アリス イン ヒステリア(友人だった帽子屋の手首を切り裂き、アリスは真実を)第19話
「貴方から色んな話を聞いて……向こうでの楽しかった事、思い出したの」
私から刃を向けられていると言うのに、お姉さんは薄暗い空を仰ぐ。
目をつぶりながら、口元には笑みを浮かべる。
それは何かを憂うような、懐かしむような……そんな表情。
「夏の暑い日、おばあちゃんが麦わら帽子を被せてくれた。冬の寒い日、私が編んだニット帽を一緒に被ってくれた……そんな事、思い出せたわ」
「……何の話?」
「それに、ずっと……お墓参りも行っていないわね」
――何を言っているの?
耳を疑う。
困惑する私を余所に、彼女は私を見て、にっこりと微笑んだ。
「……私のせいでおばあちゃん、お母さんからもお父さんからも、親戚の人からも疎まれちゃったから。私がお墓のお手入れしてあげないと」
そして帽子屋のお姉さんは、私に両手を差し出した。
左右の腕を綺麗に揃えたまま、一歩、一歩、私に近付いてくる。
『私の命は、この両手。帽子が作れなくなっちゃうからね』
その動きで、いつかの言葉を思い出す。
彼女とは反対に、私は少しずつ後ろへ下がる。
「私達、おばあちゃん子だもの。きっと気が合うわ」
お姉さんはまたにっこりと笑う。
その笑い方は出会った時と何も変わらない。
人が良さそうで、本当の姉のような、見ていて安心する笑顔。
消すのなら……嫌ったままで居たかった。
何も思う事が無いまま、そのままで終わりたかった。
手の震えが更に増す。
やはり消したくないと思ってしまう。
話し合えば分かり合えるのではないかと思って、反射的に足が後ろへ逃げてしまう。
「……お姉さん、私……やっぱり……」
「だめよ。このまま貴方は進んで。きっと進む時なの」
私も、貴方も――そう彼女は呟く。
「……向こうに戻ったら、また友達になりましょう」
許せない気持ちと、逃げ出したい気持ち。
よく分からない感情で頭がぐちゃぐちゃになる。
けれど、そこにもう一つ、別の気持ちが浮かんでくる。
――向こう?
「向こうって……どういう事……?」
すっと彼女から笑みが消える。
真剣な面持ちは、大事な秘密を知っているのだろう。
むしろ、知らないのは……私だけではないだろうか。
「そうね……アリスちゃん。貴方に言っておきたい事があるの」
違和感に気付いていない訳では無い。
気付かない事が、猫との関係のためには必要だと。
「私が故意で貴方に忘れ物を届けなかった事……御免なさい」
でもね――彼女は言葉を続ける。
「私は貴方に真実を伝えなかった。だけど、猫さんは貴方に嘘を伝え始めた」
――猫。
ドクリと心臓が大きく脈打つ。つばを飲むとゴクリと喉が鳴った。
気付いていたはずの違和感を確かめる術も何も無くて。
ここは私の夢の中だから。
私が一番信頼している人だから。
「きっと猫さんが、この世界の中心」
私を助けてくれた人。最初からずっと傍にいて、導いてくれた人。
何より、気付いたら……無意識のうちに大好きになっていた人。
「教えて……あの人は一体何なの。この世界は夢じゃないの?」
――どうやったら帰れるの。
帽子屋さんはまた、ゆっくり微笑んだ。
それと同時に、首を横に振った。
「……猫さんに気を付けて」
質問には答えてはくれない。
でもその顔を見ると、隠しているのではなく、彼女にも分からない部分が本当にあるようだった。
そして、また歩を進める。
私に近付いてくる。両手を差し出したまま。
「いや……いやだよ、こんなの……もう……」
「私、帽子屋さんになりたかったの。けれど、うちの家系の人間は誰も認めてくれなかった。『くだらない』って。でもおばあちゃんだけは……私の味方だった」
この歪な世界の違和感。
夢の世界のはずなのに。
どうして、こんなに悩み、想い、過去があるのか。
具体的なのか。
まるで本当に存在しているように。
「そんなおばあちゃんが死んで、私の居場所は無くなった。だから飛び下りたの。学校の屋上から。下に木があるのは確認したし、これで両親も少しは私の事を考えてくれるかもしれないって……それに、もうおばあちゃんをバカにしないはずって」
夢の中のはずなのに。
「でも打ち所が悪かったみたい。それでもここで、私は沢山帽子が作れて楽しかった。幸せだった。ここならずっと居ても良い、ずっと居たいと思ったの。誰も私とおばあちゃんを悪く言わないから、って……でもね、もう大丈夫よ。少し怖いけど……おばあちゃんをバカにする奴等、全員殴り飛ばしに行かないと」
お姉さんはこの時ばかりは、にっこりではなく、歯を見せてニッと笑う。その笑い方は学校の友達を思い出す。
気付いたら、涙で目の前が霞んでいた。
「いや……」
「泣かないで」
「いやだよ……こんなの……」
「ほら、しっかり握って。ここに大きな動脈があるから」
「いやだよ……!」
「わがまま言わないの。帰りたいんでしょ」
「帰りたいけど、こんなのっ……」
「今までだってやってきたでしょう」
「……本当はこんな事やっていいのかって、ずっと思ってた……夢の中だけど、うさぎもイモ虫も、双子も、あの小さい女王だって……皆ここに居たいって気持ちがあったのに……私の帰りたいってわがままで、消していって……」
「良いのよ。きっと貴方の言葉から、皆も何か思い出したはずだから」
「……でも」
「アリスちゃん。おばあちゃんに逢いたいんでしょう。お友達は?」
帰りたい気持ちはずっとある。
だけど、ここにいる時間が長すぎたのか、知り合ってしまった人がいけなかったのか……もう素直には頷けなくなっていた。
お姉さんは眉を下げて、困ったように笑う。
「……しょうがないなぁ」
笑顔のまま、私の手ごと包丁を握り――自身の手に、その刃先を押し当てた。
「……やだ……嫌だよ……」
「わがままはダメよ?」
右手。
それから左手、と。
それ等は彼女にとって、本当に大切なもの。
正解の証に、赤い血が飛び散った。
お姉さんが教えてくれた動脈を切ったのか、赤い噴水のように、勢いよく飛沫が舞って、私達の間を染めていく。
「ちゃんと、全部片づけて、帰るんだよ」
「お姉さん」
――溶けていく。
「また、会いたい、な」
しゅうしゅうと、音を立てて……私よりも高かった背は縮み、腰の高さにまでなり、そして地面へ溶けていく。
「…………ごめん……なさい……」
屈んでも、もう同じ目線で話せない。
座り込んで、しばらく声を上げて泣いた。
もう後には戻れない。
だけど泣き崩れる中、微かに声が聞こえてくる。
優しくて、力強くて、彼女の最後の響きはいつまでも耳に残った。
――女王を、ちゃんと見て。
はっとして、顔を上げる。
「え……」
どういう事か。何を言っているのか。
聞こうにも発した本人はもう居ない。
彼女の残骸であった赤黒い液体でさえ、もう蒸発してしまった。
「女王は……」
――倒したよ?
どうして今更そんな言葉を呟いたのだろう。
私が消した事を知らないのか。
いや待てと自問自答。
彼女は一体何に対して、防衛網を張っていたのか。
あの矢や檻の本来の相手は誰だったのか。
そんなバカなと思いながらも、嫌な予感がした。
やっとあの女がいなくなった――
ぞっとする。
今度は違う声……お姉さんと違って、幼くて、冷たい響き。
更にそれは聞き覚えがあった。
背中を冷たい氷がサーッと滑り落ちていく感覚。
そして、目の前で潰れたぬいぐるみの……いや、ぬいぐるみの外の皮だけの状態のものが、ぷるぷると揺れながら、ゆっくり立ち上がった。
これで後はあんただけ――
「……女王」
自然とその単語が漏れていた。
猫と一緒に倒したはずの、赤の女王。
「っ……何でアンタがトミーを!」
何を言っているの?
トミーはあたしの友達よ――パパがあたしにくれたの。
「……パパ?」
ズキンと頭が痛む。
私に父の記憶は無いせいか、彼女の言葉が異様に引っ掛かった。
あんたは嫌い。
あたしから全部、全部、全部取って!
ずるい
ずるいずるいずるい――
「……」
もうこの際、女王の言う事はどうでもいい。
いつも私が嫌いとしか言わないのだから。
それよりも何故……生きているのか。
「どうして」
大切な体はミキサーで粉々にしたのに。
「何で」
後はあんただけ――
「……アンタ、一体何なのよ! どうしてこんなことばっかりするのよ!」
皮はぷるぷる揺れる。
でもその動きが止まる。
「私がアンタに、何したって言うのよ……!」
一瞬シンとした空気。風も静かになる。
いいよ、教えてあげる――
トミーの体だった布はパタリと倒れ、動かなくなる。
だけどその体も、次に吹いた風で何処かへ飛ばされていってしまった。
「……教える?」
あたしのところに来たら、教えてあげる――
女王の声だけが耳元に残り、あとはもう静かな空間に戻っていた。
もう、何も聞こえない。
もう、誰も居ない。
「……女王」
だけど、止まってはいられない。
向かう先は決まったのだから。
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