獣友夜話
昨年末にオンライン同人即売会で頒布した『けものフレンズ』とか動物にまつわるエッセイ。
群れの力とは(ドール)
自由奔放なネコ科のサーバルの対になる存在で従順なイヌ科のドールが主人公格のキャラクターに選ばれたのは正解だと思う。ドールが主要登場人物である作品に『逢魔ヶ刻動物園』があるが、「ドール(アカオオカミ)」と表記されオオカミであると自称する描写が多い。と言うか名前が大上だ。どちらにしても、あえてキツネだとかオオカミでなく世間的な知名度がかなり低いドールなのがいい。サーバル然り。
はなまるアニマルは三者とも群れの意識が強い動物だ。ドールもミーアキャットも群れで協力して狩りや育児をする。マイルカも百~千頭単位の群れを形成する。ゲーム内の設定やストーリーを見るに、この三者は意識して選出された群れなのだと感じる。
群れの力というのはシリーズを通して度々言及されるが、肯定する一方で否定的にも捉えられている。群れ、集団を形成するとは様々な面で問題が生じる。群れの間での繋がりが強いと感染症へのリスクが高くなる。ドールに生態が近く、スキンシップが多いリカオンなんかは特に顕著だ。共に行動すれば個体が犠牲になることもある。ドールは群れの利益のため、犠牲が出るような前提でトラ等に立ち向かう。イルカは泳ぎの遅い子供に合わせて移動し、天敵に襲われても置いて逃げることをしない。イルカの追い込み漁が成立して残酷だと言及されるのはそういう側面もある。
群れの力が強いという事は、裏を返せば排他的であるとも言える。ドールやミーアキャットの群れは一組のつがいを中心になり、それ以外は繁殖しないという点でも共通しているし、新しくつがいや群れを作ろうとするものに対しては子であろうとも非常に攻撃的になる。ミーアキャットが「ギャング」と称される由縁の一つだ。イルカも群れの中で死に追いやるほどのいじめが発生することもあるし、シャチが有名だが食べもしない獲物を残虐に殺しもする。
内への愛情は外への侵略性に転化する。それこそヒトが繁栄したのは、群れの力の両面性によるものだ。
悪魔の正体(ブラックバック)
声優ユニットとして×ジャパリ団は色々持っている。BABYMETALやBiSHなんかの影響もあるだろうが、基本的に善性で成り立っている世界観で反社会性や悪魔崇拝の要素を孕むハードロック、ヘビーメタルで唯一無二の個性を放ち、それで破綻せずに上手くやっている。ドールと同じ生息域で悪魔を連想させる黒いレイヨウに悪魔の名で叫び声を上げる二匹の獣、明確なコンセプトで作られている。ライブの開演に流れたヨーロッパの『ファイナル・カウントダウン』も妙に含みがあっていい。元自宅警備員という設定はどうなったのかは知らんが。
悪魔に相当するものはどの宗教にも存在するが、世間一般の多くの認識の悪魔はキリスト教の悪魔だろう。初期の悪魔、サタンは禁断の果実のように狡猾な蛇の姿で描かれ、それがドラゴンの姿にも繋がる。ポピュラーなものはバフォメットのように山羊の頭と角を持つ悪魔像だ。キリスト教と対立する北欧の山岳部族等が飼う気性が荒い家畜であったので聖書では山羊を悪しきものの象徴になったらしい。他にもエジプト神話のアモンやケルト神話のケルヌンノス等、キリスト教以外の神や崇拝対象の影響で悪魔に角の意匠が定着したとも言われる。
一神教は不寛容性が強くなってしまう。キリスト教は創世記で人は神に似せて造られたとして人間と動物に明確な線引きをしている。故に動物姿の神や動物そのものを信仰する土着宗教やアニミズムに対して排他的にならざるを得なかったと思われる。科学というある種の信仰に従ったダーウィンの進化論にも反発することになった。仏教の釈迦や北欧神話のオーディンでさえ、時に異教徒の信仰する邪神として扱われた。ヨハネ黙示録に描かれる獣と数字はローマ・カトリック教会、偽の救世主の暗喩とされているので、原理的キリスト教にとって対立するものは人にあらぬ存在なのだろう。
別にどこの宗教や思想が良い悪いとかはこだわりたくないし、言いたくもない。しかし自分の正義を疑わない人が世の中に増えてきてしまっているように感じる。そうなってくると、原理では一切の神、サタンすらも信仰してはならない悪魔崇拝の考えにもどこか否定し切れないものがある。
追記: ブラックバックはヒンドゥー教において、英雄の神クリシュナや月の神チャンドラ(ソーマ)をはじめとした多くの神の乗る馬車を牽く、あるいは跨る動物で、一部ではクリシュナの名を冠して呼ばれる。
深淵を覗く目(ハクトウワシ)
ハクトウワシはかなり人間のイメージでキャラクター付けされたアニマルガールだと思う。
鷲は百獣の王ライオン、獅子と並んで勇気や強さの象徴としてローマをはじめ、世界各地に紋章に用いられる。それがアメリカでは先住民によって神聖視されていた動物であることと結び付いてハクトウワシが国鳥、国章として扱われるようになった。
昔から猛禽類全般が好きだ。素直にカッコよくて。空を雄大に飛ぶ翼、獲物に掴み掛り引き裂くための鋭い爪と嘴、太陽光を遮り遠方を見渡す険しい目。
が、実際の生態の側面で見ると猛禽類は見た目やイメージほど勇猛果敢でもフィジカルが強いわけでもない。どうしたって飛ぶ鳥は多くのものを犠牲にして制空権を得ているので、その体に準じた生き方をしなければならない。
とりわけハクトウワシは長距離移動や繁殖により弱った魚を狙ったり、死肉を漁るスカベンジャーだったり、他の海鳥から獲物を奪ったりする傾向が強く、その生態を知っていたベンジャミン・フランクリンは国鳥にすることに反対であったという。動物園で眺めていても格子越しにこちらを見下ろして全然上の方から降りてこない。飼育員曰く臆病で警戒心が強いからだと。まあ生態だけでキャラクター付けしてしまったら大半のアニマルガールは臆病で食欲旺盛で仲間想いとかになっちゃうのだろうけど。それじゃあ多様性がないし面白味もない。
「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ」とはニーチェの『善悪の彼岸』が原典だが、「深淵」はキリスト教的な神のない絶望を意味する。ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』では「永劫回帰」である無意味、無価値な世界で自己の生と運命を肯定して愛する「運命愛」を以ってして、世界に価値を生み出そうとする者を「鷲の勇気」と「蛇の知恵」を備えた「超人」と定義した。超人は鷲の目で深淵を覗き、鷲の爪で深淵を掴む。人間は超人と動物の境目にある深淵の上を渡っている。
捉えどころのない隣獣(タヌキ)
動物が好き、興味があるということの素養を見極める基準のひとつが「タヌキを正しく把握しているか」であると思う。最近ですら、ベストセラーになった野生イヌの写真を扱った単行本やゴールデン帯の教養番組の動物園特集で「タヌキ」とキャプションを付けながらアライグマの写真を載せてしまうという大間違いを起こしてしまう。思っている以上に動物の形態に気をかけない人が多い気がする。
海外の動物園では日本を代表する動物としてやたら珍重されている。一方で日本では今も昔もそれなりの自然があれば見かけることができる身近な動物であるはずなのに、どうも具体的に生物としてのタヌキを正確に捉えている人は多くない。御伽噺や信楽焼や繋がった目の隈に縞々尻尾で木の葉を頭に乗せて化かしにくるキャラクターとしての「狸」に隠されてどうも捉えどころがなくなっているように感じる。
「同じ穴の狢(むじな)」と言うが、「狢」は主にはアナグマを指し、時代や土地によってはタヌキだったりもするし、他の動物を指したりもするし、「狐」「狸」と並ぶ妖怪だったりもする。「狸」もタヌキ以外にもアナグマ、ハクビシン、イタチ、ヤマネコ、イノシシ、ムササビと時と場合によって指したらしい。とりあえず山にいる四足獣を十把一絡げに「狸」「狢」と呼んでいたのだろう。
『かちかち山』で狸汁が出てくる。正確には婆に化けた狸が爺を騙して婆汁を狸汁として食わすのだが、どうも実際のタヌキ肉は固くて臭くて不味いというのが定説になっている。一方でアナグマ肉は海外の食文化でも食べられるほどに美味とされ、日本でもタヌキと違って美味いと言われる。にしても『かちかち山』で料理や言葉として有名なのに狸汁も捉えどころがない。『セロ弾きのゴーシュ』でも言葉として出てくるが、キャベツと塩で煮る、と料理としてざっくばらん過ぎてタヌキを脅す意味合いの方が強い。精進料理としてはコンニャクを使ったものが伝わっているが。
一説には『かちかち山』は飢饉によって行われたカニバリズムを狸に化かされたことにした民話とも言われる。似たところで『赤ずきん』の原典では少女は狼に騙されて老婆の血肉を口にしてしまう描写がある。
身近にいる得体の知れない獣に化かされた、騙されたということにして、罪の意識から逃れたのかもしれない。
どっちつかずで宙ぶらりん(コウモリ)
昔通っていた空手の道場や工場跡に作られた小劇場に夜間、誤って隙間や換気窓からコウモリが入り込んできてしまうことがあった。まじまじと眺めてみると、とても奇妙だ。もしも全く知識のない状態で見たら、鳥ではないことはわかるが何かわからないものがせわしなく羽ばたいているようにしか見えないだろう。
昔の中国、日本では獣、鳥、魚に属さない動物は虫に分類された。だからコウモリも漢字で蝙蝠、虫偏である。
有名なイソップ寓話『卑怯なコウモリ』では獣にも鳥にも日和見な二枚舌で接しようとするので結局どちらにも属せず洞窟と夜にしか棲めない存在になる。似たようなオーストラリアの民話に『太陽の消えたとき』というのがあるそうだが、こちらは途中まではイソップと同じだが、最終的に獣と鳥の仲を取り持つことになる。どうも地域や時代によってコウモリの印象はだいぶ変わるようだ。
スラヴを中心とした吸血鬼をはじめ、人外や魔物の正体が狂犬病等の感染症だから、それの媒介になるコウモリが吸血鬼のモチーフになったという説もよく言われる。キリスト教の悪魔がコウモリの翼で描かれることも多いので西洋では不吉な象徴。
中国では蝙蝠の「蝠」は「福」に繋がり、疫鬼除けの神である鍾馗(しょうき)と共に描かれる迎福の存在である。西洋とは真逆だ。鍾馗は日本では五月人形で有名だが、端午の節句にコウモリというのは聞かない。一方でタバコのゴールデンバットの名前とパッケージに採用されたのは中国の縁起物だからということに由来するのだとか。また「蚊屠り(かほふり)」「川守(かわもり)」等が語源とされていて、水辺で蚊を食べて川を守るとも考えられた。
ラム酒のバカルディのブランドロゴにコウモリが使われているのはキューバでは屋根裏に棲み着くフルーツバットが富や家族の象徴として扱われ、身近な存在であるから記号としてわかりやすいという理由。
特異で奇妙な生態で、故に人間の目からは様々な見方で見えてしまう動物なのだろう。
高貴な青(マルタタイガー)
バラは本来青い色素を作ることができないので、遺伝子組み換えによって青いバラが開発されたが、現状ではアントシアニンによる紫色に近い。花屋に並んでいる青バラは生成色のバラに青い水溶液を吸わせて青く染めている。
青い毛皮を持つ獣はいない。イエネコのロシアンブルーや絶滅したレイヨウのブルーバックや英名にBlueと冠するオグロヌーやシロナガスクジラも光の加減によって青灰色に見える程度だ。
動物は一部の例外を除いて、青い色素を作れないし、体色を変えるほど外部から溜め込むことができない。クジャクやモルフォチョウ等の青い動物のほとんどは色素が青いのではなく体表の光を反射する微細な構造によって色を作り出す構造色によるものだ。
多くの哺乳類は夜目を発達させた代わりに色覚が発達していない。故に青や緑をちゃんと認識することができない。昼行性の霊長類は色覚が発達しているので、マンドリルやキンシコウ等は青い構造色の皮膚を獲得したのだろうが。
色彩豊かになるほど単純に生存が不利になる。鳥も求愛のための羽根の色彩は天敵の有無や食糧を得る容易さに左右される。
作れない、見えない、必要がない、と青い毛皮を得るためにはハードルが何重にも存在する。じゃあマルタタイガーとは一体何なのか?
言い切ってしまえば錯覚なのだろう。ネットで一時期話題になった青と黒なのか白と金なのか人によって見え方が違う服、あれと同じ理屈。斜陽で陰になったアスファルトの上に寝転がっている白いネコだって、影や光によっては青みを帯びて見えることもある。物理的な錯覚に加えて、鮮やかな青い毛皮を持つ獣がいてほしいという願望やロマンによる心理的な錯覚によって宣教師にはそう見えたのだろう。私だって青いトラは本当にいてほしい。
空を見上げれば目に入るのに手に届かない色、青。染色でも合成染料が開発される以前は藍やインディゴ等に複雑で化学的な手法や工程を用いなければ得られない高貴な色だった。日焼けしていない柔肌から灰色の静脈が青く透けて見えるから貴族のことをブルーブラッドと呼んだのもそういう理由なのだと思う。
失われる味(リョコウバト)
食べてみたい漫画飯ランキングをすれば『はじめ人間ギャートルズ』のマンモスの肉が定番だろうが、アニメのリメイク版の放送が二十年以上前なので、もう今の大学生以降とかには伝わらない気もする。でもマンモスは美味いのか?
半世紀以上前、ニューヨークの探検家クラブの晩餐会で冷凍状態から発掘されたマンモスの肉が振舞われたが、実際はアオウミガメの肉というジョークだった。しかし永久凍土から出てくるマンモスなんてほとんどミイラだし、実際に食おうとしたら固まった土みたいな罰ゲーム級の代物だろう。ゾウの肉も美味くないと聞く。
食用ならば畜産で作られた牛、豚、鶏の方が圧倒的に現代人の口に合うようにできている。でも生理的、倫理的にも問題ないのならば、食べたことがない肉を一度は食べてみたいもの。そんな好奇心からアライグマなんかのジビエが求められるのだろう。
リョコウバトはどんな味だったか? 伝聞では美味だったらしい。主食がドングリなのでイベリコ豚みたいな理屈かもしれない。既にその味を知る人はこの世にいないが、数十年遡れば口にした人はまだ存命だっただろう。何十億羽といて開拓者達の腹を満たしたのだから、ソウルフードや故郷の味にしていた人もいただろうし「また食べたかったな…」と懐古する人もいたのだろう。
ある著名人の「状況が改善されるまでウナギは食べない」というツイートに「今の内に食べておかないと絶滅危惧に指定されて食べられなくなるかも」とリプライしているのを見かけた。ウナギに関して現状規制はされていないので各人の判断になってしまうが、思っている以上に無知で「我が亡き後に洪水よ来たれ」の精神の人がいるような気がする。
綺麗事ではなく、SDGsに関して考えなければいけない。そうでないと未来には最近のディストピアで描かれるみたいな養殖された幼虫とかしか動物性タンパク質が食べられなくなるかもしれない。それに推しがこの世からいなくなる。
檻の中での音色(動物園)
アニメシリーズで私が心を魅かれた要素のひとつが音楽、劇判だ。一期ではプリミティブなパーカッションやシロフォンを用いた自然ドキュメンタリー番組に使われるような音楽が主体になっている。二期ではクラリネットやフルートやアコーディオン等が主体のものが多く、動物園や遊園地やサーカスで流れるような音楽を意識している気がする。セルリアンとの戦闘曲には異質なEDM。それに一部楽曲に使われたシンセサイザー。これが物語の根幹に関わる設定と方向性を表現していると感じる。
昔から私は動物が好きだったが、どうも動物園というものはそこまで好きではなかったような気がする。それよりも図鑑を眺めたり、テレビ番組を見たりする方が好きだった。
行動展示や環境エンリッチメントが意識される以前の教育や研究よりも娯楽施設のメナジェリーの側面が強い展示場、壁にそれらしい絵が描かれた檻に窮屈さを感じていた。動物は常同行動でうろうろしている。自分だったら耐えられない。と言うか実際私は常同行動のようなことをしてしまう。昔から考え事をし始めると無意味に部屋の中や庭の同じ所を歩く。そうしないと落ち着かないし考えがまとまらない。大学時代、時間のかかる実験の待ち時間、教室でそれをやって「お前は檻の中のライオンか?」と突っ込まれた。
地元の動物園にある「人間の檻」。昔からあって自由に出入りができるジョーク半分のフォトスポットだが、解説の看板には「平和を好み、助けあって集団生活をします。しかし、他の生き物すべてを絶滅させる力を持つ危険な動物でもあります」と記載されている。
動物園は必要だし、どこも尽力している。でも現状、動物のために全て上手く立ち回れているとは言い難い。金銭だったり、ノウハウだったり、素人目にも課題は多い。
たかが一来園者がどうこうできるようなことではないと思いながら時に動物を眺めている。園内に流れる気鳴楽器の音色がどこか寂しく聞こえる時がある。
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