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ジョハナ・デメトラカス『フェミニストからのメッセージ』
ジョハナ・デメトラカス『フェミニストからのメッセージ』を観る。登場する女性たちの顔つきが気になった。みんな「いい顔」なのだ。あるいは「凛々しい」とも言える。「美人」というわけではない。少なくとも「美人」というカテゴライズを仮に男社会が作り出した「男に都合のいい女」という意味と定義するなら、そんな定義をあっさりひっくり返す「凛々しい」「いい顔」の女性たちが揃っている。闘士の顔であり、野性的な知性をも感じさせる。浅田彰的な「顔つきで人を評価する」姿勢はあまり好きではないのだけれど、ここに登場する「フェミニスト(原題を素朴に訳すと複数形の『フェミニストたち』になるのだが)」を舐めてはいけない、と思った。
とはいえ、この映画はそんなに前のめりになって観られたわけではない。フェミニズムの歴史を知らない私にとってこの映画はややハードルが高いというか、ある程度歴史を概観できるほどの知識を備えていなければよくわからない不親切さを感じられたのが遠因だ。もっとフェミニズムの闘争の歴史のダイジェストとしてまとまっていればよかったな、と思いそれが興醒めではある。しかし、それを踏まえてもなおこの映画から学ぶべきことはあるように感じられた。別の言い方をすれば、この映画の問いは決して過去のものになったわけではない、ということだ。今も彼女たちは戦い続けている。
男女雇用機会均等法が誕生し、同一賃金で働ける環境づくりへの意識がさかんに高まってきている昨今、流石に「女性の幸せは専業主婦」なんて意見を持つ人物は減ったことだろう。裏返せば今からたった数十年前の常識というのはそうした、今の目からすれば反動的ですらある意見を許していたということであり、「隔世の感」を感じさせる。その「常識」の変容は彼女たちの地道な戦いによって勝ち取られてきたものだ。まずはその彼女たちの粘り強い、しなやかな闘志を学ぶべきだろう。私自身発達障害者なので、その側面から自分の幸せをどう掴むかについて学ばされもしたのだった。
この映画ではフェミニスト御用達の論客の理論といった高尚なロジック/セオリーは語られない。もちろんそうした論客もフェミニズムに貢献したことは明らかだろうが、それと同じくらい登場する女性たちは周りに居た男たち(例えば父親や兄弟などだ)から得た日常生活での影響を公言している。生活の中に、ミクロな次元で存在する女性差別。それを身を以て生き、そこから状況を変えようと闘争を始めた。そのミクロな闘争がやがてマクロな次元での働ける環境づくりや文化的な運動といった動きに結実する。ミクロからマクロへ。その動きのうねりの作られ方がなかなか興味深い。
私としてはこの映画を観ていて、ユーモアのあり方が気になった。彼女たちはただ青筋立てて男たちを糾弾するだけではなく、軽やかに男たちを翻弄する。映画の中で男たちをコケにし、あるいは女性器を象ったアートを作り、ストリートで男たちに向けたメッセージを提示し闊歩する。いずれもユーモラスではある。誰でも言える整理になるが、リベラルとされる勢力が昨今負けを喫している原因がユーモアの欠如であろう。その意味で、こうした過去の女性たちの軽やかなユーモアから学ぶべき点はあるのではないかと思った。この映画はその意味で良いソースになると思う。
また、この映画ではフェミニストたちの「中」で起こった亀裂にも言及されている。フェミニストを名乗る有色人種たちのジレンマだ。有色人種であるが故に、女性全体の開放と権利を目指すフェミニストの中でも一段低く見られざるを得ない状況に対して果敢にNOを叩きつけ、運動を繰り返してきた人々が居たのである。これは下手をするとフェミニストの過去の恥部でもあるかもしれないが、それを歴史の中に組み込んで検討する姿勢を見せているところも映画の制作陣の真摯さ/生真面目さを伺わせる。なかなか舐めてはいけない、面白い(が、敢えて言えば不親切さも存在する)ドキュメンタリーであると思った。