2024/05/10 BGM: Manic Street Preachers - 1985
今日は遅番だった。今朝、図書館に行きそこでチャールズ・ブコウスキーの自伝『くそったれ! 少年時代』を借りる。ボブ・ディランを聴きつつ、読むともなくイオンでそれを読みふけってしまう。そして、ぼく自身の少年時代や10代のことも振り返ってしまい、感慨にしばし浸ってしまった(この日記で最近しつこく書いているようなことを反芻したりもした)。たぶんぼくは「ティーンエイジ・イノセンス(無垢な10代の魂)」という考え方を誤解していたのだろうと思う。たとえばサリンジャーが『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で描いたような、あるいは初期の中上健次の荒々しさとみずみずしさが入り混じった短編が示すような、10代の子たちはとても無垢で愛おしいという考え方。でも、そんなことはありえないといまなら思う。
そもそも、ぼくのようなすでにくたびれてしまった大人はどう「10代」を捉えて、書き表したらいいのか。ぼくが10代の頃、すでにその「10代」をめぐって強固で「頑固」ですらある語りが蔓延していたような印象を受ける。上にも書いたような「10代は無垢だ(その裏返しとして『大人は汚い』)」といった感じの話だ。まだその『くそったれ! 少年時代』の頭の方しか読めていないが、ブコウスキーはこの本の中で10代の少年少女は世界の醜い芯の部分をその純粋で鋭利な感覚で捉え、見極めているとつづっているように感じる。そして、彼ら自身も性欲・肉欲などの次元の問題と向き合うことで彼らの醜さと愚直に対峙する。ブコウスキーの書きぶりは荒々しいが、その根底にあるのは実に繊細な感受性だと感じる。微細な響きに鋭敏だからこそ、現れるものが粗暴なものとなってこちらを驚かせる。たとえるならスティーブ・アルビニが作る音のような……と書くと悪ノリがすぎようか(彼が生み出した『イン・ユーテロ』のことを思い出す。合掌)。
ぼく自身の10代を振り返ると、基本的にはまだインターネットは市民社会の中でいまのようなインフラとして普及したものではなかった。だから、まだまだマジョリティ(多数派)による強い単一の声が世界を彩っていた……いつものクセで難しくなってしまったが、要はテレビやラジオなどのマスメディアがまだまだ絶対的とさえ言える力を持ち、そうしたマスメディア抜きでは共通の話題が成り立たなかった時代があったということだ。その当時からぼくはすでにマニアックでバリバリの少数派だったので、他人と会話が成り立たず苦しむしかなかった。リトル・クリーチャーズやフリッパーズ・ギターの話ができる友だちなんてどこにもいなかったのだ。
WhatsAppを通じて、ある友だちがポール・オースターのことで記事のリンクをシェアしてくれた。彼が言うには彼もまたぼくと同じくこの訃報を悲しむが、悲しみに暮れすぎないように自己防衛というか自分を守るべく冷静にふるまうよう努めているとのことだった。ぼくはその気持ちがわかるように思う。そして、これはぼくがこれまでも日記で書いてきた世界と自分との間に引く「バウンダリー」の問題のようにも思った。でも、その「バウンダリー」が「シェルター」になってしまいインタラクティブな関係が阻害されてはいけないとも思った……ごめんなさい。横文字が並んだが要は線を引くのと壁を築くのとでは違いがあるということだ。風通し良く関係を保ち、でも一線を引いてけじめをつけるにはどうしたらいいか。
他の友だちが、ぼくにはガイダンスが必要だったのだと言ってくれた。ああ、そうしたコネクションの力の大事さを思う。モリッシーだってマーがいてこそ。デーモン・アルバーンとグレアム・コクソン、ジョン・レノンとポール・マッカートニー、デヴィッド・ボウイとイギー・ポップ……そんなつながりの力の偉大さをしばし感じる。皆さんがこの日記を読んで下さっていることもそうした力となって、ぼくに伝わっている。
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