昼休み2
Facebookで日記を書いているのだけれど、そのせいか他人が「日記」にどんなことを書いているのか少し気にするようになった。私は日記が好きだ。永井荷風の『断腸亭日乗』や『ゴンクールの日記』、あるいは最近なら桜庭一樹の『桜庭一樹読書日記』『東京ディストピア日記』といった本を面白く読んだことを思い出す。最近読んだ阿久津隆『読書の日記』も阿久津隆というひとりの読書家が生活と読書を綴ったものとして興味深く読んだ。
私も読書家と言われることがあるのだけど、読書家にとってそう言われることは結構難しいものだ(個人的には、煙草を吸う人に「喫煙者なんですね」と話しかけるのと同じだと思っている)。阿久津隆は紛れもない読書の達人ぶりを見せ、トマス・ピンチョン『重力の虹』や梯久美子『狂うひと』を読みこなす。だが、その知性は同時に自らの読書の作法をも思考の対象に取り込む。
保坂和志を尊敬する阿久津は、時に保坂の言葉/哲学を引用する。曰く、本は必ずしも読み通すべきものではない。読者にも本を投げ出すことは許されており、むしろルーティーンと化した読者は有害であると語っている。この見解をどう受け取るかは人それぞれ。だが、ならばこの『読書の日記』も中断したくなる本かと言えば、そう侮れないとも思う。一貫したテンポで丁寧に綴られる書き方に、読む手が止まらない。
600ページを越える本だが、保坂・阿久津に倣って「まあ、読み通す必要もないか」と構えて読むことももちろんできる。むしろ今のように日記が(再び?)個人ブログとして華開き、データベースの中に個人の人生の蓄積を記録できるようになった今、本も生真面目な「最初から最後まで読み通す」読み方から解放されてもいいのではないか……と書くのは悪ノリがすぎるだろうか。だが、この本の楽しみ方として「ザッピング」で「デタラメ」に読むことはそう間違っていないと思う。