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価値観の牢獄

私は以前、「MBTI界隈に感じたズレ」という記事を書いた。ただ、自分の感じたことを羅列しただけの内容だったが、意外にも多くの共感を呼び、予想以上の評価を受けた。

多くの人に読まれるとなると、誤字が気になり、確認しようと記事を読み返した。だが、そこにあったのは、私がこれまで書いてきた他の記事と本質的に大差のない内容だった。

それなのに、なぜ私は似たような記事を量産し続けるのか。怠惰なはずの私が、まるで勤勉な印刷機のように、何度も文章を世に送り出す理由とは何なのか。

今回は、その疑問の先に見えた——私が囚われている「牢獄」について書こうと思う。


価値観という名前の牢獄

「価値観」——それは全人類が持ちながらも囚われているもの。それなのに、ほとんどの人はその檻の存在にすら気づかない。

「これくらいは当たり前」——誰しもが一度はそう考えたことがあるはずだ。しかし、それはあくまで自分だけの物差しであり、誰とも完全には共有できない個室の牢獄だ。

私にとっての「当たり前」は、あなたにとっての「当たり前」ではない。誰もがそのことを理解しているはずなのに、無意識のうちに「みんな同じ」と誤認してしまう。たとえば、「差別は悪い」や「浮気は許されない」といった道徳的な規範。一見すると普遍的な正しさのように思えるが、これらもまた、個々人の「価値観」によって形成されたものにすぎない。

「価値観の牢獄」と言うと過激に聞こえるかもしれない。しかし、「当たり前」を盲信すれば、それはやがて虐待や差別の正当化へとつながる。善意すらも暴力になり得るものだ。そして、私もその中にいる囚人だった。


私の牢獄

アルカナの21番、「世界(The World)」——その意味は、正位置で完全、完成、完遂。逆位置では不完全、未完成、堕落。これが、私が囚われた牢獄の名だ。

タロットカードは、あくまでオカルトにすぎない。私がこのカードを知ったのも、かつて罰ゲームで訪れた占いの館での偶然にすぎなかった。あの日、私はただ引き当てただけのはずの「世界」を、今も捨てられずにいる。

私は、他者が認めるものを簡単に認めることができない。多くの人は「〇〇は良い」「〇〇は悪い」と、自らの主観をまるで万人に通じる普遍の真理であるかのように語る。しかし、私はそれらの「感想」を受け入れることができなかった。

「感想」とはあくまで個人の主観であり、人の数だけ存在するはずだ。それを疑うことなく決めつける姿を見て、私は彼らを見下していた。

だが、完全を求める私は、主観的に決めつけて、失敗を恐れ、堕落し、物事を未完成のままにしている。完璧を求めているのに、何ひとつ完遂できない不完全さに囚われている。認めたくないがこれが私だ。


私とMBTI

学校で当たると有名な性格診断の話を振られた私はどうせバーナム効果にでも騙されたんだろうなどと考えながら適当にやった。結果はISTPでINTJの私とは全然違いバーナム効果すら感じづ、当たらないと否定しようと思った。だが、それを知らないのに否定するのは違うと感じ一度調べ、そこでMBTIに出会った。

その後、しばらくはMBTIにハマりよく調べていた。しかし、語る人によって理論や概念が違い、それらを見て不完全だと感じ始めた。元から類型論に完璧さを求めるのは間違いなのは理解していた。MBTIはあくまで方向を示す羅針盤であり、自分を示すGPSではない。

私はそれを認めたくはなかった。だから不完全なものを否定し続けた。完全だと盲信する不完全な論理で。繰り返しの結果として「MBTI界隈に感じたズレ」はフォロワー数の倍以上のスキを集め、一時的にMBTIの人気順でTOPの記事になった。


窓から見えていた景色

私は理想を世界に公開し、それが評価された。本来なら喜ばしいはずなのに、なぜか喜べなかった。理由は明白だった——それが不完全な理論にすぎないからだ。

私はただ、自分の理論を突き詰めることだけを考え、記事を書いた。そこにあったのは、青く染められた白い鳥でしかない。MBTIを適当に楽しんでいる人、あるいは悩みを抱え、藁にもすがる思いでMBTIに縋る人——牢獄の窓から見えるそれらの景色から、私は目を逸らしていた。

記事へのフィードバックの中には、私が無視したその景色について言及するものもあった。それを前にして、私は黙殺することができなかった。だが、それは罪悪感などという善人のような感情ではなかった。ただ、自分が不完全であることに対する不快感——そんな傲慢な理由だった。

その感情に触れたとき、ようやく私は、自分自身もまた牢獄の中に囚われていたのだと認めることができた。


価値観の牢獄と人生

牢獄から完全に出ることはできない。だが、価値観に実体はない。壁の存在を知れば、その部屋を広げられる。広くなった壁には窓を作ることもでき、そこから外の景色を眺めることも可能になる。

それは容易なことではない。しかし、狭い牢獄のままでは、身を横たえて休むことすら叶わない。壁を押し広げることで、思考の余白が生まれ、寛容になり、深く考えられる。それは人生をより良く生きることが可能になる。

MBTIは、牢獄の中で「何をしたいか」は教えてくれる。しかし、その牢獄そのものについては何も教えてはくれない。だからこそ、自分が今どんな場所に囚われているのか、一度立ち止まって見つめ直してほしい。

私は人生の十年以上を費やして、ようやくこのことに気づけた。それを伝えるための啓蒙としてこの記事を書いた。

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