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「ていねいな暮らし」は、庶民による庶民のためのラグジュアリー

「日本的なラグジュアリーとは何だろうか」。

この5年ほど考え続けてきたテーマである。

もちろん値段の高さだけで見れば、日本ならではの高級品はいくらでもある。茶道具も着物も日本家屋も、日本文化の延長線上にある「ラグジュアリー」だ。歴史を遡ってみれば日本の陶器は江戸時代から高級品としてヨーロッパへ輸出されていたし、現代においても日本の作家さんのうつわを買いにはるばる日本までやってくる海外の顧客も多い。

伝統産業が連綿と受け継いできた高い技術力や「わびさび」「禅」に代表される日本的な精神も、海外の富裕層に支持されてきたポイントである。

しかし「日本的なラグジュアリー」には、西洋的な貴族文化の延長ではなく「ラグジュアリー」の概念そのものをアップデートするニュアンスが含まれているのではないか。

この問いを立ててから数年考え続けて気づいたのは、現代日本のラグジュアリーはこれまでのラグジュアリーの成立過程とは真逆の進化を遂げているのではないかという仮説であった。

ラグジュアリーは常にトップダウンで規程される

「ラグジュアリー」は、基本的に上流階級の暮らしをベースに作られている。ラグジュアリーブランドのアイテムの単価が高いのはもちろんのこと、イヴニングドレスや豪華なテーブルセット、希少な美術品などのアイテムはそれ自体が一般庶民の生活には縁がないものである。社交界にデビューする必要があったり、百人規模のパーティーが開けるほどの広さの家に住んでいることが前提の商品だからだ。

バッグも自分で荷物を移動させる層をターゲットにしていなかったり、靴も徒歩移動などせずアクセサリーとして身に付けることを想定したデザインも多い。

もちろん現代はラグジュアリーブランドも主要顧客が中間層になりつつあるためスニーカーやTシャツなどのカジュアルなアイテムや機能性を重視したものづくりをしはじめたブランドも多い。

しかしラグジュアリーとはあくまで上流階級の暮らしを憧れとし、その感覚を追体験することが価値の源泉であるといっても過言ではない。

ブランドがお金持ちに向けて作ったものに大衆は憧れ、ブランドのアイテムを身に付けることで自尊心を満たす。

言い換えれば、お金さえあれば誰もが憧れる暮らしができるという幻想がラグジュアリー消費を支えてきたのである。

突如現れた「ていねいな暮らし」という現象

一方で、10年ほど前から現れ今やひとつのカテゴリとして定着したのが「ていねいな暮らし」である。

広い家や高い家具を持たずとも、日々の衣食住に手をかけることで豊かさを感じる暮らし。家事を「無駄な時間」と割り切って外注するのではなく、家事そのものを楽しむ精神性。

これはいわゆる貴族・宮廷文化とは真逆の、庶民から生まれたラグジュアリーのかたちと言えるのではないかと思う。

なぜならば、日本においても貴族階級は自分で家事を行うことはなく、衣食住を自ら整える必要があったのは庶民に限られていたからである。

もちろん「ていねいな暮らし」にもお金はかかるし、工程を慈しみ楽しむだけの時間的・精神的余裕がある時点で富裕層に近いという見方もできる。ただ、その終着点が貴族のような暮らしではなくあくまで「庶民」の延長であるところに、この現象の面白さがあるように思うのだ。

梅の時期になったら梅酒を自宅で仕込んだり、家具をDIYしたり、年二回きとんと衣替えをしたり。
「ていねいな暮らし」に代表される行動は、貴族の暮らしには絶対に起きないものばかりである。

そしてこの「庶民の暮らしの最高峰を目指す」感覚こそが、日本的なラグジュアリーを考える上で大きなヒントになるのではないかと思うのだ。

格差が広がるこそ必要とされる「中間のラグジュアリー」

とはいえ、もともとは日本にも確固たる身分制度が存在していた。戦後しばらくたっても華族はいたし、中流家庭にも女中がいた。

日本も長らくトップダウン型のラグジュアリーを享受してきたのである。

そんな日本で「ていねいな暮らし」の潮流が生まれたのは、一億総中流とも言われた中産階級の大幅な増加が大きな要因になったのではないかと思う。

桁外れの大富豪が存在しない代わりに、身の回りの生活を豊かにしたいと願う程度には豊かな人たちを作り出した。世界中に別荘を所有したり、住み込みの家政婦を雇ったりするよりも、自分の手でひとつひとつの過程を慈しみながら暮らしたいと願う層を生み出したのである。

そしてこれから中国を中心に世界中で中間層が増えていく中で、こうした「ほどほどのラグジュアリー」のニーズも高まってくるのではないかと私は考えている。

今後ますます格差は大きくなっていけば、どんなにがんばってもテレビやSNSで見るようなセレブリティの暮らしは真似できないと考える人が増えるはずだからだ。

大金持ちになるために競争するよりも、ゆとりを持って一日一日を過ごし、日々の満足度を高めていきたい。

この新たなラグジュアリーのロールモデルは、日本的な「ていねいな暮らし」にヒントがあるような気がしている。

こんまりさんがアメリカで大ブレイクしたのも、「片付ける」という面倒な作業に精神性を付加することで自分と向き合い、真の豊かさと向き合うきっかけに昇華したことが大きかったのではないかと私は考察している。

片付けに限らず、日本は海外に比べて家事に求められる精神性が高いのではないかと女性誌を読んでいても感じることがある。片付けや収納の特集を見ない月はないし、手料理にも情熱を注ぐ。
そもそも小学校の頃から自分たちで教室を掃除することを教え込まれているし、お寺の修行も雑巾掛けからはじまる。

日々の何気ない家事にも心を込めて向き合うことが精神修養のひとつであるという風習が日本にはある。

だからこそ「デコレーション(装飾)」としての家具ではなく「オーガナイゼーション(収納)」としての家具が求められるし、家庭料理が映えるうつわの需要も高い。
日本のうつわや家具を世界に売っていこうと思ったら、「ていねいな暮らし」というコンセプト自体を売り込む必要がある、と私は考えている。

これから「もっと稼ごう」の梯子を降りて「もっと豊かに暮らすには」を考えはじめる人が増えていけば、身の丈にあった「ていねいな暮らし」が自分にとってのラグジュアリーだと感じる人も増えていくだろう。

暮らしを自分の手で営む喜びこそが、日本的な精神として他の文化圏に発信していくべき至宝なのではないかと思うのだ。

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最所あさみ
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