アイヌ語のローマ字表記とキリル文字表記のこと
アイヌ語の文字表記はカタカナとラテン文字=ローマ字の2種類が主に使用されるのですが、近年はロシア・サハリンの樺太アイヌ語などの研究のためにキリル文字正書法が登場しました。
アイヌ語ローマ字ではチャ行が原則的に《C》で示されるなど、日本語ローマ字と異なる表記がいくつか見られます。
アイヌ語キリル文字ではエが常に《Э》で示されるなど、現行日本語キリル文字をベースにしたものとなっています。
トップ画像に示されているチャ行・シャ行・トゥ・イェの拡張カタカナは1950年代にアイヌ文化研究者・山本多助さんが編さんした機関誌『アイヌ・モシㇼ』で用いられた新アイヌ語仮名で、そのうちユニコード14.0でイとエの合字〈YE〉が採用されました。
アイヌ語ローマ字と推測字母名
アイヌ語ローマ字の正式な字母名が不明なため、推測による字母名を見出しにしています。
日本語などからの借用語の長音表記は、二重母音による連字―北海道アイヌ語では本来、強アクセントの箇所―で示す樺太アイヌ語以外では存在しないので、併記されているアイヌ語仮名又は文脈で読み取る方法になっています。
『アイヌタイムズ Aynu-Taimuzu』などでは借用語に長音記号が付加される場合がありますが、ネット上では省略される傾向があります。
【A・a】ア/a/[a ア] - 英字母名からの推測表記は〈エイ〉/ey/。
【C・c】チェ/ce/[ʨ チ/ʦ ッ] - 英字母名からの推測表記は〈シ〉/si/。
【E・e】エ/e/[e エ] - 英字母名からの推測表記は〈イ〉/i/。
【H・h】ハ/ha/[h ㇸ/x ㇹ] - 英字母名からの推測表記は〈エイチ〉/eyci/。
【I・i】イ/i/[i イ] - 英字母名からの推測表記は〈アイ〉/ay/。日本語の《ツ》は借用語では〈CI〉[ʨi チ]音となる。
【K・k】カ/ka/[k ㇰ] - 英字母名からの推測表記は〈ケイ〉/key/。
【M・m】エㇺ/em/[m ㇺ]
【N・n】エン/en/[n ㇴ・ン/-ŋ- ン/-m- ン]
【O・o】オ/o/[o オ] - 英字母名からの推測表記は〈オウ〉/ow/。
【P・p】ピ/pi/[p ㇷ゚]
【R・r】アㇻ/ar/[ɾ ㇽ] - アㇻは〈AR/АР〉[aɾ], エㇾは〈ER/ЭР〉[eɾ], イㇼは〈IR/ИР〉[iɾ], オㇿは〈OR/ОР〉[oɾ], ウㇽは〈UR/УР〉[uɾ]となる。
【S・s】エㇱ/es/[s ㇲ/ɕ ㇱ] - 現行アイヌ語仮名における母音+子音による音節は、アㇱは〈AS/АСЬ〉[aɕ~as], エㇱは〈ES/ЭСЬ〉[eɕ~es], イㇱは〈IS/ИСЬ〉[iɕ~is], オㇱは〈OS/ОСЬ〉[oɕ~os], ウㇱは〈US/УСЬ〉[uɕ~us]となり、まれに《ㇲ》で示される。
【T・t】テイ/tey/[t ㇳ] - 現行アイヌ語仮名では子音のみの[t]音は〈アッ〉/at/のように示すが、促音表記にも用いられるため、アイヌ語ローマ字では促音は〈PPO〉[ッポ]のように二重子音表記で区別される。借用語ではティに由来する〈TI〉[ʨi チ]が使用される場合があり、チベットは〈Tibetto〉[ʨi.ˈpet.to チペット]と表記される。
【U・u】ウ/u/[u ウ] - 英字母名からの推測表記は〈ユ〉/yu/。日本語標準語の発音は[ɯ]音だが、アイヌ語では沖縄語や関西弁と同じく本来のラテン語と同じ[u]音である。
【W・w】ワ/wa/[w ゥ] - 英字母名からの推測表記は〈タㇷ゚リウ〉/tapriw/。アイヌ語仮名の語末の《ゥ》[-w]は現行アイヌ語仮名では《ウ》と表記。
【Y・y】ヤ/ya/[j ィ] - 英字母名からの推測表記は〈ワイ〉/way/。アイヌ語仮名の語末の《ィ》[-j]は現行アイヌ語仮名では《イ》と表記。近年は例外的にYではなく〈-I〉で二重母音を示す借用語が多い。
【ʼ】アポㇱトゥロフ/aposturohu/[ʔ ア行] - 訓令式ローマ字と同様〈N'I〉[n.i ンイ]のように音節の区切りに用いる。
方言音及び借用語表記用ラテン字母
アイヌ語諸方言や借用語に見られるラテン字母です。
字母名は推測表示です。
【B・b】ペ/pe/[b ブ] - ドイツ字母名からの推測。英字母名からの推測表記は〈ピ〉/pi/。
【D・d】テ/te/[d ド] - 英字母名からの推測表記は〈テイ〉/tey/。
【F・f】エフ/ehu/[ɸ ㇷ]
【G・g】ケ/ke/[ɡ グ] - 英字母名からの推測表記は〈チ〉/ci/。
【J・j】チェイ/cey/[ʥ ヂ]
【L・l】エㇾ/er/[ɾ ㇽ/l ㇽ]
【Q・q】キウ/kiw/[kuw- クワ/-kw- ㇰワ]
【SH・Sh・sh】シャ/sha/[ɕ ㇱ] - キリル文字《Ш・ш》のロシア字母名からの推測表記。
【V・v】ウイ/uy/, ウィ/wi/[w ゥ/b ブ] - 日本語ローマ字の字母名からの推測表記は〈プイ〉/puy/。
【X・x】エキㇱ/ekis/[kis-~kiɕ- キㇱ] - 樺太アイヌ語における《Х・х》のロシア字母名からの推測表記は〈ハ〉/ha/。
【Z・z】チェッ/cet/[ʥ ヂ/ʣ ヅ] - 本来のラテン字母名からの推測表記は〈チェタ〉/ceta/。
アイヌ語ローマ字による日本語50音
20世紀後半のアイヌ語資料では、本来のアイヌ語ローマ字に含まれない字母《B, D, F, G, Z》が見られます。
長音表記は樺太アイヌ語では〈AA, II, UU, EE, OO〉のように母音字の連字で示されるのですが、エーの〈EY〉を除いて表記されない傾向があるようです。
北海道のアイヌ語諸方言では有声音の存在する方言もあることから、有声音も表記します。
公益財団法人アイヌ民族文化財団の『アイヌ語教材テキスト』シリーズでは漢字が“表意文字”として用いられアイヌ語仮名及びローマ字表記が併記されていないことから、アイヌ語の固有語で訓読するか日本語に近い発音となるかは不明です。
アイヌ語では漢字カタカナ混ぜ書き/漢字ローマ字混ぜ書きが用いられ、外国の地名なども日本語カタカナのまま表記されるケースがあります。
『アイヌと自然デジタル図鑑』の方式では本来のアイヌ語ローマ字表記に無い音節も見られます。
【A, I, U, E, O】ア・イ・ウ・エ・オ
【KA, KI, KU, KE, KO】カ・キ・ク・ケ・コ
【SA, SI, SU, SE, SO】サ・シ・ス・セ・ソ
【TA, CI, CU, TE, TO】タ・チ・ツ・テ・ト - アイヌ語では日本語《ツ》[ʦɯ]からの借用語は〈CI〉[チ]で表記されるが、近年の借用語では訓令式ローマ字に合わせて〈TU〉[トゥ]で示される。アイヌ語のツは〈CU〉[ʨu チュ]の変音で示される。
【NA, NI, NU, NE, NO】ナ・ニ・ヌ・ネ・ノ
【HA, HI, HU, HE, HO】ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ
【MA, MI, MU, ME, MO】マ・ミ・ム・メ・モ
【YA, I, YU, YE, YO】ヤ・イィ・ユ・イェ・ヨ
【RA, RI, RU, RE, RO】ラ・リ・ル・レ・ロ
【WA, WI, U, WE, WO】ワ・ヰ=ウィ・ウゥ・ヱ=ウェ・ヲ=ウォ - ウィの〈WI〉は近年の外来語に見られる。
【N】ン - 撥音では〈NKA〉[ŋka ンカ]や〈NPA〉[mpa ンパ]などのように調音位置で鼻音が変化するのは訓令式ローマ字と共通。
【GA, GI, GU, GE, GO】ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ - 日本語からの借用語は合成語を除いて語中でカが〈-NKA-〉[-ŋka- ンカ]のように発音が変化 (現代ギリシャ語の〈ΓΚ・γκ〉は語中では[ɡ グ/ŋɡ ング/ŋk ンク]の3種類の発音がある)。
【ZA, ZI, ZU, ZE, ZO】ザ・ジ・ズ・ゼ・ゾ - アイヌ語では日本語《ズ》[ʣɯ]からの借用語は合成語を除いて〈CI/-NCI-〉[ʨi チ/-ɲʨi- ンチ]で表記される。アイヌ語のズ・ヅは〈CU/-NCU-〉[ʨu- チュ/-ɲʨu- ンチュ]の変音で示される。
【DA, ZI, ZU, DE, DO】ダ・ヂ・ヅ・デ・ド - 日本語からの借用語は合成語を除いて語中でダが〈-NTA-〉[-nta- ンタ]のように発音が変化 (現代ギリシャ語の〈ΝΤ・ντ〉は語中では[d ド/nd ンド/nt ント]の3種類の発音がある)。
【BA, BI, BU, BE, BO】バ・ビ・ブ・ベ・ボ - 日本語からの借用語は合成語を除いて語中でバが〈-MPA-〉[-mpa- ンパ]のように発音が変化 (現代ギリシャ語の〈ΜΠ・μπ〉は語中では[b ブ/mb ンブ/mp ンプ]の3種類の発音がある)。
【PA, PI, PU, PE, PO】パ・ピ・プ・ペ・ポ
【AY, IʼI, UY, EY, OY】アイ・イイ・ウイ・エイ・オイ
【AW, IW, EW, OW】アウ・イウ・エウ・オウ
【-IYA, -IW~-IʼU-, -IYE, -IYO】ャ・ュ・ェ・ョ- アイヌ語では原則的に拗音が存在しないため、東京[トウキョウ]は〈Tokiyo〉[トキヨ]のように表す。末子音がある場合、キュンは〈Ki'un〉[キウン]となる。
【-UWA, -UY~-UʼI-, -UWE, -O】ァ=ヮ・ィ・ェ・ォ - アイヌ語では語頭の合拗音が存在しない。末子音がある場合、クィーンは〈Ku'in〉[クイン]となる。
【SHA, SI, SHU, SHE, SHO】シャ・シ・シュ・シェ・ショ - シャ行音[ɕ]はサ行音[s]の変音であるため、ローマ字表記ではヘボン式と同じく〈SH〉で示されることが多い。
【ZA, ZI, ZU, ZE, ZO】ジャ・ジ=ヂ・ジュ・ジェ・ジョ - 日本語からの借用語は合成語を除いて語中でジャが〈-NCA-〉[-ɲʨa- ンチャ]のように発音が変化。
【CA, CI, CU, CE, CO】チャ・チ・チュ・チェ・チョ
【CA, CI, CU, CE, CO】ツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォ - ツァ行音[ʦ]はチャ行音[ʨ]の変音。
【CI, CI; TU, TU】ティ・ディ ; トゥ・ドゥ - アイヌ語で『ウィキペディア』は〈ウィキペンチア〉となるように、借用語における語中のディは合成語を除いて語中では〈-NCI-〉[-ɲʨi- ンチ]のように発音が変化。ティに由来するチは例外的に〈TI〉で表記される場合があるが、発音は〈CI〉と同じチ[ʨi]。
【FA, FI, HU, FE, FO】ファ・フィ・フ・フェ・フォ - アイヌ語の一部方言ではファ行音[ɸ]が借用語に使用される。
【WA~BA, WI~BI, U~BU, WE~BE, O~BO】ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ - 樺太アイヌ語ではワ行音[w]に置き換えられる。
バチラー式ローマ字
イギリスのジョン・バチラー博士が考案したバチラー式ローマ字は日本語のヘボン式ローマ字をもとにした表記法で、バチラー式などヘボン式派生によるアイヌ語表記は大正12年8月10日にアイヌ民族の作家・知里幸恵さんによるアイヌ語初の出版物として発行された郷土研究社・刊『アイヌ神謡集』(※リンク先は青空文庫)や文録社・刊『アイヌ語より見たる日本地名研究』(※リンク先は国会図書館デジタルライブラリー)など20世紀前半の資料に見られるアイヌ語のローマ字表記で、子音が英語とほぼ共通の表記となっています。
近年は日本語からの借用語のチャ行が現行ローマ字の《C》ではなく〈CH〉となり、単語表記が大文字―アイヌ語仮名では“ひらがな”表記―で示される例外表記が白水社・刊『ニューエクスプレス+アイヌ語』などで見られ、バチラー式ローマ字が一部で復権しています。
バチラー式と現行アイヌ語ローマ字と異なる表記です。
【AI, UI, EI, OI】アイ・ウイ・エイ・オイ - 現行正書法では〈AY, UY, EY, OY〉。
【AU, IU, EU, OU】アウ・イウ・エウ・オウ - 現行正書法では〈AW, IW, EW, OW〉。
【SA, SHI, SU, SE, SO】サ・シ・ス・セ・ソ - 現行正書法でシは〈SI〉。
【ASH, ISH, USH, ESH, OSH】アㇱ・イㇱ・ウㇱ・エㇱ・オㇱ - 現行正書法では〈AS, IS, US, ES, OS〉。
【CHA, CHI, CHU, CHE, CHO】チャ・チ・チュ・チェ・チョ - 現行正書法では〈CA, CI, CU, CE, CO〉。
他にもフが〈FU〉、方言音及び借用語表記用で《G, D, B》など有声音子音字が使用されます。
アイヌ語キリル文字
樺太アイヌ語ではキリル文字表記が存在し、ロシア語版ウィキペディアの【Айнский язык】の項目で示されています。字母名はローマ字も共通です。
日本語キリル文字表記とほぼ共通で、ヤ行音は軟母音字で示されます。
【А・а《A・a》】ア/a/ - アーは〈АА/AA〉(※㊧はキリル文字/㊨はラテン文字)。
【В・в《W・w》】ワ/wa/ - 二重母音の《ゥ》[-w]の場合、アウは〈АВ/AW〉, イウは〈ИВ/IW〉, オウは〈ОВ/OW〉, エウは〈ЭВ/EW〉となる。
【Е・е《YE・Ye・ye》】イェ/ye/ - イェーは〈ЕЭ/YEE〉。
【Ё・ё《YO・Yo・yo》】ヨ/yo/ - ヨーは〈ЁО/YOO〉。
【И・и《I・i》】イ/i/ - イーは〈ИИ・ИЙ/II〉。
【Й・й《Y・y》】ワイ/way/ - 英字母名からの推測。二重母音の《ィ》[-j]を示し、アイは〈АЙ/AY〉, オイは〈ОЙ/OY〉, ウイは〈УЙ/UY〉, エイは〈ЭЙ/EY〉となる。チュバシ語版ウィキペディアでの【Хокайдо Айну чĕлхи】の項に見られる用例では北海道のアイヌ語諸方言のキリル文字表記でヤ行音を表す。
【К・к《K・k》】ケ/ke/
【М・м《M・m》】マ/ma/
【Н・н《N・n》】ナ/na/
【О・о《O・o》】オ/o/ - オーは〈ОО/OO〉。
【П・п《P・p》】ピ/pi/
【Р・р《R・r》】ラ/ra/
【С・с《S・s》】サ/sa/
【СЬ・Сь・сь《SH・Sh・sh》】シャ/sa/ - 見出しの連字はアイヌ語仮名S《ㇱ》の子音のみの表記に当たる。借用語の母音表記は軟音符を除去した後に軟母音字を用いる。シャは〈СЯ/SHA〉, ショは〈СЁ/SHO〉, シュは〈СЮ/SHU〉, エㇱは〈ЭСЬ/ES〉となる。
【Т・т《T・t》】タ/ta/ - 促音の《ッ》は現行アイヌ語仮名文字では子音のみの《Т》[t ㇳ]と同じ表記となるが、アイヌ語キリル文字ではラテン文字同様、重子音表記で示される。
【У・у《U・u》】ウ/u/ - ウーは〈УУ/UU〉。
【Х・х《H・h》】ハ/ha/ - 樺太アイヌ語ではハ・フ・ヘ・ホの場合は[x]音, ヒの場合は[ç]音で、北海道のアイヌ語諸方言では[h]音となる。アㇵは〈АХ/AH〉[ax], エㇸは〈ЭХ/EH〉[ex], イㇶは〈ИХ/IH〉[iç], オㇹは〈ОХ/OH〉[ox], ウㇷは〈УХ/UH〉[ux]となる。
【Ц・ц《C・c》】チ/ci/ - 樺太アイヌ・キリル文字では《Э》を除き、軟母音字との組み合わせで音節を示す。チャは〈ЦЯ/CA〉, チェは〈ЦЭ/CE〉, チは〈ЦИ/CI〉, チョは〈ЦЁ/CO〉, チュは〈ЦЮ/CU〉となる。
【Ъ・ъ《ʼ》】硬音符 - ラテン文字表記ではアポストロフィ《ʼ》に該当。
【Ь・ь《―》】軟音符 - サ行音《С》の語末で子音字のみの発音《ㇱ》[-s]を示すために用いる。
【Э・э《E・e》】エ/e/ - エーは〈ЭЭ/EE〉。
【Ю・ю《YU・Yu・yu》】ユ/yu/ - ユーは〈ЮУ/YUU〉。
【Я・я《YA・Ya・ya》】ヤ/ya/ - ヤーは〈ЯА/YAA〉。
方言音及び借用語表記用ラテン字母
外来語表記や方言音表記に用いられる字母です。
字母名はロシア字母名からの推測です。
【Б・б《B・b》】ペ/pe/
【Г・г《G・g》】ケ/ke/
【Д・д《D・d》】テ/te/
【ДЖ・Дж・дж《J・j》】チェ/ce/ - 北海道のアイヌ語の一部方言と異なりラテン字母は《Z》ではなく《J》となっている。