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透明な孤独を、歌うひと。

生きるとは、孤独との戦いだ。

すっかり日が高くなってしまった休日の午後、頭痛とともに目がさめる瞬間にはいつもそんなことを考える。

孤独を感じることなく、というよりも、まわりから『あの人は孤独だ』と思われないように、穏便に暮らしていくゲーム。

多くの人は、無意識のうちにそのゲームのルールに則って選択をしている。

だから大人になるほど人は、『辛い』とは言えても『さみしい』とは言えなくなっていく。

孤独は人生に必ずついてくる妙味なのに、それに蓋をしてみないふりをしてしまうから、少しずつ濁って、その濁りがまた人生の孤独を深めていくのだ。

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人は、どうやったって孤独からは逃げられないのだという達観。

彼の飄々と話す姿からは、そんなある種の『諦め』を感じる。

好かれるために努力したって、偽った自分を評価されたって、眠りにつく前に去来する、あの孤独感は拭えない。

『メンタルが強いと言われるけど、単にどうせなら楽しい時間が多い方がいいと思ってるだけ』
と語っていたのを見たとき、この人は本当に孤独を受け入れているからこそ強いのだと思った。

人がどう思うかより、自分がどう感じているかを優先する。
そのためには、どれだけ群れても結局人は本当の意味でわかりあうことはないのだと、腹落ちして理解しなければならない。

表面的な賛同なんて、何の意味もない。

一方で、彼は一貫して『さみしさ』を歌う。

マイクを通して、痛みや苦しさや切なさをまっすぐに届ける。

一見すると矛盾するようだけれど、孤独を受け入れるためには『さみしい』と素直に言えなければいけないのだ、と思う。

さみしくない人なんていない。
幸福な瞬間が孤独を忘れさせることはあっても、常に人生の根底に横たわっているのが孤独というものだからだ。

近くにいるのに遠く感じること、一番わかってほしい人に理解してもらえないこと。

私たちが別々の人間であるかぎり、どんなに一緒にしても『さみしい』という感情からは逃げられない。

だから彼は、そのさみしさを歌にのせて伝えているのだと思う。

無理に幸せなふりをしたり、明るく振る舞ったりせず、鬱屈を鬱屈のまま表現すること。

彼の作る曲が、どんなに暗くても透明度が高いのは、その素直さゆえなのだろう。

話すときはどこか拗ねたような、世を突き放したような空気があるけれど、歌いはじめると奥底に秘めた柔らかい感情をさらけ出す。

そのアンバランスさが、不思議と人を惹き付けるのだと思う。

はじめて歌声を聞いて泣いてしまったのは彼の『さみしさ』が直接伝わってきたからだし、ずっと『直接見たら危ない』と感じていた理由も、この透明な孤独感ゆえだと今ならわかる。

まっすぐに迫ってくるものほど、避けられなくて、怖い。

自分にできないことを軽々とやってのける人はまぶしくて、避けることを忘れてしまうからこそ、怖いのだ。

いつも元気でいなければならない、明るく楽しく人と接して好かれる人間でなければならない、素敵な家族や友人に囲まれていなければならない…

そうやって『こうでなければならない』にがんじがらめになっている人ほど、孤独を恐れていないように見えて素直に『さみしい』が言える人に惹かれていく。

惹かれてそばに寄っていったところで、自分の孤独は自分で飼い慣らすしかないのだけれど。

わかっていても、光に近づかずにはいられない羽虫のように、透明な孤独感が放つ光に吸い寄せられていく。

それがindigo la end というバンド、川谷絵音という音楽家の魔力なのだと、はっきりと確信した一夜だった。

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最所あさみ
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