願いのまま進め
本日のお話をさせていただきます。
合掌、なんまんだぶ、礼拝。
🙏🙏🙏
今回の「なもフレーズ」はこちらです。
「願い」っていう言葉、いろいろと考えさせられます。
親が子供に「願い」をかける。
先生が生徒に「願い」をかける。
私が神様に「願い」を伝える。
あなたが仏さまに「願い」を祈る。
基本的には「お願いだから〇〇しておくれ」の形ですね。
浄土真宗という仏教は、「願い」とくれば一つです。
仏さまが私に「願い」をかけてくださっている。
要するに仏さまの方から「お願いだから〇〇しておくれ」の形なのです。
凄く特徴的なのですね。
一般的(?)には、
「どうか仏さま、亡くなった〇〇がお浄土へ往生できますように、お願いいたします」
なのでしょう。
でも親鸞聖人の示された浄土真宗は違うのですね。
私 → 仏さま の「願い」ではなく
仏さま → 私 への「願い」なのです。
親鸞聖人の人間観は、非常に厳しいものです。
「日々煩悩に振り回されるような私に、自らの力を頼みとしてさとりをひらくことなんてできるのか??」
大きな絶望であったろうと思います。
同時に、
「ただそんな人間であるからこそ、仏さまは決して見捨てはしないはずだ」
絶望の果てに見出された、大きな歓びであったろうと思います。
つまり仏さまは、
「悩み苦しむ私を見捨てることなく、どんな困難な人生であろうともお念仏によって必ず救われていくという、阿弥陀如来の誓いの道を歩んでおくれ」
と私に対して「願い」をかけ続けてくださっている、と受け止めていくのです。
よく子どもは親の「願い」通りには育たない、と聞きます。
実感します(笑)
こんな偉そうなことを言う私も、親の「願い」通りからは程遠い生き方をしてきたのかなと思います。
同時に。
子どもが親の「願い」に生きるという事は、究極的には親が子どもを心配する表れではないかと。あくまで親のエゴのない「願い」に限りますが。
そのような視点で、仏さまの「願い」を受け取ってみたらいいと思います。
生きることに悩み苦しむ私がいる。
そんな私をどこまでも心配して「願い」をかけてくださっている。
その「願い」を受け止めることをせずに、相変わらずな人生を送っている。
そんな私にも見捨てることなく、仏さまは「願い」をかけてくださっている。
浄土真宗という仏教は、仏さまの「願い」を聞かせていただく、ということに尽きます。
「願い」を聞く、ということはその「願い」の通りに成っていく、ということですね。
仏さまの「願い」のままに生きる、それが念仏者の歩み方でなないでしょうか。まさに今回の「なもフレーズ」の通りです。
私の心を目いっぱい広げ、仏さまの願いの風を受け、困難苦難の波で荒れ狂う人生の海を、力強く進んでいく。そんなイメージです。
なにより、いつでもどんなときでも、私の生き方を心配してくださっている方がおられる。
そんな生き方ができるのは、有難いことだな…とふと思うのです。
本日もお参りいただき、有難うございます。
合掌、なんまんだぶ、礼拝。
🙏🙏🙏
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