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かわいいは正義ではなく快楽

 こんな予期せぬことが起こったりする御時勢だからACのCMが流れる。基本非営利の広告なので尖っていて話題になったりもする。呂布カルマ「寛容ラップ」とか。
 記憶に残るのは旧公共広告機構時代の20年以上前にやっていた子供が一心不乱に黒い絵を何枚も描き続けていたと思ったら実は実物大のクジラの絵を描いていて「子供から、想像力を奪わないでください。」の一文で締めるやつとか、そういうのはとてもいい。

 しかし眉をしかめてしまうのも多い。

 林家たい平が出演して腎臓病検査の啓発で「腎臓だけに検査がかん腎でございます。」と言わせるCM。語源的に肝腎(肝心)で肝臓と腎臓(心臓)なのだから何も上手くもないし駄洒落にすらなっていない。それをわざわざ噺家を起用しているのが物凄く歯に挟まるものを感じる。CMライターの語彙力やセンスはどうなっているのか。

 批判も散見する日本盲導犬協会の「かわいそう」等の意見に「うちらいつでも一緒におるんが幸せやと思ってんのに…」と関西弁のアテレコで盲導犬に喋らせるCM。「かわいそう」というのは人間側の決めつけの誤解だと決めつけの台詞で返すダブスタ具合が短いスパンに捻じ込まれていて非常に気持ち悪い。バウリンガル付けさせたら「正直クソしんどいわ、チュ~ル食って寝たい」って言うかもしれないのに。私に言わせりゃCMとして逆効果だ。訓練や労働を課せられる盲導犬を正当化しているように見えてしまう。

 で、最近私の地雷に触れてきたのがこれ↓、呂布カルマと同時期に公開されたやつである。

 日本動物愛護協会のハローキティを使った地域猫活動の啓発。まず、地域猫ってものが私は看過するものではないと思っている。伊集院光が実家に戻っている奥さんに頼まれたので代わりに世話をしている、というラジオトークも正直あまりいい顔していない。岩合光昭の写真や番組も見る気にはならない。そもそも地域猫なんて後から付けた呼び方で野良猫、あるいはノネコでしかない。

 マンガ・アニメ等のフィクションによって野良猫は気ままで自由、平和で牧歌的なイメージが定着してしまっている。しかし生態系的に見たらただの侵略的外来種に他ならない。それを野に放して好き勝手させたら餌付けしたところでコントロールできるものではない。餌を求めて在来の鳥や虫を襲って生態系をおびやかし、ゴミを荒らして糞尿を散らかす。汚されるのでいちいち車のボンネットには100均のプラのトゲトゲしたマットを敷かなければならない。動物愛護協会とプラのトゲトゲしたマット業界は裏で繋がってるんじゃないか?(THE・陰謀論)

 地域の人間で世話をして「全ての人と猫が気持ちよく住める街を目指しています」ってCMで言っているがそもそも地域猫がいるだけで私は気持ちはよくない。地域の人間って括りで連帯責任にすることで責任の所在があやふやになる。相当出来た人間同士でなければ連帯責任は無責任に等しくなる。しかも野良猫を許容していることは無責任な飼い主によって新たな捨て猫を誘発する空気も作り出しかねない。
 同じ動物愛護協会とACのCMで「飼えない数を飼ってはいけない」「家の外に出してはいけない」「動物を遺棄することは、犯罪です」とプロモーションしている。完全な二律背反ではないが屁理屈的な不合理さを感じる。

 よく散歩に行く公園、小汚いババアがカートを引いて「地域猫の餌が足りません、寄付をお願いします」と手書きでぶら下げている。知らねえよ。やるならてめえだけでやれよ。いや、やるなよ。公園には猫糞が散らかってんだよ。話はそれが永劫ゼロになってからだ。そんなんだから市の職員に叱られんだよ。

 捕獲して殺処分せず去勢だけに済ませるのは繁殖制限をして望まれない命を増やさず今ある命をできる限り守るギリギリの措置なんだが、そのギリギリの措置の線引きが問題だ。
 じゃあその措置をアライグマにはなんでやらないの? フイリマングースには? ヌートリアは? アカミミガメは? オオクチバスは? アメリカザリガニは?
 残酷だが再び野に放さず殺処分する方が断然合理的だ。なのになんで猫にだけそんなことをするのか。

 端的に言うと猫が人間に対して文化的に深く根付くレベルで懐いてかわいいのがよくない。しかもハローキティとコラボしたり去勢済を示す耳の花びら状のV字カットからさくらねこなんて愛称を付けたりして、よりかわいくしようとしている。それすら人によっては「耳を切るなんてかわいそう!」と言い出す。

 去年某メンタリスト(意味ねえなこの伏せ方)が邪魔で不快な生活保護受給者やホームレスの命よりかわいい猫の命の方が大事と宣って炎上していたが、間違った動物愛護っていうのは歪んでいくと優生思想選民思想ルッキズムに繋がりかねない。かわいいパンダや賢いイルカは守るが気味悪い虫けらや興味ない雑草は蚊帳の外。

 かわいいもの、美しいもの、優れたものは優遇してそうでなければぞんざいに扱うなんてフィクションの凄く嫌な悪役がやるようなムーブ以外何物でもない。具体例を挙げると『Sa・Ga2 秘宝伝説』ビーナス

 力を得て、神を名乗り、美しいものだけの理想郷を作るために醜いと判断したものは追放する。主人公に「いまのあんたが いちばん みにくいぜ!」と罵られ、討ち倒される。

 かわいいは正義、元は漫画『苺ましまろ』のキャッチコピーらしく、読んだことないしそれ自体を悪く言うつもりはないが、かわいい≠正義だ。なんで皆かわいい動物の写真や動画を求めるのかというと脳にオキシトシンやセロトニンを出したい、快楽を得たいからだ。公序良俗に反しないだけで根本はポルノと同じなのだろうと思う。
 だから無断転載なんかで金儲けや承認欲求を満たすための道具に使われもする。

 快楽を得るためなら著作権なんか知ったことじゃない、そんな層に需要があるんだろう。Twitterでネガティブめなトレンドワードが一体何から発信されたのか知りたくてタップしてみると「そんな悲しくなることよりみんなこれで癒されて~♡」等と無断転載が視界に入ってくる。二重で邪魔だ。即運営に通報する。同じようなのをキラキラ系女子の釣りアカウントや企業や団体が運営するゆるキャラでも見かけてその都度舌打ちが出てきそうになる。

 私だって人並みの感性と審美眼を持っている。猫はかわいいし、かわいい動物は本質的には好きだし、かわいいものは愛でたい。でもそれと社会的な問題は全く別のことだし、かわいいものに目が眩まされて見なければならないものが視界の外になってしまう人達やそれをあくどいことに利用する輩もいて、どうもかわいい動物、その他かわいいことをあざといほど売りにするものにアレルギーのようなものを感じて避けるようになった。

 それでもかわいい動物は基本的には見たいので地元の動物園に行く。
 生後半年のジャガーの双子が人気で片方が次の週に別の動物園へ出園するので屋内展示室のガラスの前にカメラを持った集団で人だかりができている。一旦離れて2,30分経って戻って来ても集団は依然変わらずいる。その時は規制するスタッフがいなかった。自分もじっくり写真を撮りたいが大した機材や写真術もないのでバズーカみたいなレンズを掲げた連中の中を割って入っていく気にはならない。
 暫くして小さな子供のいる家族連れが来る。展示室前は広くないし相変わらず集団は動こうとしない。人混みを避けて家族は恐らく仔ジャガーがいることも気付かずその場をスルーして行ってしまった。イラっとくる。別に私がまともに写真を撮れないのはいい。でもあんたらが躍起になって撮っているかわいいジャガーの写真は子供の体験や感動の機会を奪うよりも価値があるのか? 私がなりふり構わず正義感を振りかざす人間なら「動物園好きなら動物園マナーくらい守れ、バカ共!」と激昂していたと思う。そしてカメラ床に叩きつけてぶっ壊した後、お縄。

 皆がチヤホヤしたり騒ぎ立てる何かの裏で大切な何かが蔑ろにされているんじゃないだろうか? 見落とされているんじゃないだろうか? それを頭の片隅に置かなくてはならないと思う。

ジャガーと同日に出園することになっていたサイチョウ。展示室前はガラガラ。でもカッコイイ。


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