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アリス イン ヒステリア(隻眼アリスの修理と生まれる不一致)第8話

「落ち着いた?」

 帽子屋のお姉さんの問い掛けに私は頷く。
 それでもまだ鼻水が出るので、行儀が悪いけれど啜って、貰ったばかりの綺麗なハンカチで目と鼻を拭った。

「はい。おかわりどうぞ」

 お姉さんはそう言って、空になったティーカップの隣に新しいものを置いてくれる。凄く良い香りがする。

「このハーブティー、私のお気に入りのブレンドなの」
「ありがとうございます……」

 手を伸ばして陶器のカップに口をつける。すると温かいせいで、また鼻水が出てきた。誰か私にティッシュを頂戴。どうしてこの世界には鼻セレブが無いの。

「こちらは如何? 泣き虫アリスさん」

 ツンツンとお姉さんがお皿を指してくる。
 そこに載っていたクッキーも有り難く一枚頂く。

「……美味しい」
「嬉しい! せっかく作っても、ここだと食べてくれる人が居ないから」
「可愛くて手先で器用で、作るお菓子も美味しいってズルい」
「あらあら。褒めても何も出ないわよ?」

 と言いつつ、お姉さんは立ち上がる。

「それじゃあ……とっておきとシフォンケーキ、出しちゃおうかな」

 ふふと小さく笑って、鼻歌交じりで彼女は奥へと消えていった。

 
 イモ虫との一件が終わった後、猫に連れられて、私はこの帽子屋を再び訪れていた。
 
 猫からは、あらかじめ「イモ虫の言葉は妄想だから鵜呑みにしてはいけない」と強く言われていたが……あの姿、世界への絶望。たとえ虚言と分かっていても、そんな彼を消した自分に強い罪悪感を抱いた。
 しかも、まだ帰れない。
 悲しくて。彼の絶望も悲しくて。
 けれど今の私に何が出来るのか。そう考えても、何も出来ない。イモ虫の前で本当に無力なのは、私の方だった。

 帰りたい気持ち。
 でも誰かを傷付ける事への抵抗。
 それでも帰りたい。たとえ夢の世界の住人を傷付けてでも。
 
 そんな葛藤のバランスが崩れて、イモ虫の家を出てから私はずっと泣いていた。泣いてばかりいる私を猫はここに置いていき、「落ち着いたら出ておいて」とだけ残して去っていった。
 

 そうして今、帽子屋のお姉さんに話を聞いてもらっていた。
  お陰で気持ちが大分落ち着いてきた。温かいもてなしに、ひたすら聞きに徹してくれる姿勢はとても有り難く、心地良かった。
 
「シフォンケーキなら生クリームとラズベリージャム、どちらがお好き?」

 大きなケーキを両手で抱えて、奥から戻ってきたお姉さんはそんな風に笑顔で尋ねてきた。

 得体の知れないこの世界でも、友達のような、姉のような……そんな嬉しい存在。優しくて温かくて、支えてくれる人。
 もし猫に言われても、この人とだけは戦いたくないと強く思った。
 


 
 出されたケーキを二人でどうにか平らげる。はちきれんばかりに膨れたお腹をお互い撫でて、一緒に笑った。

「もう食べられません……」
「ふふっ」
「お姉さんも食べたのに、何で私を見て笑うんですか」
「いーえ? やっと笑ってくれたと思って」

――本当に敵わない。

 今度は嬉しくて泣きそうになるが、お姉さんを心配させない為にも、ぐっと堪えた。

「……このまま、ここに居れば良いのに。そうしたら何も悲しい事なんて無いのよ」

 お姉さんはカップに口をつけて、小さく呟く。
 私はカップの紅茶に映る自分の顔を見つめた。

「ううん……帰らないと」
「どうして?」
「おばあちゃん、待っててくれるから。学校の友達にも会いたいし」
「私はお友達じゃない?」
「そんな事無い! お姉ちゃんみたいで……えっと……」

 答えに困っていると、帽子屋さんは優しく微笑んで「冗談よ」と小さく言った。

「おばあちゃん子なの?」
「うん」
「そっか。私もね、おばあちゃん子なんだ」

 気のせいか、笑っているはずの彼女の表情が少し悲しそうに見えた。

「同じですね」
「ふふ、そうね。一緒」
 
 
 
 

 どの位か、そうして居て。
 ふと猫との約束を思い出す。落ち着いたら外に出るように、と。
 
 この部屋には時計が無いから、今が何時なのかは分からない。むしろうさぎの時計屋さんで以外、時計を見た事が無い。
 暗いこの世界では、時間の流れは自分の感覚しか当てにならなかった。それでも半日は過ぎている気がする。幾らあのおかしな猫とはいえ、いつまでも待たせるのは気が引けた。

「あら? もう行っちゃう?」
「はい。ご馳走になりっぱなしですみません」
「いいのよ。一緒にティータイムしてくれる人が居るだけで、私は嬉しいから。またおいで」
「はい! ありがとうございます」

 立ち上がり、扉に向かおうと――
 
「あ!」

 だけどそこで、突然大きな声を出す帽子屋さん。
 何事かと驚いて、私の体は椅子へまた戻ってしまった。

「目玉、直ってるわよ。今持ってくるから待ってて!」

 両手をぱちんと合わせて、お姉さんは奥へと走っていく。
 ああそうだ。頼んでいたのだと思い出す。
 
 目玉――うさぎに刺された、左目。
 
 うさぎとの戦いの後、お姉さんにまた傷を見てもらった。
 傷は深く、一度目玉を取り出して直さなければいけないと言われて、彼女に預けたままだった。

 ドライバーの先端は網膜まで届いていたそうだ。 
 だけど、それはむしろうさぎなりの気遣いであったのではないかと彼女には言われた。眼球を通り抜けて、頭蓋骨まで貫通していれば……そこにあるのは脳。
 
 うさぎは私を消す事も出来たのに、あえてしなかったのかもしれない――そう言われた時、気持ちは複雑だった。申し訳無さと、感謝と、何故。
 
 そうこう考えているうちにお姉さんが戻ってきた。手には容器が握られている。

「タ、タッパー?」
「あら、だって乾燥したらいけないじゃない。ドライアイって痛いのよ?」
「そ、そうですか……」
「なんちゃって」
「え?」
「確かに湿潤状態が良いけどね。ここなら乾いていても大丈夫そうだけど、ついつい水に浮かべちゃうのよね」

 お姉さんは慣れたら冗談も言う人らしい。
 果たして今のは冗談かというと少々疑問だが、大した問題では無いので気にしない。そういう間柄になれた事が私には嬉しかった。

「すぐ終わるから我慢してね」

 タッパーの蓋を開けると、中には黒い瞳の目玉が浮かんでいた。
 ドライバーで貫かれて出来た傷は、透明な糸で縫われている。
 取り出した時はぺこっと凹んでいた形も、今は丸い球体に戻っている。

「こっちを向いて。しばらく動かないでね」

 お姉さんは私の隣に座る。私は頷き、彼女の方を向く。
 机の上には見慣れた針と糸、それに今回はピンセットも用意されていた。

「それじゃあ、まずは義眼を取り出すわね」

 お姉さんは私の顔に手を伸ばしてくる。今はそちら側に視野が無いので、怖くはない。ただ目蓋と目の下の皮膚を引っ張られる感覚に、顔全体の筋肉が引きつった。

 皮膚を引っ張って、出来ただろう隙間に、お姉さんの指が入ってくる。
 ぐちゅりと粘着質な音。
 でも、それもすぐに終わった。
 机の上には、今し方まで入っていたであろう金色の瞳の眼球が出ていた。

「余り気持ちの良いものじゃないでしょう?」
「嫌な感じ……痛くないけど、ぬちゃっとしてて、変な感じ」
「だから眼帯にすれば良かったのに」

 眼帯――その単語に、前回来た時を思い出す。

 穴があいた目を治すためには、一度眼球を取り出さなければならない。
 だが、内側からの支えを失った目元は歪に凹む。
 目が治るまで間、その凹みを隠すためにも何かをした方が良いのではないか?

 そこで提案されたのが、眼帯か、人形に使う義眼だった。
 
『付け外しする時に違和感が大きいから、義眼はお勧めしないわよ』

 それに義眼は数が少なくて、色の種類も無い。眼帯の方が楽だと重ねて言われたが、それでも私がお願いしたのは義眼だった。
 
「眼帯が怖いだなんて、変なアリスちゃん」

 
――眼帯が怖い。

 眼帯というものが怖くて、どうしてもつける気にはなれなかった。
 多分、小さい頃……お母さんがつけていたのを見たから。

 でもどうして、あれが怖い記憶になっているのだろう。
 お母さん、何で眼帯をつけていたんだっけ……怪我……?


 
「じゃあ神経を繋ぐから、動かないでね」

 ピンセットを指先に持ち、中身が入っていない眼窩へそれを運ぶ。
 やはり視界には入ってこないが、時折くすぐったい感触が目の奥でした。

「……やっぱり行ってしまうのね。誰かと戦いに」

 残された片目でお姉さんを見ていると、お姉さんはそう言った。

「……そうですね」
「アリスちゃん自身も怖い目に遭うのよ」

 お姉さんは眉をひそめる。私の身を案じてくれるのは嬉しかった。

「それに、そろそろ女王が貴方に目をつける頃だわ」
「女王……」

 その言葉は、以前にも彼女の口から聞いた。
 実物は知らなくても、容易に想像出来る存在を口の中で繰り返す。

 いつか――戦わなければならない相手だろうか。

「やっぱり首をはねるのが好きなんですか、女王って」
「ううん、どこが大切なのか探すのが面倒臭いからミキサーにかけちゃうの」
「ミ、ミキサー?」
「そうよ。いつも双子も狙われているの」
 
――双子?
 
 それは初めて聞く名前。
 お姉さんは私の様子に気付いたのか、説明を付け足した。

「……私のお友達なの。男の子と女の子の二人組」
「お姉さんの友達が、女王にいつも狙われているんですか?」
「ええ、そうよ。昔はもっと沢山の仲間が私達には居たのだけど、女王がほとんどミキサーにかけてしまって……残っている双子を女王は執拗に狙っているの」

 アリスの女王といい、ここの女王といい、どうしてそこまで執拗に狙うのだろうか。そんな疑問を投げ掛けたが、お姉さんも首を傾げるだけだった。

「さぁ……私も詳しくは分からないわ。猫さんなら何か知っているかもしれないけど」
「猫が? アイツって一体何なの?」
「猫さんは導く人。今までの流れだったら、うさぎさんがこの世界を案内して、猫さんがどうやって生きていくのかを、私達に教えてくれたの。猫さんはきっと……この世界をよく知っているのね」

 分かるような、分からないような。
 そんな曖昧な答えに、私はふうんとだけ呟いた。

「女王には気をつけてね」
「お姉さんは平気なの?」
「勿論狙われた事あるわよ。だから、こうやってひっそり暮らしているの。お客さんを待ちながらね」
「寂しくない?」
「帽子が作れるなら、私は幸せよ」

 そこはやはり帽子屋らしい言葉を彼女は返してきた。
 ただ、寂しくないかという箇所には答えが無いのが気になった。
 
「……私、また来ても良いですか?」

 そのせいか、現実へ帰りたいはずなのにそんなことを口走っていた。
 
 でも、それで微笑んでくれたのなら、良しとしたい。
 
「勿論よ! 歓迎するわ」
 
 帰りたいはずなのに、また来たい――そんなジレンマ。
 この世界に染まってきてしまったのだろうか。
 どちらにせよ、私はこの人が好きだと思った。
 
「でも、帰りたいんでしょ?」
「あ……」
「いいのよ、ありがとう」
「私、帰ってもお姉さんの事は絶対忘れない」
「もう……ほら、動かないの」
「はーい」
 

 そうこう話しているうちに縫合が終わったのか、パチリと鋏の音がした。

「じゃあ戻すわね。押される感じがあると思うけれど、我慢してね」

 覚悟して、衝撃を待っていると……ずん、と目の奥に異物が押し込まれる感覚があった。

「……見える!」
「良かった」

 ゆっくり目蓋をあげると、久し振りに立体感のある世界が広がっていた。
 毎回の事ながら、適当な作りになってしまった自分の体を恐ろしいと思う。だがお陰で治り易いのだから、これはこれでアリなのかもしれない。
 どちらかと言えば、世界に慣れつつある自分がある意味で恐ろしかった。

「凄い! お姉さん、ありがとう!」
「いえいえ」

 戻った世界が嬉しくて、思わず立ち上がる。周りを見渡す。

 これならまた戦える。
 

――そうだ、そろそろ猫の元へ行かないと。

 私はそう思い、彼女の方へ向き直った。

「色々ありがとうございます。お姉さん。また来るね」
「ええ、また来てね」

 最初に出会った時と同じように、お姉さんは顔の横で小さく上品に手を振る。
 一方で、私は大きく両手を振る。

――また来たいな。

 それは本心だった。
 またなんて来ないで、このまま元の世界へ帰れたら一番良いはずなのに、そんな事を思った。

 手を振って……扉を潜る。

 こうして、私は帽子屋から離れた。
 
 
 



「……あら?」

 静けさを取り戻した帽子屋では、机に残された物に気付く。

 それは本来、この店には置いていない物。
 いや……奥の台所へ行けばあるのだが。

 恐らくは先程までいた客の忘れ物。
 
「……」
 
 置いていかれた包丁を彼女はじっと見つめた。
 



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