元日本テレビのディレクターによる『アメリカ横断ウルトラクイズ』の回顧録、電子書籍化第2弾!
『アメリカ横断ウルトラクイズ』世代の40代からクイズゲーム世代の10代まで、全てのクイズファンに贈るクイズ総合誌「QUIZ JAPAN」です。
『アメリカ横断ウルトラクイズ』の回顧録
『MAKERS ウルトラクイズの匠たち』
QUIZ JAPAN本誌vol.14〜16に掲載した、元日本テレビのディレクター・加藤就一氏による、日本のテレビ史上に金字塔を打ち立てた伝説のクイズ番組『アメリカ横断ウルトラクイズ』の回顧録『MAKERS ウルトラクイズの匠たち』を、電子書籍版としてお届けします。
『アメリカ横断ウルトラクイズ』の舞台裏で番組を支え、のちに総合演出を務めた加藤就一氏が、がむしゃらに走り回った青春の日々をつづっています。
第1回「匠たちとの出会い」は加藤氏が初めて配属された『第5回アメリカ横断ウルトラクイズ』の立ち上げから国内第一次予選までを振り返ります。伝説の「通せんぼクイズ」の誕生秘話は必読!
この度お届けする第2回「初めての『ウルトラ』ツアー」は新人ADとして『第5回ウルトラクイズ』に配属された加藤が、後楽園の○×予選を無事に終え、いよいよ海外ロケへ! 名物「どろんこクイズ」や、語り継がれる罰ゲームの舞台裏など、名作として名高い『第5回ウルトラクイズ』の最終週までを駆け抜ける。
なお、本回顧録はQUIZ JAPAN本誌で掲載した第1回から第3回に加え、電子書籍版として新たに描き下ろす第4回以降も順次配信予定です。
・第1回 匠たちとの出会い
・第2回 「初めての『ウルトラ』ツアー」
・第3回 近日公開予定
・第4回〜 公開時期調整中
Kindle版も発売中です
なお、本書はKindle版も発売中です。ご使用環境の都合に合わせて、ご購入いただくプラットフォームをご選択ください。
第1回
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第2回
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『MAKERS ウルトラクイズの巨匠たち』
第2回「初めての『ウルトラ』ツアー」
note版『MAKERS ウルトラクイズの匠たち』第2回「初めての『ウルトラ』ツアー」は有料のPDFファイルからご覧いただけます。冒頭の内容を公開しますので、続きが気になる方は是非PDFファイルをご購入ください!
成田予選の本番前夜
後楽園予選を勝ち抜き、海外行きの勝負に臨む権利を得た100人は、家が北海道だろうが九州だろうが一旦家に帰る。自腹で。1981年当時、海外旅行というものはまだ女子大生やOLさんがひょいひょい行ける時代ではなかった。そもそも『ウルトラクイズ』が大ヒットした根幹が、クイズに勝って、ジャンケンに勝って、タダで海外旅行ができるという破天荒さだった。そのために、彼らは地元に帰ってやらなければならない事が待っている。長く休まないといけないので有給をとれるよう会社を説得したり頭の固い家族の理解を得たりだ。そしてなんとか成功すると、3週間分の着替えや水着、旅行用品、そしてタダで海外旅行をする夢をスーツケースに詰めて成田まで出向く。もちろん再び自腹でだ。もしジャンケンで負けたら、そのまま持ち帰る事になるのに……。
第1回の時は、挑戦者の再集合は成田ではなくまだ羽田だった。当時のスタッフには途方もない心配事があった。後楽園で勝った100人は、本当に海外に行けるかどうかわからない怪しげな『ウルトラクイズ』という番組のために数週間分の荷物を詰め込んで、しかも自腹で羽田に来てくれるのか……。確信など全くない。いてもたってもいられず、今はなき羽田東急ホテルの屋上でハラハラどきどき、見張ったという。そして駅の方からガラガラと音が聞こえてきました。大きなスーツケースを引いて挑戦者が次々にやってきたとき、プロデューサーは「ヤッター」と叫んだんだそうだ。
当の私も『ウルトラ』のADとして初の海外ロケ、スーツケースに必要最小限のものを詰めていった。「スタッフの荷物は小さく」とプロデューサーに指示されていたからだ。はいていくジーパンの洗い替えにもう1本、パンツと靴下は古いものから日数分。ADは寝る時間はほとんどなく、洗濯する時間など有り得ないと脅かされていたからだ。挑戦者担当の石戸さん(石戸康雄)なんて、「パンツはですねえ、前向きにはいて、後ろ向きにはいて、裏返しの前向き、後ろ向きで1枚で4日間、これが当たり前!」と大真面目に力説する。まあ、眉唾だろうけど。そこで私はパンツ大作戦を立てた。それは、くたびれてそろそろ捨てようというパンツから履いて、着替えの時にホテルのゴミ箱にポイ捨てしていくというものだ。お掃除オバサンは思うだろうなあ、「日本人はなんだかくたびれたパンツはいてんのネエ」と。ま、そんな事はこの際お構いなしだ。その日々空いて広くなるスペースに、帰国時にお土産を詰めるって訳だ。挑戦者たちの出発へのカウントダウンとシンクロして私の初ロケへの残り時間も刻々と減っていった。
1981年8月29日土曜日の午後、全国から100人の挑戦者が千代田区麹町にある日本テレビへ今回も自腹で集まる。そこで点呼をとり、最終渡航説明を受けた後、夕暮れにバスで成田へ入るのだ。
一方、私たちスタッフは昼過ぎ、セクション毎に成田エアポートレストハウスに入り、翌日の本番の準備に入っていた。一番乗りは美術班。「ブルースカイの間」に大道具さんたちがセットを組む。ちょい遅れで入った映像班・音声班が隣の部屋にベースと呼ばれる可搬型のミニ中継車を作っていく。そしてセッティングが完了すると、司会の留さん(福留功男)の代役を立て翌日の段取りをさらいながら、カメラ2台のスイッチングを覗いていく。私の大仕事は、予選方法がジャンケンに決定した瞬間、間髪入れずジャンケン判定機をセンターステージに運び込むことだった。リハをしていると、
「よぉ、やってんねえ」
とよく通る声がした。ブルースカイの間の空気がサッと変わった。留さんの到着だ。お、今日もポルシェカレラのサングラス。明日のフロマネさんが要所要所を説明。
「オッケ、頭に入ってる。部屋で明日の対戦組み合わせを整理してるな」
と言い残して去った。
夕方、リハーサルがほぼ終わる頃、プロデューサーが皆に聞こえるように声を張った。
「挑戦者のバスが酒々井のパーキングエリアに入った。もうリハーサルは終わりだね? レストハウスに入れるよ!」
ベースから白井博さんが出てきて、
「OK! 挑戦者入れよう!」
と返答し、さあいよいよ臨戦態勢だ。美術班は、ホテルに入った挑戦者が夜中にうろうろしても明日がジャンケンだとは決してわからない様に、ジャンケン判定機などを鍵のかかる控室に封印。
「明日の内容の話は部屋の外で絶対するなよ」
と白井さんがキリっと張った声で念を押し、解散した。
15分もしないうちにオレンジ色のエアポート・リムジンバスが2台、レストハウスにすべりこんだ。挑戦者100人が大きなスーツケースを引きずって、どやどやと入ってくる。胸には登録番号と名前が書かれたネームプレート。みんな不安というより、明日海外に旅立つことを夢見ているのだろう、テンションがハイだった。「半分は明朝9時前には自宅に直行なのにな」と私はこっそりニヤリ。ルームキーが挑戦者たちに渡りきりロビーから人が消えるまで小一時間はかかったろうか。この間、スタッフはホテルのレストランで統一メニューの晩御飯を食べ、その後セクションごとにホテルルームで細かい打合せ、終わった順に就寝となる。
夜9時から作家チーフ・萩原津年武さんの部屋で重要な打合せが始まった。出席者は、留さん、作家陣、ディレクター陣、AD、プロデューサー陣、挑戦者担当。ジャンケンの組合せカードをめくりながら、留さんの攻め処を確認していく。例えば、勝田さんという人と、マキタ電気に勤務する人とがジャンケンするなら「こちらは勝田さん、そしてお相手には……どちらにお勤めですか? マキタ電気、マケタ電気、負けた電気、こりゃ勝負は見えたね~」と留さんが場を盛り上げるのだ。これを100人50組の対戦ごとに最終確認していく。当日麹町に集まった時に挑戦者担当が拾った新ネタも反映していく。だからいつまで経っても終わらない。でも毎年、この面倒臭いのをコツコツやってきたので、私が去年まで毎年見ておもしれ~となった訳だろうから、必要に違いない。眠いまなこをこすって必死についていった。やっとこさ最後の50組目の対戦カードに書き込みを終えた留さんが「よぉ~し終わった。寝るぞ寝るぞ!」と部屋を後にした。そっと腕時計に目をやると2時を過ぎていた。這々の体で自分の部屋に帰る。今夜はディレクターとツイン。シャワーを早送りで浴びたディレクターは「先に寝るぞ~」とそそくさベッドに潜り込んだ。私はというと、今夜もこれで終わりではない。明日のジャンケン、空港への移動、敗者復活戦、出国、機内ぺーパークイズ、ブーブーゲートまでの自分の役割・段取りを、どんな状況で見ても一瞬でわかるアンチョコを作って整理して、やっと寝る。シャワーはサイパンでだなあ……。明日の起床は5時、時計を見れば3時を回っていた。ジーパンにスタッフTシャツを着たままのベッドイン。寝坊してもそのまま飛び出せるようにと、ちっぽけな抵抗だ。ニューヨークまでこんな感じだろうと、なんとなく覚悟を決めていた。
人間ジャンケン判定機を拝命
多くの挑戦者たちにとって初めての成田予選は、私にとっても初めての体験だ。午前6時過ぎ、眠そうな挑戦者たちが大きなスーツケースを引きずって、留さんが駆け上がるだろう真四角のステージの周りを取り囲んだ。足の踏み場もない。昨年はすんなりガラポン抽選機で成田予選はジャンケンとなったのだが、今年も昨年と同じ方法でいい訳ないのが『ウルトラ』。今年はどのような方法で挑戦者たちを手玉に取り、怒号の飛び交う中ジャンケンへと雪崩れ込むか。そこがプロフェッショナルの腕の見せ所だ。
ベースでVTRが回るや、
「おっはようございま~す!」
と、留さんがさっそうとステージに駆け上がった。ドッキドキの挑戦者をちょいちょいっといじって、留さんが今年もみんなが嫌がるジャンケンをやりたいと言い出す。そこにジャンケン撤廃派の徳さん(徳光和夫)が乱入し、こう切り出した。
「留さんの横暴を許していいのか。私、徳光がジャンケン撤廃を叫び続けて丸4年、今年はついに一つの権利を獲得しました」
わ~!!っと歓声がジャンケンの聖地ブルースカイの間に上がった。今年はクイズ、ジャンケン、アミダくじ、この3つの中からアンケートで挑戦者自身が決める権利を得たのだった。でもタダでは首を縦に振りたくない留さん。ある条件をつけた。まず日本中のジャンケン賛成派から届いた中から一通の手紙を読み上げる。
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