ヤーガン語とフォノタイピー
2月21日は国際母語デーです。
2022年2月16日にチリのティエラ・デル・フエゴ島の言語であるヤーガン語最後の話者クリスティナ・カルデロンさんがお亡くなりになったことで、国際母語デーの5日前に地球上からヤーガン語が消滅してしまったことがつらいものを感じさせます。
ヤーガン語では〈mamihlapinatapai〉[ma.mi.ɬa.pi.na.ta.pai マミラピナタパイ]という“両者が何かの行動をしたいことを言葉に出せない想いのある関係であること”を意味する単語があり、日本語で〈マミラピンアタパイ〉, 韓国語で〈마밀라피나타파이〉, ギリシャ語で〈Μαμιχλαπιναταπάι〉, ロシア語で〈мамихлапинатапай〉, ジョージア語で〈მამიხლაპინატანა〉, アラビア語で〈مملبينتابي〉と借用され、日本語では各言語と異なり“na”がナ[na]ではなく〈ンア〉[ɴ.a]と音節が区切られています。
ヤーガン語の初期ラテン文字表記“フォノタイピー”について
ヤーガン語は19世紀後半に英語の人工文字として生まれた拡張ラテン文字フォノタイピーで表記されたこともあり、全文フォノタイピーによる聖書が出版されたこともありました。
アイザック・ピットマン式フォノタイピーから派生したアレクサンダー・エリス式フォノタイピーを改造したトマス・ブリッジス式フォノタイピーは本来のフォノタイピーに存在しない字母が数種類追加されています。
フォノタイピーは表音活字とも呼ばれ、国際音声記号のルーツのひとつであります。
ヤーガン語フォノタイピー一覧
うみほたるさん作のNishiki-tekiフォントでは、ヤーガン語表記用フォノタイピーが全てそろっていて、恐らく世界初のヤーガン語フォノタイピー対応フォントとなりました。その後、Catrinityフォントがにしき的フォントの拡張ラテン文字の私用領域配置と互換性を合わせたことで、現段階で点無しUIを除いてほぼ完全収録となりました。
Alexander Langeさん作のCatrinityフォントでは、オープンE《ɛ》とダイアクリティカルマークの合成も忠実になっています。
ユニコードに登録されていない字母は、にしき的フォントのコードポイントで示しています。
フォノタイピーに対応するチリのヤーガン語ラテン文字正書法を示し、字母が一致している場合はを字母名のみを示しています。
Googleブックスのアーカイブにある1894年の『Journal of the Royal Anthropological Institute』に記載されているヤーガン語フォノタイピー字母表の字形は、にしき的フォントの字形と異なり、ハーフストローク付き字母がレフトリング付き字母となっています。
A / ALPHA小文字【A・ɑ】[a ア/æ アェ] - チリの正書法ではア《A・a》[a ア]とアエ《Æ・æ》[æ アェ]。
トップバー付きA / ユーターンテール付きALPHA小文字【U+F13A・U+EA25】[ˈa アー/ˈæ アェー] - チリの正書法ではアー《Á・á》[ˈa アー]とアエー《Ǽ・ǽ》[ˈæ アェー]。
ラウンドトップA / ラテン小文字A【U+EA23・a】[ˈe エー] - チリの正書法ではエー《É・é》。
OW【U+EA32・U+EA33】[aw アウ] - チリの正書法では〈AU〉。
B【B・b】[p プ] - 外来語表記用。
C【C・c】[k ク] - チリの正書法ではカ《K・k》。ピットマン文字と同じくカ行は常に《C》で表記。
ウクライナ語IE / パレータルフック付きC小文字【Є・ꞔ】[ʧ~ʨ チ] - チリの正書法ではチェ〈CH・Ch・ch〉。大文字はキリル文字の同型字母で代用。
D【D・d】[t ト] - 外来語表記用。
トップバー付きD / フォノタイピックDH小文字【Ƌ・U+EA27】[s ス/t ト] - 外来語表記用。恐らく英語[ð]音由来は[s]音で、スペイン語[ð]由来は[t]音と思われる。
E【E・e】[e エ] - チリの正書法ではエ。
オープンE【Ɛ・ɛ】[ˈi イー] - チリの正書法ではイー《Í・í》。
ヤーガン語SCHWA【U+EA3D・U+EA3E】[ə ア~ウ/ɘ エ] - チリの正書法ではウ・ペイピ《Ö・ö》で示されるが、英語版ウィキペディアの方式では《Ǎ・ǎ》, チリのヤフーグループによる翻字方式では《V・v》で示される。
F【F・f】[f フ] - チリの正書法ではエフ。
G【G・g】[k ク] - 外来語表記用。
I【I・i】[i イ] - チリの正書法ではイ。
セリフドクロスバー付きI / スパイラルテール付きI小文字【U+EE41・U+EA29】[aj アイ] - チリの正書法では〈AI〉。
J【J・j】[j ィ/ʧ チ] - 外来語表記用。チリの正書法ではヨット《J・j》がヤ行音を示す。
K【K・k】[x ハ/ç ヒ] - チリの正書法ではハ《X・x》。
L【L・l】[l ル] - チリの正書法ではエル。
ハーフストローク付きL【U+F077・U+F078】[ɬ スまたはル] - チリの正書法では〈HL〉。コムストック文字由来。
M【M・m】[m ム] - チリの正書法ではエム。
N【N・n】[n ヌ・ン] - チリの正書法ではエン。
ハーフストローク付きN【U+F07D・U+F07E】[n̥ フヌ] - チリの正書法では〈HN〉。コムストック文字由来で、コムストック文字ではハーフストローク付きMが存在し、チリの正書法の〈HM〉[m̥ フム]に対応するが、ヤーガン語フォノタイピーには私用されない。
ENG【Ŋ・ŋ】[ŋ ング] - チリの正書法では〈NG, NK〉の《N》に当たる。ユニコードでは大文字が著しく異なるが統合されている。
O【O・o】[o オ] - チリの正書法ではオ。
バー付きO【Ɵ・ɵ】[ˈo オー] - チリの正書法ではオー《Ó・ó》。
カール付きO【U+EA2C・U+EA2D】[oj オイ] - チリの正書法では〈OI〉。ラテン大文字《Q》を上下逆にしたような字形。
クローズドOMEGA【U+EA2E・ɷ】[ow オウ] - チリの正書法では〈OU〉。
OW【U+EA32・U+EA33】[aw アウ] - チリの正書法では〈AU〉。ユニコードでラムズホーン《ɤ》と統合されたベビーガンマのルーツ。
P【P・p】[p プ] - チリの正書法ではペ。
R【R・r】[ɾ~r ル/ɹ~ɻ ル] - チリの正書法ではアール《R・r》[ɾ~r ル]あるいはエール〈RH・Rh・rh〉[ɹ~ɻ ル]で、前者はふるえ音の場合、スペイン語のように連字〈RR〉で示す場合がある。
ハーフストローク付きR【Ɍ・U+F081】[ɹʃ ルシュ] - 英語版ウィキペディアに記載されている方式では《Ř・ř》。コムストック文字由来。大文字はストローク付きR《Ɍ・ɍ》と統合されている。
S【S・s】[s ス] - チリの正書法ではエス。
ESH【Ʃ・ʃ 】[ʃ~ɕ シ] - チリの正書法ではシャ《Š・š》[ʃ~ɕ シ]だが、英語と同じく〈SH〉で表記される場合がある。
T【T・t】[t ト] - チリの正書法ではテ。
ターンドL / ヤーガン語TH小文字【Ꞁ・U+EA3F】[s ス] - 外来語表記用。中南米スペイン語のように[θ]が[s]に発音が変化。
U【U・u】[ˈju ユー] - チリの正書法では〈JÚ〉。
ボトムノッチ付きU大文字 / ノッチ付きU小文字【U+EA38・U+E97A】[u ウ] - チリの正書法ではウ《U・u》。小文字はUI《ꭐ》から点を取り除いた形状。
キューテール付きU / ユーターンテール付きU小文字【U+EE44・U+EA37】[u ウ] - チリの正書法ではウー《Ú・ú》。大文字はUに《Q》のテールを加えた形状。
V【V・v】[f フ/w ゥ/p プ] - 外来語表記用。恐らく英語由来は[f]音で、スペイン語由来は[p]音と思われる。
Z【Z・z】[s ス] - 外来語表記用。
オキナ【ʻ】[ʔ 無音] - 文節の区切り記号。『The Acts of the Apostles』では "Ɛjiptʻnda" /íchipt'nta/ という表記が見られる。
アポストロフ【ʼ】[無音] - 省略記号。
ヤーガン語フォノタイピーでは、疑問符はスペイン語と同じく《¿…?》のように囲む形式となっていますが、感嘆符は英語と同じく《!》のみを用います。
介子音記号となるダイアクリティカルマーク
ヤーガン語フォノタイピーでは、ギリシャ文字のダシア《῾》[h ホ]を私用した《ἁ, ἑ, ὁ》のようにダイアクリティカルマークを付加して子音を示す方式で、ラテン文字使用言語では異例の表記となっています。
大文字の場合、本来のラテン文字に存在する字母の場合は《Á, É, Í, Ó, Ú》のように合成されますが、拡張ラテン文字は資料によってはギリシャ文字の《Ά, Έ, Ί, Ό; Ὰ, Ὲ, Ὶ, Ὸ》のような左上付き記号が使用されます。
拡張ラテン文字と合成可能ダイアクリティカルマークとの合成は、ブラウザやフォントによっては合成がうまく行かない場合があります。
アキュートアクセント【ˊ】[h ホ] - チリの正書法のハ《H・h》に対応。
〔ハ《Á・ɑ́》[ha~hæ], ヘ《É・é》[he], ヘー《á》[ˈhe], ヒ《Í・í》[hi], ヒー《ˊƐ・έ》[ˈhi], ホ《Ó・ó》[ho], ホー《ˊƟ・ɵ́》[ˈho], ヒュー《Ú・ú》[ˈhju~ˈçu]〕グレーブアクセント【ˋ】[j ィ] - チリの正書法のヨット《J・j》に対応。
〔ヤ《À・ɑ̀》[ja~jæ], イェ《È・è》[je], イェー《à》[ˈje], イィ《Ì・ì》[ji], イィー《ˋƐ・ὲ》[ˈji], ヨ《Ò・ò》[jo], ヨー《ˋƟ・ɵ̀》[ˈjo], ユー《Ù・ù》[ˈju]〕マクロン【ˉ】[w ゥ] - チリの正書法のワーウ《W・w》に対応。Uの派生の拡張ラテン大文字ではストローク付き字母が見られるが、にしき的フォントには使用されていない。
〔ワ《Ā・ɑ̄》[wa~wæ], ウェ《Ē・ē》[we], ウェー《ā》[ˈwe], ウィ《Ī・ī》[wi], ウィー《ˉƐ・ɛ̄》[ˈwi], ウォ《Ō・ō》[jo], ウォー《ˉƟ・ɵ̄》[ˈjo], ウィユー《Ū・ū》[ˈwju]〕サーカムフレックス【ˆ】[ç ヒ] - チリの正書法では〈HJ〉。
〔ヒャ《Â・ɑ̂》[ça~çæ], ヒェ《Ê・ê》[çe], ヒェー《â》[ˈçe], ヒ《Î・î》[çi], ヒー《ˆƐ・ɛ̂》[ˈçi], ヒョ《Ô・ô》[ço], ヒョー《ˆƟ・ɵ̂》[ˈço], ヒュー《Û・û》[ˈçu]〕アキュートとマクロン【ˊˉ】[ʍ ホヮ] - チリの正書法では〈HW〉。
〔ホワ《ˊĀ》[ʍa~ʍæ], ホエ《ˊĒ・ē》[ʍe], ホイ《ˊĪ》[ʍi], ホイー《ˊˉƐ》[ˈʍi]〕グレーブとマクロン【ˋˉ】[jw ユワ] - チリの正書法では〈JW〉。
〔ユワ《ˋĀ》[jwa~jwæ], ユエ《ˋĒ》[jwe], ユイ《ˋĪ》[jwi], ユイー《ˋˉƐ》[ˈjwi]〕
19世紀の英語からの借用語
全文フォノタイピーで表記されたヤーガン語聖書『The Acts of the Apostles』などに見られるものの一部です。
左はフォノタイピー、右はチリの正書法で、ユニコードに存在しない字母はゲタ記号《〓》で示しています。
【Єɑpt〓 / Chæptö】[チャプタ] - Chapter : 章。
【Évn / Hefn, Hewn, Hepn】[ヘフン/ヘウン/ヘプン] - Heaven : 天国。
【Ɛjipt / Íchipt】[イーチプト] - Egypt : エジプト。
【Gɵd / Kót】[コート] - God : 神。
【Lɵrd / Lórt】[ロールト] - Load : 主。
【Mesɑpɑtamiɑ / Mesapatémia】[メサパテーミア] - Mesopotamia : メソポタミア。
【Rɷm / Roum】[ロウム] - Rome : ローマ。
【Solɑmɑn / Solaman】[ソラマン] - Solomon : ソロモン。
参考
【The Acts of the Apostles: translated into the Yahgan language - Google ブックス】
https://books.google.co.jp/books?id=c-09AAAAYAAJ&newbks=0
【Yahgan language - Wikipedia】
https://en.wikipedia.org/wiki/Yahgan_language