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マニマニ —お金にまつわるエトセトラ—

 十年以上前に起こったいわゆるタイガーマスク運動。当時私の姉は結婚する前で児童養護施設に勤めていたのだが、父が冗談半分で「伊達直人になってやろうか? 何か欲しいものはないか?」と姉に尋ねた。それに対して姉は「金」と返した。実際問題、それ系の施設には金がないし、具体的な物よりも圧倒的に便利で助かるのだ。それは冗談ではなく率直な返答だし切実でもある。

 私が所属している劇団の先輩で現代表は大学中退していたが、家業の新しい事業のために30代後半で福祉系の大学に入って社会福祉士の資格を取得した。
 ある授業のグループワークで「生きるのに必要なものは?」という質問をされて即断で「金」と思ったそうなのだが、他の学生達は「愛」とか「絆」とかそういう類いの答えしか出なかったと言う。ビー玉みたいにキラッキラだ。順番で最後の先輩が「金」と答えたら「お~」と建前なのか本当に気付かなかったのかわからない反応をされたらしい。こう言ってはなんだが、下手すれば答案に名前を書けば入学できる大学に現役で入る学生、そこそこの割合が経済的に苦労することもなく幸せに育ち、社会福祉に関してなんたるかをわかっていないまま入学したのだろう。素人考えだって社会にも福祉にも金は切り離せない。きっとその後の授業や仕事で身を以て学ぶことになったのだろうけど。

 数年前、母校の大学のサークルの新入生の自己紹介文にこう書いてあった。「お金で買えないものを得たい、生きる意味とか信頼とか自由とか」... これまたアクリルの宝石みたいにキラッキラだ。高望みしたり具体的過ぎる要求をしなければ全部お金で解決したり代替にすることができる。
 生きる意味はお金があればあるほどに色々模索できる。信頼はお金があれば得られる、と言うかローン組むなりなんなりは収入とかお金による信用がなければならない。お金があればそれを時間に還元したり制約を減らして自由になれるし、沢山あれば将来の不安も解消されるので精神的自由も得られる。極論を言えば働かなくてもいいほどの資産や不労所得があれば人生自由だ。どんな人生になるかはその人次第だが。
 そんなこと言うと「愛」とか「友情」とか「家族」とか返されるかもしれないが、これだって直接買えはしないけれども、金の前提があってこそ得たり維持することができる。恋人とのデートの食事代やプレゼント代、友達との遊びに使う娯楽費や移動費や何かの使用料や入場料、家族を養うのにも金が必要不可欠だ。

 昔は↑のコントで笑っていたけど、真面目に考えてみるとお金じゃ買えない幸せや解決できない物事、概念ってマジでそんなに沢山はない気がする。
 大学生活を通して新入生だった彼女は何か見つけただろうか?

 金は悪じゃない。貨幣制度は文明社会に秩序をもたらすために価値を定量化する規範であり、ある種の発明だ。でも沢山資本があると便利だからそれを得るために躍起になったり、他者を利用しようとする人間が出てしまう。ただそれだけのことだ。わかっている。
 わかっているつもりなのに、でも自分もどこかで金銭を受け取ったり使うことに対してどこか躊躇いや忌避感を持っている気がする。どこか虚無主義的な思想に傾倒しているからかもしれないし、反面教師を見てきてしまったのもあると思う。(前の記事の屑野郎とか)

 悪い癖だと思う。ない袖は振れないのもあるが。どうしたってこの浮世に生きている限り、金について考えながら生きなければならない。資本主義の呪いであり逃れられない。それで苦しむ人も悪事に走る人もいる。

 『ハイパーハードボイルドグルメリポート』のSpotifyの配信コンテンツが公開されているのに最近知った。『no vision』というのがいい。映像がないことと先の見えない現実のダブルミーニングで。

 テレビ放送じゃフィリピンの汚染地域で暮らして廃材の炭焼きで生計を立てる子供の日常とかを収録時間外の『おはスタ』のスタジオで小籔千豊に淡々と観せたりする番組だ。
 資本主義に疑問を感じて左翼団体の運動に参加する若者や稼げることがステータスという価値基準からキャバ嬢から転職した風俗嬢と食事を交えながら素直な姿勢で取材する。意見や思想に対して肯定否定はあれど、そこには傾聴すべき何かが存在する気がする。

 金について、社会について、自分のそれらに対するスタンスについてもっと考えなければいけないと思う。


追記: 今年の漢字、五輪の度に「金」ってボキャ貧なん?

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