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価値形成観を問う12問に答えてみる。
私は、コミュニケーショントラブルを未然に防ぐため、他者と少しズレている自身の価値観の違いを客観的に認識する必要があると思っている。今回はその手段として、フォローしている人がやっていた「価値形成観を問う12の質問」に答えてみることにした。違いを理解することが、今後のより良い人間関係の土台になると信じている。
1.あなたの中で現在「当たり前だ」と感じる価値観は何ですか?また、それが形成されたエピソードがあれば教えてください。
私の中で現在「当たり前だ」と感じる価値観は2つある。それは、「自分と他人は別の個人である」と「人間は所詮は動物である」というものだ。
最初の「自分と他人は別の個人である」という価値観は、一見すると当たり前のように思えるかもしれない。しかし、実際には多くの人がこの事実を認識の中で曖昧にしているように感じる。私がこれを強く意識するようになった理由を一言で表現するなら、「私の価値観が異常だから」。私が周りの価値観に共感できた事はあまり多くない。他者との価値観の違いを認識することは当たり前だが、私の場合、それは自分と近いMBTIタイプとさえも乖離しているほど深い溝を持っている。
次に、「人間は所詮は動物である」という価値観。これは一見過激に聞こえるかもしれない。しかし、行動経済学や進化心理学を調べれば、人間の行動が本能や生物的な欲求に強く影響されていることが否応なく理解できる。この事実を認識することは、人間を過剰に美化せず、現実的な視点を持つことに繋がると考える。
座右の銘、もとい行動や考えのベースになっている言葉や思想があれば教えてください。
私の座右の銘は二つある。「恐怖はつねに無知から生じる」と「怒りは無謀をもって始まり、後悔をもって終わる」だ。
最初の言葉、「恐怖はつねに無知から生じる」は、私が人間の怯えについて抱いていた考えを見事に表現している。人は未知のものを過大に恐れる。その恐怖を和らげる鍵は、知識と理解にあると私は信じている。
次の言葉、「怒りは無謀をもって始まり、後悔をもって終わる」は、他者の行動を観察して思うことが多い言葉だが、同時に自分自身にも言い聞かせるものだ。怒りに駆られるとき、結果はほとんどの場合、自分にも相手にも後悔をもたらす。なにかを得られたと感じても、それは誤謬などが殆どで、大半は何も得られていない。それを忘れないための戒めとして、この言葉を心に刻んでいる。
覚えていることのうち、最も嬉しかったことは何ですか?
覚えている限り、最も嬉しかったことは何だろうか。正直に言えば、それを答えるのは難しい。私はかつて感情を嫌い、ロゴス(理性)に心酔していた。その結果、感情を抑制することが習慣となり、強い喜びや悲しみを感じることが少なくなった。
もし強いて挙げるとするなら、今この瞬間を生きていることが最も嬉しいことだと言える。感情が薄れても、存在そのものに喜びを見出すことはできる。それは、淡々と流れる日常の中に潜む、静かな満足感のようなものだ。
今まで強く怒りを感じた事において、何か共通点はありますか?
私は、上で書いたように強い感情を抱くことが少ない。だが、例外的に怒りを覚える瞬間には、いくつかの共通点がある。それは三つの要素に集約される。一つ目は「無意味や無駄な事」、二つ目は「盲目的な価値観の人間」、三つ目は「価値観の境界線を理解していない人間」だ。
一つ目の「無意味や無駄な事」
これは私の主観に大きく依存する基準だ。私が「無意味や無駄」と判断した物事に対しては、身勝手ではあるが、怒りを覚えることが多い。なぜなら、それが自分の中で価値や重要性を見出せないだけでなく、時間やリソースを浪費させられると感じるからだ。
二つ目の「盲目的な価値観の人間」
ここで言う「盲目的」とは、ただ周囲の価値観や風習に従う者だけでなく、自身の価値観を疑うことなく信じ切っている人も含む。このような人々に対して、私が抱く感情は単なる怒りではなく、軽蔑も混ざっている。考えることを放棄し、なにも疑問を持たずに盲信する態度に対して、私は反射的に不快感を覚える。
三つ目の「価値観の境界線を理解していない人間」
ここで言う「境界線」とは、自分と他者、あるいは世界との価値観の違いのことだ。自分の価値観を人類の総意と誤解し、それを他者に押し付ける人々。彼らは価値観の多様性を認めず、自分の言葉に従うことを求めてくる。彼らとの会話では、ただ「同意」する役割しか求められない。それはまるで水飲み鳥がただ首を縦に振り続けるような行為だ、私にとっては非常に不愉快だ。
人生で最も絶望したエピソードがあれば教えてください。
私はこれまで、一度も絶望を感じたことがない。多くの人は理想像との乖離や、希望が断たれることによって絶望するのだろう。だが、私の最大の理想は「死なないこと」であり、この理想は生きている限り崩れることがない。
希望を断絶される可能性も、私にはほとんど存在しない。私の希望は生存に直結しており、この日本では生存がほぼ保証されている。やりたいことを必要最低限に抑えれば、生きていくこと自体は非常に容易だ。この環境下では、私の希望を脅かすものはほぼ存在しない。
故に私はこれまで絶望という感情を抱いたことがない。それは理想や希望の持ち方そのものが他者と少し異なっているからだ。
ご自身の性格タイプの説明を読んだ中で、最も腑に落ちた要素は何ですか?
INTJの説明を読んで腑に落ちた点は多いが、最も腑に落ちたのは16Personalitiesの「新しいアイデアは、実際にうまくいくものでなければ価値がない」という言葉だ。
私は結果を出さないものを無価値と感じる。たとえ空想上のアイデアであっても、そこに実用性がなければ興味を持てない。この言葉は、実用性を重視する私の価値観を的確に表している。
自分はどのように育てられたと感じますか?
私は真摯に育てられたと感じている。両親が引いたレールを私はすべて外れた。それにもかかわらず、両親は終始一貫してひたむきに私を支え、育ててくれた。その姿勢には深い感謝を覚えている。
養育者との確執はありましたか?あった場合、具体的に説明してください。
私と両親の間には確執はない。このように書ける人は残念ながら少ないのではないかと思う。この点で、私は両親に恵まれていると言える。いつの日か、この設問自体が誰にとっても不要になるような世界になることを願っている。
何度も言われたことにより、あなたに強く植え付けられた考えは何ですか?
私には「何度も言われたことで強く植え付けられた考え」というものがほとんどない。なぜなら、私は常に自分の思考に意識の半分近くを奪われており、外から言われた言葉をあまり覚えていないからだ。
逆に、数回しか言われていないのに、あなたに強く植え付けられた考えは何ですか?
言葉として「言われたもの」ではないが、私の価値観にはエピクロスの思想が深く影響している。特に、「神が存在するとしても、そんな完璧な存在が我々如きに頓着すると考えるのは傲慢である。よって祈りや神話に意味はないが、それが心の平穏に役立つのであればするといい。」という言葉は、盲信の傲慢さと信仰の持つ心理的価値を理解するきっかけとなった。
恋愛において、他者に最も驚かれたあなたの価値観は?
私には「恋愛の価値観」について他者に話した経験がない。その理由は至って単純で、私が求める理想の恋人が「人形のような従順さと美しさを持った存在」だからだ。人に対してそんな傲慢な事を求める価値観を流石に外には出せない。
絶対に許せないことがあれば教えてください。
私は、「絶対」と呼べるほどの強い想いを抱いたことはない。その瞬間、怒りの炎が燃え上がることはあっても、やがて薪は底を尽きてその火は自然と消える。それが私の感情の在り方だ。
あとがき
ここまで私の価値観を記してきたが、改めて思うのは、自分の価値観を他者に伝えることの難しさだ。もし多くの人と同じ価値観であれば、それを単純に言葉にするだけで済む。だが、私の価値観は大きくズレているため、伝えようとすればするほど、そのズレが言葉の間に浮かび上がるように感じる。それに改めて気付けた事は、この記事を書いた成果と言えるだろう。