性、バックグラウンドなのだと思う。
 これがある意味では自分の中にある宗教観に近いかもしれない。

 たまに話題に上がる伊集院光が昔のトークで語っていた「神様を信じていなくてもお地蔵様を蹴れないしおにぎりは踏めない」と言う日本人の信仰、宗教観に通ずると思う。作られたあらゆるものには誰かしらの何かしらの思いや意図があるからそこを最低限無下にはしないし出来ない。アニミズム。基本的に物は粗末に扱わない。可能な限り、明確な理由がない限り、何が描かれていようと踏み絵はしたくないし、何を形作っていようと偶像破壊はしたくない。

 そこに来ると『鎖に繋がれた犬のダイナミクス』はそれ自体がパッケージされて作られたもので、それ以上でも以下でもないと根本的に思ってしまって、展示会が終わるまで暴れるのがロボ犬の役割だから「興味深い」より一歩先の感情が自分の中では無かったのかなあと。
 多分だけど精巧な本物の犬の外見をしていても、スピーカーから「コロス… コロス…」と聞こえてきても自分には響かないような気もする。AIがシンギュラリティに到達して真に心を持ち始めたら自分の心も動くのかなあと。

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