2022/06/06
島田裕巳『オウム』を読み進め、オウム真理教事件について考えた。オウム真理教の「尊師」である麻原彰晃という男とは一体何者だったのか……この本の中で描かれる麻原彰晃という人物は、実に多面的な顔を持っていたようだ。ある時は確かに「尊師」と呼ばれるに相応しい、時に頼もしいとも横暴とも言えるリーダーシップを発揮した人物。ある時は気の弱い人の良い人物。麻原彰晃はもしかすると常に「演技」をしていたのではなかっただろうか。相手によって自分のペルソナを変え、そんな風にして他人を騙せる(そして自分自身も騙した?)人物、というように。
確かに麻原彰晃という人物は、一皮剥けばただの俗物であり野心家にすぎなかったのかもしれない。俗世の物質的な欲望を超越したと嘯いてはいたが実は俗欲に塗れた人でしかなかった、と。麻原はその意味ではミステリアスな人物ではなかった……ニーチェの「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。 長い間、深淵を覗きこんでいると、深淵もまた、君を覗きこむ」という言葉を思い出す。麻原がある種の魔性の持ち主だったことを踏まえて(だからこそあんなハリボテのような教義に人は惹かれたのだ)、気をつけなくてはならない。
オウムの教義を文字通りに受け取れば、人は「相手のことを思えばこそ」人を殺すこともためらわなくなる、という事実に戦慄を覚える。それは「相手のことを思えばこそ」優生思想や選民思想を支持する態度にも通じるのではないか。こうした思想を信じる心理はマインド・コントロールから生まれるものなのだろうか。私は人を殺すことはできない。それはなぜなのかわからない。わからないが、人の首に手をかけた時相手の身体が脈打っているのを感じ、身体が温もりを帯びているのを感じたら殺すのをためらうだろう。それは本能の問題である。ならば、オウムはその本能を書き換えるほど強力な洗脳を施したということになる。
私もまた、ひとつタイミングが狂えばオウム真理教に入っていてもおかしくなかったかな、と思うことがある。私の場合は極左のグループに入って人生を棒に振る寸前で戻ってこれたのだけれど、その他にも小林よしのり『ゴーマニズム宣言』にハマったり橋本治や宮台真司にイカれたりと、カリスマ的な存在に自分のすべてを委ねた日々がある。だが、誰のどのような思想に自分のすべてを委ねてもどこかで違和感を感じてしまう。まあ、それが人生なのだろう。私は私の道を進むまでだ。今日も私は小沢健二を聴き、私なりに様々なことを考える。