果て
ブションでランチをした友人と夕方に別れて、西陣にある町屋古本はんのきに行った。浅野いにおの短編集と、クリシュナムルティというインドの思想家が紹介された小本を買った。
そのあとどこかで夜ご飯を食べようと考えた。ピックアップしていた飲み屋のリストと喫茶店のリストをながめ、でも気分に合うお店は全然見つからなかった。自分がほんとうに行きたいところは無いのだろうと思い、だからひたすら東へ向かった。
途中で通り抜けた馴染みのない商店街にもの寂しさを感じた。たぶん商店街そのものというより、知らない場所にひとりでいる自分に。
西陣から丸太町までの距離をおよそ1時間歩きつづけた。暗い夜道を寄る辺なくさまようことと、誕生日という特別な日をそのまま享受できないことのふたつを悲しんだ。
誠光社にほど近い、ItalGabonというブックカフェにようやく入った。美味しいご飯を食べる、しずかに読書する、そのどちらも両立させられる落ち着いた空間である。奥の席にすわって、アラビアータ(辛味のあるトマトソースパスタ)とスプリッツァー(白ワインのソーダ割)をいただいた。
今日購入した本はどちらも開かず、代わりに家から持参した大前粟生さんの『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を読み進めた。
ふと思い立ってスマホをみると、noteの通知がきていた。フォローしている方が一つまえの日記にコメントを残してくださっていて、そのやさしい文面にあてられて急に、泣きそうになった。
私はよく恋人のことを書くけれど、彼に対する思いは純度100というわけではなくて、いつもこの日々の果てについて考えている。愛おしい日常を記録しておきたいということ以上に、いい文章を作るために現実を利用している。どちらかといえば、そういう自分本位なずるい気持ちばかりを抱えてきた。
(もちろん私にかぎらず、幸せそうな文章を書く方がずっと幸せというわけではないし、そういうことは忘れないようにしたい。)
ただ、誕生日おめでとうございます、とまっすぐ祝ってくださり、平穏を祈ってくださった方々のように、他者にちゃんとベクトルを向けられるようになれたなら。そんなことを願う。
スプリッツァー片手に、小説にもどる。
この本に出てくる人たちは、私がnoteでつながっている人たちと似ている、と勝手ながら思った。思考は単純でなくいろいろなところを行ったり来たりしていて、感受性が豊か、ときに豊かすぎるほどで、他者の感情を敏感に読み取ろうとしていて(あるいは読み取ってしまって)、つらくてきびしい現実をどうすればいいのだろうとつねに考えている気がする。そんなやさしくて愛すべき人たち。
ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい。noteに自分の考えを書き綴る人はやさしい。それはおそらく、面と向かって話す相手を傷つけないようにするという意味で、でも、自分の痛みに決して無関心ではいられないほどに、という意味で。
けれど、私は自分がやさしいかどうかについては、ずっとわからない。