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障害者のことを知る、大事なことは何か?をニュース記事から考える

視覚障害者が、同じバスに乗る小学生のサポートを受けて通勤している。
そのサポートバトンは10年以上も受け継がれている。
そんな記事。

いくつかの考えるポイントがある。

・男性は通勤に困っている?
10年も経って、通勤に困るのか?
バスの形状の大まかなことは記憶してるんじゃないのか?
コロナの影響で時差出勤。子どもたちとは時間が合わなくなっても出勤できてる。
サポート無しでも通勤できる現状がある。

それでもここで大事にしたいのは、1番最初の子どもが声をかけたということ。
ここに価値があると思う。勇気を出して声をかけた。(勇気を出さずとも自然に声が出たかもしれない)
そして、男性はその声かけを受け止めてサポートを受けた。

ここで、男性が無下に断っていたら、バトンも存在しないし、最初の子どもの心境にも変化があったと思う、悪い方に。
男性はこの子のサポートを必要としていたかはわからない。すでに慣れていたのかもしれない。
ただ、少しのサポートを受け入れる事で、共に生きる時間が生まれた、そう思う。

・バトンが受け継がれる事について
これ、10年以上も受け継がれている。
先に書いた通り、男性はこのサポートが無くても通勤はできている。
それでもなお、サポートを受けているのはなぜか?
声かけをもらった方がより安全なのかもしれない。
子どもたちの教育の一環?優しい気持ちの醸成?
このサポートの申し出によって子どもたちは「困っている人に声をかけて、良い結果を生み出せた。自分は価値のある人間だ」という気持ちが少しでも芽生えたらいいなという教育の機会になっているかもしれない。

困っている人がいたら、当たり前にサポートする。

そんな世界に近づくための機会なのかもしれない。男性が意図してるかはわからないが。

自立支援の観点からすると、過剰なサポートは自立を阻害するが、この話題ではそうでもなく自立できている。
無くても良いのにサポートをさせ続けているという見方もできるが、きっと子どもたちはそうは思わないだろう。損得勘定でサポートしているわけではないから。

困っている人がいたら、当たり前にサポートする。

そんな子どもたちの世界が羨ましくも思える。

いじめだとか、残念な事も子どもの世界にはあるが、それは大人の世界から逆輸入されたものではないかと思う。
幼児の世界にはいじめは無いように思うから。(結果的に喧嘩になったり、ものを取ってしまったりはあるけれど、わざと困らせようとやってる幼児はいないのではないか?)

朝のまとまらない思考を綴りました。

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