Ten years from now
健康診断が終わり、業務に復帰した。
半休のようであり、実情は病院で血を抜かれ、歳相応に主張する贅肉を測られ、味のないヨーグルトみたいなバリウムを飲まされ、グルグル回れだの止まれだの息を止めろだの言われ、挙句お釣りみたいに腹痛をもらって帰るという、地味な嫌がらせみたいな時間を過ごしたため、1日働くより疲れてしまった。
業務量は減っていないので、ハンデありで時間制限が厳しくなった、言わばハードモードな1日だった。
「10年後の自分をみられたらな」
最高のパンクロッカーは歌った。
2000年、Hi-STANDARDは止まった。
活動期間は9年程度。
Ken Yokoyamaは2004年にThe Cost Of My Freedomを発表。ソロ活動という名目だが、新たにバンドを組み「I go Alone」と歌った。
頭を抱えたイラストと、自由への代償という得たものと失ったものを彷彿とさせるタイトルを考えると、ハイスタ後期における彼の苦悩は推し量るに難くない。
翌年、Nothin' But Sausageを発表。
Ten Years From Nowの収録アルバムだ。
人生の終わりを想像した時、それでも自分がパンクスだという事は揺るがない、という決意表明のような曲だと捉えている。
ハイスタ活動後期、バンドではギターコーラス、バックステージではバンドの運営を一手に引き受けていた。多忙による抑うつ状態のためライブ活動を止めた。
リハビリのつもりで始めたBBQ CHICKENSや原爆オナニーズへの参加が
罷り間違って伝わり、又聞きが不信を募らせ、Hi-STANDARDは活動休止後、空中分解した。
ネットでの相互間の間接的な批判にファンは期待する事を止め
インディーズながら口コミだけで100万枚をうりあげ、千葉マリンスタジアムで伝説のフェスを開催した三人組は、本当に伝説上の存在となった。
彼は地道に、しかし活発に活動を続け、インディーズ界の最重要人物となり、彼が代表を務めるレーベルは老舗の名門と呼ばれるようになった。
そして2011年
日本のパンクスを大震災の絶望から救うため
Hi-STANDARDは奇跡の復活を果たした。
確執を経て、難波、横山、ツネがナンちゃん、健くん、ツネちゃんになった。
横浜スタジアムのAIR JAM2011こそ演奏する意味に悩み、後にネガティブな感想を語っていたが、翌年、東北で開催されたAIR JAM2012では、真の復活を感じるパフォーマンスだった。
その後、それぞれのソロワークがメインとなり、彼が「ハイスタは故郷」というように、Ken Yokoyamaとして、日々戦いを続けている。
昨年。Hi-STANDARDは恒岡章を失った。
しかしあの頃とは違い、ハイスタを畳むことはなく、継続の道を模索している。
彼がTen years from nowを歌った時、こんな未来を想像していただろうか。
ハイスタが止まり、共に栄光を味わったメンバー間の確執が根深くなり、完全なる敵対をネットで知った時
二枚舌のサポートメンバーとの最後の武道館
良いパートナーとなったメンバーの卒業
新しいメンバー達との時間
日本のパンクス達のための復活
電撃的和解
そしてメンバーの死
彼の人生は波瀾に満ちている。
一般的な人生ではないのだから、当たり前とも言えるが、それを差し引いてもオリジナルな道程だ。
しかし、困難を含んだ特別な道を歩いた彼は今も日本一のパンクスの1人として、精力的に活動を続けている。
様々な事が起こるたび、価値観は変わっただろう。
昔の彼からは「unite」なんて言葉は絶対に出てこなかった。
なにせ「I go Alone」だ。
ファンも、横山健のホワイトファルコンやテレキャスターなんて想像できなかったはずだ。
しかし、どれだけ葉っぱが落ち、新しい葉がつこうとも根っこが変わらないように、54歳になり、ベビーフェイスが歳相応に垂れ、一回り肉がつき、ジャンプの打点も低くなったが最高のパンクスだ。
芯を曲げず、媚びず、彼のパンクを鳴らし続けている。
1/31、彼は8枚目のフルアルバム「Indian Burn」をリリースした。
絞り出したという意味にも取れるアルバム名に活動の歴史を感じる。
3月には盟友NOFXの解散ツアーにHi-STANDARDとして出演する。
彼に憧れ、追いかけてきた。
同じように歳を取った。
最高のがなり声も、手数は多いが歌うように鳴るドラムも、これからを観ることは叶わなくなった。
これからも彼のパンクを聴いて、追いかけたい。